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南雲忠一は日本の海軍。賛否両論ある彼を様々な観点から考察。

もくじ

南雲忠一という人物

南雲忠一とは

  • 南雲忠一は日本海軍の軍人で1944年3月に第一航空艦隊司令長官として着任
  • ミッドウェー海戦で空母4隻を失う
  • サイパン島守備軍を率いたが玉砕し自決

南雲忠一の人生

(画像:Unsplash

1887年3月25日に山形県に生まれた「南雲忠一」は1905年に海軍兵学校に入校し優秀な成績で卒業しました。そして海軍少尉候補生として、軍人としてのキャリアをスタートします。 ここでは軍人を志してからサイパンで自決を果たすまでの「南雲忠一」の人物像に迫ります。

南雲忠一は将来有望な海軍として海軍学校を卒業

南雲忠一は1905年米沢尋常中学興譲館を卒業し海軍兵学校36期に入校します。 在校中には2回学術優等賞を授与されるほど成績優秀だったといいます。1908年に海軍兵学校を卒業する時には36期191名中、成績は5番目でした。 1918年12月1日に海軍大学校に甲種18期生として入校し、1920年には次席で卒業しています。そして同年12月1日には、海軍少佐に昇進しました。

卒業後に艦隊派として軍の縮小に反対する活動をした

1930年当時の日本海軍はロンドン海軍軍縮条約を締結したことで、海軍省寄りの条約派と軍令部よりの艦隊派が対立していました。 南雲忠一は艦隊派の論客として、軍縮条約締結並びに軍の縮小に反対する活動を行っています。 そのため1933年にはロンドン海軍軍縮条約から日本が脱退することを求めて、連合艦隊の各艦長並びに航空隊指令たちから署名を集めたこともあったそうです。

第一航空艦隊の司令長官となる

1920年に海軍大学校甲種18期生を次席で卒業した「南雲忠一」は「樅」艦長・第一水雷戦隊参謀・「嵯峨」「宇治」「那珂」艦長・第十一駆逐隊司令・「高雄」「山城」艦長・第一水雷戦隊司令官・第八戦隊司令官・第三戦隊司令官などを務めました。 そして1941年4月に第一航空艦隊の司令長官を任命されます。 第一航空艦隊とは世界史上初めての機動部隊のことで、日米開戦を念頭に置き航空戦力を集中的に運用するためにつくられた組織でした。

真珠湾攻撃

1941年12月8日の日本による真珠湾攻撃が日米開戦のきっかけになったことは有名です。 真珠湾攻撃の目的は日本に侵攻するであろうアメリカ艦隊を漸減(ぜんげん)させることでした。「南雲忠一」中将が率いる第一航空艦隊が真珠湾攻撃を実行しています。 その攻撃によりアメリカの戦艦4隻を撃沈、2隻を大破させるという成果をあげました。その際三川軍一中将は再攻撃を行うことを提案しますが、当初より反復行動は行わないことを決めていた南雲中将は日本に帰還しています。

ミッドウェー海戦

「ミッドウェー海戦」はミッドウェー島海域で1942年6月5日から7日に行われた、日本海軍とアメリカ海軍の海戦です。「南雲忠一」中将は第一航空艦隊を率いていました。 第一次攻撃隊長からの「第二次攻撃の要あり」という報告がもたらされましたが、日本軍の攻撃方針はミッドウェー島への陸上攻撃なのかアメリカ艦隊の撃滅なのか不明確でした。 このためアメリカ軍の機動部隊攻撃用に装備していた空母上の航空機の装備を陸上攻撃用に転換する作業を行ってしまいました。すでにミッドウェーの北東海域に進出していたアメリカの機動部隊は装備転換中の日本軍の機動部隊に襲いかかり、「赤城」を始め4隻の主力空母を撃沈したのです。

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第三艦隊の司令長官となる

ミッドウェー海戦で主力空母4隻が炎上する中、「南雲忠一」中将は旗艦「赤城」から軽巡洋艦「長良」に移乗しました。その後日本に帰還した南雲中将は作戦失敗の責任を問われることもなく、1942年7月14日に新設された第三艦隊の司令長官に任命されます。 そして同年8月にガダルカナル島の戦いが始まったのを機に、空母3・戦艦2・巡洋艦2という戦力を率いて現地支援に向かいました。しかしこの戦いで空母1隻を失ったのです。 同年10月26日には南太平洋海戦を迎えましたがアメリカ軍空母「エンタープライズ」を中破、戦艦1隻・巡洋艦1隻・駆逐艦1隻損傷という戦果をあげます。一方で第三艦隊も空母2隻と巡洋艦1隻が中破されていました。

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