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近藤誠はがんの放置を推進する医師。彼の思想を川島なお美等の例と合わせて考察。

もくじ

近藤誠という人物

近藤誠とは

  • 近藤誠氏は日本で初めて乳房温存療法を提唱した医師
  • 1996年に出版した「患者よ、がんと闘うな」がベストセラーとなる
  • 現在は近藤誠がん研究所の所長として、がんのセカンドオピニオン外来で診察にあたる

「近藤誠」氏は1988年に日本で初めて乳がんの乳房温存療法を提唱した医師です。「がんを放置する」という独特の方針で、治療を目的とした外科手術・化学療法・放射線療法は不要という持論を主張しています。 今回は「近藤誠」氏の人物像や著作、彼の方針に対する意見などについて解説します。

近藤誠の経歴

(画像:Unsplash

「近藤誠」氏は1948年に東京都内の開業医のもとに生まれました。そして出身大学である慶應義塾大学の放射線科でキャリアをスタートさせます。しかし1988年には大学の治療方針とは異なる「がんは放置」という主張を始めます。 ここでは「近藤誠」氏の経歴について、詳述します。

慶應義塾大学医学部を卒業

1961年に慶應義塾中等部に入学した「近藤誠」氏は慶應義塾高等学校を経て、1967年に慶應義塾大学医学部に進学します。 そして1973年に同学部を首席で卒業し、同・放射線科に入局し医師国家試験にも合格しました。 1976年には慶應義塾大学医学部放射線科助手などを歴任し、がんの放射線治療を専門に行うようになります。慶應義塾大学医学博士の学位を修得したのは、1980年のことでした。

アメリカ留学

慶應義塾大学医学部放射線科助手に就任した「近藤誠」氏は、1979年にアメリカ留学を果たします。粒子線治療を学ぶためにロスアラモス国立研究所のパイ中間子治療施設に勤務したのです。 しかし近藤氏は早々に粒子線治療に見切りをつけ、翌年の1980年には日本に帰国しました。そして医学博士を修得した後、国立東京第二病院(現国立病院機構東京医療センター)核医学センターに勤務します。 その後1983年には慶應義塾大学医学部専任講師に就任しました。

慶應義塾大学医学部に入局

「近藤誠」氏が入局した慶應義塾大学医学部では、がんに対して外科手術・化学療法・放射線療法という標準的的な治療を行っています。同・放射線科に入局した近藤氏も、かつてはがん患者に対し放射線治療を行っていました。 しかし1988年に慶應義塾大学専任講師だった近藤氏は文藝春秋で「乳ガンは切らずに治る」という寄稿文を発表します。これが日本で初めて提唱された乳房温存療法だったのです。 慶応大学病院で行われている標準のがん治療に異を唱えたため、近藤氏は定年退職まで放射線科の専任講師のままでした。

近藤誠がん研究所の所長となる

「近藤誠」氏は慶應義塾大学病院放射線科での定年退職を前にした2013年、東京都渋谷区に「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を設立しました。 そして所長として就任し、1年間に2,000件を超えるがんの相談に応じているようです。 その内容は患者さんにおけるがんの種類や進行度に合わせて対処法や治療法を検討するというものです。その目的は「目前の患者さんが最も健やかに安全に長生きできること」なのだそうです。

近藤誠の数々のベストセラー出版や執筆活動を行う

「近藤誠」氏の著作が初めて出版されたのは1996年のことです。「患者よ、 がんと闘うな」というキャッチーなタイトルと、これまでにはないがんに対する考え方に興味を持つ人が多く、ベストセラーとなりました。それをきっかけに執筆活動を本格化させています。 ここでは近藤氏の著作の一部を紹介します。

患者よ、 がんと闘うな

「近藤誠」氏の代表作である「患者よ、 がんと闘うな」は、文藝春秋社より1996年に出版されました。 初の著作で近藤氏は、「手術はほとんど治療の役に立たない」「多大な苦痛を伴う抗がん剤治療が効くのは一部のがんだけ」という持論を発表したのです。 近藤氏はこれ以後、患者さん自身が後悔しないように治療法を決めるべきだという主張を続けていくことになります。

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