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ドワイト・d・アイゼンハワーは第34代アメリカ大統領。彼の名言や功績の数々とは?

 

もくじ

ドワイト・d・アイゼンハワーはアメリカの第34代の大統領

ドワイト・d・アイゼンハワーはアメリカの第34代の大統領として1953年から1961年までの2期8年務め、数々の名言を残しました。 アイゼンハワーは1890年10月14日、テキサス州の農家に生まれ、陸軍士官学校に進学し卒業後は第二次世界大戦の司令官などを歴任し活躍します。大統領就任後は戦後処理などで実績を上げますが、東西冷戦や人種問題などに悩まされ続けました。

ドワイト・d・アイゼンハワーはIkeと呼ばれていた

貧しい家に生まれたアイゼンハワーでしたが、家族愛に恵まれた少年時代を過ごしました。好青年のアイゼンハワーを仲間は親しみを込めて「Ike(アイク)」と呼んでいました。 母親からは厳しく躾けられ、「努力しなければ何も得られない」という信条を学びました。そして「溺れたくなければ泳ぎなさい」という母親の教え通りの人生を歩みます。 また、高校生時代はフットボールの名プレーヤーとして活躍しました。

ドワイト・d・アイゼンハワーの経歴

アイゼンハワーは高校卒業後は大学進学を希望しますが、家庭の経済的事情により進学を諦め、ベルスプリングのバター工場で働きます。そこで陸軍士官学校は無償であることを知り同校に進学しました。 卒業後は戦地で実績を上げ連合国遠征軍最高司令官などを歴任し、「ノルマンディー上陸作戦」を立案指揮するなどの活躍をみせます。まずはアイゼンハワーの大統領就任までの功績を振り返ってみましょう。

軍に入隊する

1915年、アイゼンハワーは士官学校を卒業し陸軍省では補給兵站の立案に従事し様々なキャンプで軍務に就きます。しかし、第一次世界大戦では従軍を志願しますが許可されませんでした。 平凡な軍人として終わるかに思えたアイゼンハワーでしたが、戦地で3人のメンターと出会ったことで才能が開花します。 1人はフォックス・コナー、2人目はダグラス・マッカーサー、3人目がジョージ・C・マーシャルでした。特にフォックス・コナーからは軍事、哲学など軍人に必要な教養を徹底的に仕込まれました。

連合国遠征軍最高司令官に就任

1935年、アイゼンハワーはフィリピンの軍事顧問に就任し、ダグラス・マッカーサーの下で現地軍の育成に従事します。彼は偉そうなマッカーサーを指揮官にふさわしくない人物と評していましたが、マッカーサーからは軍政・政治を学びました。 1941年12月に日米が開戦すると、フィリピンでの経験を買われ参謀本部戦争計画局次長に就任します。真珠湾攻撃後にジョージ・C・マーシャルから求められた作戦案が認められ、彼の信任を得ます。 1942年6月には対独上陸作戦を立案し、同年6月にヨーロッパ戦域の連合国遠征軍最高司令官に就任します。

NATOの軍最高司令官にも就任

戦後処理に米と西側諸国は大きな問題を抱えていました。それはソ連の侵略地域の近くにドイツの旧首都ベルリンがあり、ヨーロッパ全域がソ連の脅威に晒されていたのです。 ベルリンを巡り一進一退の攻防が続き、不安定なヨーロッパ諸国が軍事的に団結するために1945年11月に北大西洋条約機構(NATO)軍が創設されました。 アイゼンハワーは1948年からコロンビア大学総長を務めていましたが、1950年にNATOの連合国遠征軍総司令官に就任することになります。アイゼンハワーによって、軍の組織化と米軍の欧州配備が実現します。

大統領に就任

1952年、アイゼンハワーは数々の功績やNATOでの実績を評価され、共和党の大統領候補に担ぎ出されます。アイゼンハワーは俗にいう職業政治家ではなく、戦争の英雄として国民に迎えられました。 「アイク」という愛称で国民から親しまれ、「I like Ike」をスローガンに選挙戦を戦い、民主党のフランクリン・ルーズベルトを破り第34代アメリカ大統領に就任します。 この選挙によって20年間という長期政権を維持していた民主党政権から、ようやく共和党が政権を奪い返したのです。

ドワイト・d・アイゼンハワーはとても人気の大統領だった

戦争の英雄であったアイゼンハワーは庶民的な雰囲気を持ってこともあり、国民から絶大な人気を得ました。トルーマンが政治主導を目指したのとは対照的に、アイゼンハワーは人をまとめ上げる技術に優れていたため、細かい実務にはあまり口を出しませんでした。 行政管理者としての役割に徹していたアイゼンハワーは、政権内のスタッフの間でも評判がよかったようです。彼の行った政策を紹介します。

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