\ 琉球風水志 シウマの占いページはこちら /

野村克也さんが死去。三冠王を獲得した名捕手で監督としても日本一に。

もくじ

野村克也さんが死去 84歳

野村克也さんが死去

  • 野村克也さんが虚血性心不全で死去
  • 好守好打の名選手として活躍・戦後初の三冠王
  • 数々の明言を残す・各方面から悲しみの声

自宅の浴槽で家政婦が発見

11日の未明、野村克也さんは東京都世田谷区にある自宅の浴槽でぐったりと倒れているところを家政婦に発見され、心肺停止の状態で救急搬送されましたが、虚血性心不全のため亡くなりました。84歳でした。 野村克也さんは1935年6月29日生まれ。京都府網野町出身で、1954年にテスト生として南海ホークスに入団した後、1965年に戦後初の三冠王に輝くなど「打ってよし、守ってよし」の名選手として活躍しました。

2017年に妻・野村沙知代さんが死去

野村克也さんは2017年に長年連れ添った妻・野村沙知代さんに先立たれています。野村沙知代さんとはおしどり夫婦としても知られていました。 野村克也さんは生前に妻の野村沙知代さんについて、「現役時代のスランプの時や、引退後の苦しい時期に支えになってくれた」と語っています。 野村沙知代さんはその強烈なキャラクターで人気を博し、「サッチー」の愛称で呼ばれバラエティー番組などで活躍しました。

選手としても指導者としても活躍した野村克也さん

野村克也さんのプロ野球人生は、1954年に南海のテスト生としてから始まります。一軍では歴代2位となる本塁打657本を含め、2901安打、1988打点とバッターとして活躍したほか、名キャッチャーとしてベストナインを19回受賞しています。 1970年から1977年まで南海で監督兼任選手となり、ヤクルト、阪神、楽天では専任監督として采配を振るい、ヤクルトを日本一に導きました。

選手としては三冠王

野村克也さんは1965年に戦後初の3冠王に輝いたことでも有名です。野村克也さんは強打者として知られ、1963年には当時のプロ野球新記録となるシーズン最多の51本塁打を記録し、8年連続でホームラン王を獲得しています。 また、強肩の捕手としても活躍し、「打ってよし、守ってよし」の選手としてベストナイン賞を19回受賞しました。 通算成績は2901安打、ホームラン657本、1988打点をマークし、平成元年には野球殿堂入りを果たしています。

監督としても日本一に輝く

現役を引退後はしばらく野球解説者として活躍していましたが、1990年にヤクルトの監督に就任すると、当時では珍しかったデータを駆使した戦術で勝ち星を重ね、「ID野球」として世に知られるようになりました。 そして、1992年、1993年と2年連続でリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは1992年には西武を破り日本一に輝きました。 監督時代には、選手を見つめながらぶつぶつと呟く様子を捉えたテレビ映像が話題となり、「野村のぼやき」と親しみを込めて呼ばれ人気となりました。

 

各方面からの悲しみの声

野村克也さんの訃報を受け、球界をはじめ各方面から悲しみの声が聞かれました。

数多くの名言も残した野村克也さん

野村克也氏はその生涯に数多くの明言を残しています。もっとも有名な言葉は、自身の事を月見草に例え、当時の花形選手であった王貞治氏、長嶋茂雄氏との違いに触れたものです。 「王や長嶋の存在は華々しい。でも、花の中にはひまわりだってあれば、人目に付かない場所でひっそりと奇麗に咲く月見草だってあるんだ」と、陰で努力を積み重ねることの尊さを説いています。 ほかにも、「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」「マー君、神の子、不思議な子」「言い訳は進歩の敵である」「心配は行動力の不足から起こる」「他人の忠告は天の声」「人生とは今日一日のことである」など、多岐に富んだ名言を数多く残していました。

 

よかったらシェアしてね!
もくじ
閉じる