リチャード・ニクソンは第37代のアメリカ合衆国大統領

歴代アメリカ合衆国大統領の中で、世界中の人々に人気があるのは、ジョン=F=ケネディですが、映画やTVの題材として多く取り上げられているのは、リチャード・ニクソン大統領です。それはなぜでしょうか。 今回はリチャード・ニクソンの生い立ち、弁護士時代の逸話、海軍入隊、名言や、失墜のきっかけとなった、ウォーターゲート事件について解説させて頂きます。
リチャード・ニクソンの来歴

リチャード・ニクソンは、第37代アメリカ合衆国大統領で、ウォーターゲート事件により失脚した大統領です。 弁護士からキャリアをスタートさせ、海軍から政界入りし、アイゼンハワー大統領時代に副大統領を務めた経験から、強かで粘り強い交渉力を持っています。 外交政策ではしたたか、かつ潔く、今まで国交がなかった中国・アフリカ諸国・アジア諸国との国交回復に尽力を尽くしたのは大いなる貢献です。 その一方で、国内経済を一気に立ち直らせる為に、ドルと金兌換を一時停止し、事実上固定相場を終焉させるきっかけを作るという劇的なテコ入れも行いました。
裕福な家庭で生まれる
リチャード・ニクソンは、1913年1月9日、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部オレンジ郡ヨーバリンダに住むアイルランド系の両親の元に生まれました。 幼少期を振り返りリチャード・ニクソンが「貧しかったが、幸せだった」と言及している理由は、父親の商才のなさから来ています。リチャード・ニクソンの父親は、農園の経営に失敗し、その後ロサンゼルスで農業や大工など職業を転々としていました。 母親の実家が裕福なクウェーカー教徒だったので、リチャード・ニクソンは、幼少期にピアノやバイオリンを習い、教養を身に着けることができたのです。
弁護士となる
リチャード・ニクソンの弁護士人生を一言で現わすとすれば「遅咲き」です。兄ハロルド、弟アーサーが結核に罹患し、医療費で家計は圧迫され、高校卒業後ハーバード大学に行く道を諦めざるを得なかったのです。 リチャード・ニクソンは、母方の祖父の援助を得て地元の大学で学び、ロースクールに入学しました。その後1937年に司法試験に合格しています。しかし司法試験合格後も、希望する大手弁護士事務所や、FBIへの就職はかなわなかったのです。 海軍除隊後、弁護士に復帰したリチャード・ニクソンは、ペプシコ社に就任。世界中に炭酸飲料の販売経路を作る事に力を尽くし、手腕を買われました。
海軍に入隊する
リチャード・ニクソンは1940年、高校教師のパットと結婚し、価格統制局(OPA)に転職しました。戦争が起こると経済が極度のインフレ状態に陥る事を予測し、物価統制を行う価格統制局に就職したのは、先を見る目があると言えます。 1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、リチャード・ニクソンは翌年の6月、海軍に入隊します。価格統制局での勤務経験がある事や、弁護士である事から、前線で闘う戦闘員ではなく、補給士官に任命されました。 補給士官から大統領になったといえば、第34代アメリカ大統領・ドワイト・d・アイゼンハワーも居ます。
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政界入りする
リチャード・ニクソンは、1946年、共和党下院議員に立候補、当選し、4年後の1950年には上院議員に立候補、当選します。 当時の「赤狩り」政策の波に乗ったリチャード・ニクソンは、共産党員と疑う人物であれば、政府高官だろうとリベラル派の議員だろうと、共産派と決めつけました。 極端な行いが故に、無用な敵を作り、地元住民から政治資金活動援助を受けていた事について、大衆紙から叩かれていたのです。 これに対しリチャード・ニクソンは、借入金などの私財を公開し、身の潔白を示しました。このリストは娘の愛犬の名前を取り「チェッカーズ・スピーチ」と言われています。
アイゼンハワーの副大統領
1953年に、リチャード・ニクソンは、副大統領に任命されます。主な功績は、今まで公式訪問がなかった、ラテン・アメリカ、アフリカ諸国への訪問です。その一方で、アイゼンハワー大統領と確執があったのは事実です。 アイゼンハワー大統領は、任期中に三回大病に侵され、その度にリチャード・ニクソンに、重責を背負わせていた一方で、赤狩りを思わせる彼の政治手腕を嫌っていました。 39歳からアイゼンハワー政権で二期副大統領を務めたものの、8年の功績が大統領選に繋がらなかったのは残念な話です。
一度大統領選に落選するも次の選挙で当選
共和党推薦を経て、リチャード・ニクソンは、1960年9月のテレビ討論に向けて体力気力を温存させる戦略を取っていました。しかし大統領前に体調を崩してしまいます。 テレビ映えする様な濃紺のスーツを着て現れた民主党のジョン=F=ケネディが、選挙の勝敗の鍵を握る事になり、大統領選に敗れます。 その後リチャード・ニクソンは、1968年の大統領選に再度出馬し、ベトナム戦争終結をスローガンに掲げ、大統領の座を手にしました。
リチャード・ニクソン政権の政策と特徴

