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ジャニー喜多川はジャニーズ事務所を成功へと導いたカリスマ経営者。同性愛問題や死亡の真相は?

もくじ

1分でわかるジャニー喜多川

ジャニー喜多川とは

  • ジャニーズ事務所を設立する
  • 多くのアイドルを輩出させギネスに認定される
  • 裁判で少年への暴行が明るみに出る

ジャニー喜多川の経歴

(画像:Unsplash

終戦後、アメリカから日本へと渡ってきたジャニー喜多川は仕事の傍らでジャニーズ事務所を設立しました。 60年代から男性アイドルの火付け役として語られ始め、彼が発掘してきたアイドルたちは様々な分野で活躍しています。 この記事では彼の人生を振り返るとともに、ジャニーズ事務所が設立までの経緯を紹介していきます。

 

ロサンゼルスで生まれる

ジャニー喜多川は1931年のロサンゼルスで生を受けました。当時は太平洋戦争直前ということで日本人並びに日系人への風当たりが強かった時代です。 そんな情勢の中で日系2世の両親と共に来日しますが、第二次世界大戦終結後再びロサンゼルスへと帰国します。 現地の高校を卒業し、短期大学へと進学した彼は偶然ロサンゼルス公演を行っていた美空ひばりに出会うのです。この時の経験が、後に日本の芸能界へと進む原点になります。

日本で育ち上智大学を卒業

再び日本へとやってきたジャニー喜多川は、英語力を活かしてアメリカ大使館で働き始めます。大使館では朝鮮戦争の孤児たちに英語を教える仕事をすると同時に、朝鮮語も学びました。 大使館の仕事の傍らで上智大学に入学し、在学時に結成したバンドで念願だった芸能界入りを果たすのです。 彼はロサンゼルス生まれの日系人であったため、日本とアメリカの二重国籍を持っていましたが、再来日以降は日本国籍を選択しています。

ジャニーズ事務所を設立

1960年代には少年野球チームのコーチまで兼任していたのですが、このチームの名前が「ジャニーズ少年野球団」です。そう、これがジャニーズ事務所の前身となったのです。 その後、ミュージカル映画を観てエンターテインメントの可能性を見出したジャニーは、自身初めてのアイドルグループ「ジャニーズ」を結成します。メンバーは野球チームに所属していた少年4人です。 そして当時新宿でバーを経営していた姉のメリーを経理に迎え、1962年にジャニーズ事務所を立ち上げます。

数々の人気アイドルを排出

芸能プロダクションとして本格始動を始めたジャニー喜多川は、死去するまで数々の男性アイドルをプロデュースします。 有名なところでは男性アイドルの先駆けとなった郷ひろみ、ローラースケートを取り入れた光GENJI、マルチで活躍するSMAPといったところでしょう。 その手腕はギネス世界記録にも認定されるほどで、その記録は現在でも破られていません。恐らくこれからもジャニー喜多川を超えるプロデューサーは生まれないと言われています。

くも膜下出血で死亡

2019年7月、ジャニー喜多川は87歳でこの世を去りました。死因は脳動脈瘤が原因で引き起こされたくも膜下出血でした。 ジャニーズ事務所から公式発表がされるまでの間、死亡説が取り沙汰されるなど情報の混乱が起きています。実際に亡くなったのは報道があったよりも後のようです。 彼が最後にプロデュースした「King&Prince」がブレイクしたこともあり、死の直前まで芸能界へ従事していたことが分かります。

ジャニー喜多川の死亡とお別れ会

(画像:Unsplash

ジャニー喜多川の葬儀は渋谷で行われ、彼を慕うジャニーズ事務所所属のタレントたちが参列する「家族葬」となりました。 公開された写真ではジャニーズ全員が集合したかに見えますが、実は参加していないタレントも何人かいたのです。 葬儀とは別に東京ドームを貸し切って行われた「お別れ会」では、芸能関係者を含む約9万人が参加しています。ジャニー喜多川が芸能界全体にどれだけ影響を与えていたか、一般の方でも再確認できることとなりました。

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