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桜田門外の変の影響や井伊直弼と幕府の動きとは。

 

もくじ

1分でわかる桜田門外の変

桜田門外の変とは

  • 水戸藩士急進派による井伊直弼暗殺事件
  • 井伊直弼の不遇な幼少期と幕府の大老になるまでの生涯
  • 桜田門外の変で動いた幕末・幕府の失墜と明治維新

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桜田門外の変とは

(画像:Unsplash

当時の幕末政治は将軍の承継と米国との条約勅許問題で揺れていました。第13代徳川家定(いえさだ)が病弱だったため大老に就任した井伊直弼が徳川家茂(いえもち)を将軍に専下し、日米修好通商条約を結びます。 孝明天皇の政治関与と一橋慶喜(よしのぶ)を押す一橋派は井伊直弼と対立したため、安政の大獄という反乱分子を容赦なく処罰する弾圧を受けます。これに不満を持った水戸藩士らが江戸城桜田門外で井伊直弼を襲撃し暗殺を実行します。

井伊直弼が暗殺された事件

大老となり事実上の権力を握った井伊直弼にとって、正当な順位継承を守り将軍に専下した紀州慶福(よしとみ)に対して天皇攘夷と一橋慶喜を押す一橋派は反乱分子でしかありません。 井伊直弼はこのままでは徳川家の権威が失墜してしまうと考え安政の大獄という大弾圧を始めます。 この大弾圧の恨みと実権を握りたい一橋派は井伊直弼の排除を計画します。そして安政7年3月3日(1860年3月24日)、井伊直弼は江戸城に登城し桜田門をくぐったところを水戸藩士らに襲われ暗殺されてしまいます。

水戸浪士によって実行された

水戸藩は幕府に従おうとする保守派と朝廷を仰ぐ急進派に分かれていました。急進派は幕府に付く井伊直弼暗殺を計画し保守派と決別し脱藩します。 水戸藩主の徳川斉彬(なりあき)は幕府に急進派の説得を頼みますが、急進派の水戸藩士はそれをかいくぐり江戸へと上ります。急進派の水戸浪士は、井伊直弼と共に水戸藩に圧力をかけていた安藤信正(のぶまさ)らも襲撃の対象にしていました。 しかし、警備が厳しかったこともあり計画を変更し井伊直弼のみに狙いを定めます。襲われた井伊直弼も武芸は自ら流派を構えるほどの腕前でしたが多勢に無勢、拳銃で腹を撃たれ首をはねられ絶命します。

井伊直弼

(画像:Unsplash

井伊直弼は井伊直中(なおなか)の14男とし近江国犬上郡(現:滋賀県彦根市金亀町)で生まれました。32歳までを部屋住みとして過ごしますが、そこで兵学・古典文学などを学び剣術にも励みました。 そんな井伊直弼でしたが兄の井伊直元(なおもと)と井伊直亮(なおあき)が死去したため彦根藩主となり、ついには幕府の大老へと出世します。ここからは井伊直弼の生涯を見ていきましょう。

幕府の大老

幕府内で力を付けてきた井伊直弼に大問題が起こります。マシュー ペリーの黒船が来航し日本に開国を求めてきたのです。 当時の征夷大将軍の徳川家定(いえさだ)が病弱だったこともあり、老中の堀田正睦(ほったまさよし)が幕府の大老人事や条約勅許問題などに奔走します。 堀田正睦は松平慶永(しゅうがく)が大老に相応しいと押しますが、徳川家定は徳川四天王の家系である井伊直弼が適任であると大老に就任させます。

安政の大獄を実行した

大老に就任した井伊直弼は時期将軍は徳川家と血筋が近い紀州慶福がふさわしい考えていましたが、一橋派は一橋慶喜(よしのぶ)を時期将軍に就かせようと画策します。 井伊直弼は譲らず、彼らを反乱分子とし意見の交わらない一橋派の人間を次々と弾圧していきます。 孝明天皇を担いで朝廷を政治参加させようとした者や、倒幕を画策した知識人らも処刑や謹慎の処罰を受けます。

桜田門外の変を読み解く背景

(画像:Unsplash

こうした井伊直弼の政権運営をよく思わなかった一橋派は開国を快く思わない孝明天皇から政権運営を批判する勅書を受取り、それを水戸藩が諸藩に回覧しました。朝廷が政治に関与することは幕府の統治を揺す一大事でした。 幕府は孝明天皇の密勅に関わった者に大弾圧を行います。世にいう「安政の大獄」です。しかし、これが水戸藩急進派を動かし桜田門外の変へと繋がっていきます。

将軍の後継者問題

当時の征夷大将軍は徳川家定でしたが、病弱の上に精神的にも弱い人でした。そのため早くから後継者を誰に据えるかの論争が起きていました。後継は徳川家と血縁の近いものが選ばれるのが慣例でした。 そこで紀州慶福が次期将軍として選ばれます。しかし天皇を担ぎ出し勅命で征夷大将軍を決めようとする一橋派は一橋慶喜を盛り立てて将軍に据えようと画策します。 今までの慣例を押し通したい井伊直弼がこの権力争いに勝利し、一橋派と井伊直弼の対立は深まっていきます。

日米修好通商条約

日米和親条約によって下田に赴任していたタウンゼント ハリスは、幕府に覇権国イギリスやフランスの脅威を説き、日米修好通商条約の締結を迫ってきました。 条約は最恵国待遇、治外法権、関税自主権喪失と一方的に米国が有利な内容でした。条約を結んだ井伊直弼は「戦わずして不平等条約を受け入れた売国奴」といわれ続けることになります。 しかしイギリスやフランスに侵略され植民地となった他の国々と比べれば、半文明国として生き延びたことで日本は救われたという面も見逃してはいけません。

安政の大獄

井伊直弼は孝明天皇の勅許がないまま条約は結べないと主張していましたが、周囲の意見に押され結果的に条約は結ばれてしまいます。これが孝明天皇の怒りを買い戊午の密勅が諸藩に回覧されることになります。 この密勅によって幕府の権威が衰えることを恐れた井伊直弼は、自身の政策に異議を唱える反対派や倒幕を企む者達を大弾圧する安政の大獄を断行します。安政5年のことでした。 この安政の大獄では右大臣や左大臣、一橋家当主の慶喜などの権力者や松田松陰(しゅういん)のような知識人など多くの人が処罰されました。

実行者たちは尊王攘夷派

孝明天皇の勅許がないまま日米修好通商条約を結んだ井伊直弼は朝敵であり、尊王攘夷派を大弾圧した極悪人として藩士から命を狙われることとなります。 井伊直弼は水戸藩に渡った戊午の密勅を朝廷に返納させようとしますが、これに反発した尊王攘夷派の水戸藩士急進派は、高橋多一郎らを中心に井伊直弼の暗殺を計画します。 安政7年3月3日井伊直弼は節句の祝儀のために登城したところを襲撃され、水戸藩主17人、薩摩藩士1人によって殺害されたのでした。

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