在任中リチャード・ニクソンは、優れた政治手腕を発揮しました。後の世の中で当たり前になっている金融制度や、外交政策も、この時代に確立したものです。 斬新な政策が発表された当時は、賛否両論の嵐でしたが、具体的にどのような政策が取られたのでしょうか。
特徴①ニクソン・ショック
リチャード・ニクソンの、賛否両論を呼ぶ金融政策と言えばニクソン・ショックです。第二次世界大戦集結直前の1944年、連合国は、金1オンスを35ドルと交換できる固定相場制を、設けていました。 1960年代後半からアメリカは国内の金固定相場を維持するのが難しくなります。理由は、ベトナム戦争の泥沼化と、欧州各国の輸出増加です。 そこで、リチャード・ニクソンは、ドルと金の交換を突如停止します。それだけでなく輸入課徴金制導を導入し、相場も固定相場から変動制に移行しました。日本も、1ドル360円の固定レートが、ニクソン・ショックを機に崩れ、経済の流れが大きく変わりました。
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特徴②外交政策
外交政策は、全てが巧くいったとは限りません。公約としていたベトナムからの撤退は、サイゴン陥落にこだわった為、全軍撤退まで時間を要しました。 その一方で、ソビエト連邦との緊張緩和、中国との国交正常化では、駆け引きを用い、強かに自国の利益になるように応じているのです。日本の沖縄返還も、無償ではなく協定に基づき、日本が莫大な支出金を払っています。
特徴③国内政策
リチャード・ニクソン政権時に発足し、現在も存在する組織は2つあります。アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)と、麻薬取締局(DEA)です。共和党出身の大統領で意外と思われるかもしれません。 前者は、支持政党の反対を押し切り設立し、後者は、ベトナム戦争によりヒッピーの間で蔓延した麻薬を本格的に取り締まる独立部署を作る為でした。
リチャード・ニクソンとウォーターゲート事件

リチャード・ニクソンが失脚するきっかけとなったのが、ウォーターゲート事件です。事件直後から現在まで、ウォーターゲート事件は、幾度となく映画化されています。 1972年6月、現役の大統領が再選をかけ、大統領選の予備選の終盤を迎えたさなか起きたのが、この事件だったのです。
リチャード・ニクソン大統領は大統領選で再選
1972年の大統領選で、リチャード・ニクソンは再選を果たします。ロバート・ケネディの暗殺をはじめ、民主党候補にスキャンダルが相次いだことにより、共和党に追い風が吹いたのが要因です。 副大統領は、スピロ・アグニューが務めるはずでしたが、知事時代の収賄の事実が露見し、辞任に追いやられます。これをきっかけに、リチャード・ニクソン政権は崩壊に向かうのです。
ウォーターゲート事件によりリチャード・ニクソン大統領は辞任
リチャード・ニクソンは再選の時に、資金と情報収集は公にせず非公式組織を使っていたのが裏目にでました。 1972年6月、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内の民主党全国委員会本部オフィスに何者かが、侵入し盗聴器をしかけたというニュースが流れます。 『ワシントン・ポスト』の記者である、ボブ・ウッドワード、カール・バーンスタインは、謎の人物『ディープスロート』から情報を得て、次々と事実を紙面に公表します。 大統領側近の政治家は次々と起訴され、下院が弾劾を決定し、1974年8月、リチャード・ニクソンは辞職に追いやられました。
リチャード・ニクソンの名言

リチャード・ニクソンの名言は、彼自身の生き方が反映されているものもあれば、後に生きる私たちに参考になるものもあります。 ・真実に忠実であることを誓おう。 ・人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ。 以下の2つの名言は、リチャード・ニクソンが、人種、性別を問わず、生きることを諦めないことこそが、人生の目標だと、示しています。
まとめ

リチャード・ニクソンという人間を一言で現わすとすれば「強かな政治家」です。 奨学金でハーバード大学に行けたはずが、兄弟を結核で亡くした為に、地元の大学に奨学金で進学する所から、リチャード・ニクソンの不屈の人生は始まりました。後にソビエト連邦や中国を訪問した大統領が、下院議員時代に赤狩りの一員だったとは意外かもしれません。 もしも大統領再選に固執せず、ウォーターゲート事件でリチャード・ニクソンが失脚しなければ、現在の共和党の在り方も変わっていたのでしょうか。