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ジミー・カーターは第39代のアメリカ大統領!経歴や名言や人権外交の詳細まで解説!

 

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ジミー・カーターはアメリカの第39代大統領

(画像:Unsplash

ジミー・カーター氏は海軍出身のアメリカ大統領として有名です。大統領在任中は、国内政策や人権外交が批判されることも少なくありませんでしたが、解任後もアクティブに活動し、後の外交政策にも大きな影響を与えています。 2002年にはノーベル平和賞を受賞するなど、その功績が称えられているジミー・カーター氏について、その経歴や名言、人権外交について解説します。

ジミー・カーターの経歴

(画像:Unsplash

ジミー・カーター氏は海軍退役後、ピーナッツ農夫として成功した後、第39代アメリカ大統領にまで上り詰めた男として有名です。 しかし、大統領時代は外交政策の失敗などもあり、わずか1期(1977~1981年)でその座から追われてしまいます。大統領としては不遇でしたが、アメリカン・ドリームを体現した男であるジミー・カーター氏の経歴は非常に興味深いものです。

海軍となる

1924年生まれのジミー・カーター氏は、フードショップオーナー兼農夫家の父と看護師である母の元に生まれ、ジョージア工科大学卒業後は海軍に入隊しています。 海軍では潜水艦勤務に従事したほか、原子力潜水艦の開発プログラマーとしても活躍しています。また、1952年にカナダのチェークリバー研究所で起きた原子力事故の際には、その対応にあたり被爆した経験もあります。 ちなみに、潜水艦勤務に従事したことのある初めてのアメリカ大統領がジミー・カーター氏です。

ジョージア州知事

着実に海軍でのキャリアを積み上げていたカーター氏ですが、1953年、実父の死去を契機に海軍を辞めることになります。 その後、妻とともにピーナッツ栽培を独学で学び、大きな成功を収めます。1961年にジョージア州の上院議員、1971年にはジョージア州知事となり1975年までその任務を遂行します。 ジョージア州知事時代のカーター氏は、人種差別撤廃、行政改革、教育格差の是正といった、大統領になってからの政策にもにも通じる取組みを展開し評価を得ました。

大統領就任

1976年のアメリカ大統領戦において、民主党から出馬したジミー・カーター氏は現職のフォード氏を僅差で破り、第39代アメリカ大統領の座を射止めます。 当時のカーター氏はジョージア州知事といった経歴はあったものの、中央政界では無名の存在であり「Jimmy, Who?」といった言葉で揶揄されるほどでした。 しかし、ウォーターゲート事件において当時の与党に嫌気が差していた国民票を取り込み、徹底的なマーケティング戦略で世論を味方につけたカーター陣営の戦略は見事に当たったのです。

ジミー・カーターの国内政治

(画像:Unsplash

ジミー・カーター大統領の国内政治における代表的な政策といえば、エネルギー省及び教育省の設立、航空規制緩和法の施行があげられます。 エネルギー省は、冷戦真っ只中の時代背景において、核兵器の開発管理といった大きな役割を担っていたほか、エネルギー源の確保や原子力技術をはじめとする先進技術の開発を行う官庁でした。 なお、カーターショックと呼ばれる経済政策においては、公定歩合を1.0%に引き上げましたが、世界中を席巻したオイルショックの影響もあり、高インフレと不況に苦しむことになりました。

ジミー・カーターの外交政治

(画像:Unsplash

ジミー・カーターの外交政治は「人権外交」を推進し、中東和平に尽力した結果、キャンプ・デービッドを合意させるなど一定の成果を引き出しましたが、後にユダヤ人の反発を招きます。 その一方で、イラン革命に端を発する人質事件ではその対応に批判が集まり「弱腰外交の推進者」とされることもありました。 また、これら度重なる外交問題に振り回され、国内政治にも影響を及ぼす結果となり、外交政治の不備がカーター政権を短命なものとした一因でもあります。

人権外交

カーター大統領の外交政策において特徴的なのが「人権外交」と呼ばれるものです。人権外交とは、人権尊重をキーワードに被援助国に対する支援を行うものですが、政治介入にもなりかねない側面も持っています。 カーター政権当時は米ソが対立した冷戦の時代であり、様々な国々で紛争が勃発していました。 中東においてはイスラエルとエジプトが対立していましたが、カーター大統領の尽力により1978年にはキャンプ・デービッド合意が成され、人権外交の成果の一つとして広く知られています。

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