1分でわかる清原和博
清原和博
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甲子園で通算13本塁打の記録保持者
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西武・巨人で活躍しオリックスで引退
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薬物依存と戦いながらトライアウト監督就任
清原和博の経歴
清原和博といえば強豪PL学園で活躍した後、西武ライオンズや読売ジャイアンツなどで活躍し一世を風靡した偉大なるプロ野球選手です。 ところが2016年に覚醒剤取締法違反で逮捕され現在も薬物治療を行っていますが、ようやくトライアウトの監督を務めることになりました。そこで、プロ野球界で一時代を築いた清原和博の華麗なる経歴について紹介します。
大阪・岸和田で生まれ育ち小学生で野球を始める
清原和博は1967年7月に「だんじり」で有名な大阪府岸和田市に生まれました。電気店を経営する父親は大の阪神ファンでしたが、ほかの家族は巨人ファンであったため、次第に巨人を応援するようになります。 小学3年生ですでに身長155cmになっていた清原和博は、地元「岸和田リトルリーグ」に入団し本格的に野球を始めます。 抜群の野球センスを兼ね備えた清原和博は小学4年生でレギュラーとなりました。中学生になると岸和田シニアリーグに移り、関西シニアで優勝を果たすなど注目を集める存在でした。
高校・PL学園で5季連続の甲子園出場やホームラン記録を作る
高校進学の際して清原和博は、大阪「PL学園」と奈良「天理高校」の間で悩み抜きます。しかし、最終的には1年生からレギュラーのチャンスがある「PL学園」を選びました。 PL学園入学当初はピッチャーを目指していた清原氏ですが、後にライバルとなる元巨人軍・桑田真澄の投球を間近で見てあっさりと断念してしまいます。 打者に専念する清原和博は、1年時から4番を任され5季連続で甲子園に出場します。その間、優勝2回、通算13本塁打など輝かしい記録を打ち立て甲子園のスターとなりました。
ドラフトの末、西武に入団
PL学園の黄金時代を築いた清原和博と桑田真澄は、当然のようにドラフト1位が噂されるようになりますが、桑田真澄は早稲田大学への進学を表明します。 一方の清原和博は巨人からの指名を熱望し、チームからも内々に1位指名することを告げられていました。ところが、ドラフト当日、巨人は桑田真澄を単独で1位指名するのです。 清原和博は6球団から指名され、抽選の結果、西武ライオンズが交渉権を獲得します。直後の記者会見では目を真っ赤にしていた清原和博ですが、母親の一言で西武入りを決めることとなりました。
FA制度で巨人に移籍
西武入りした清原和博は入団1年目から打率3割、ホームラン30本を記録するなど素晴らしい記録を打ち立てます。さらに、9年間で8回のリーグ優勝を経験しました。 日本プロ野球界を代表する存在となった清原和博は1996年のオフにFA権を行使します。獲得には巨人のほか阪神も名乗りをあげますが、幼少時代から憧れていた巨人への移籍を決断しました。 巨人に入団した清原和博は、大きな期待がかけられ4番打者として迎えらえます。しかしながら、巨人時代は怪我との戦いの日々でもありました。
2008年にオリックスで現役生活の幕を閉じた
清原和博は巨人に1997年から2005年まで在籍しますが、数々の怪我に泣かされ西武時代を超える成績を残すことはできませんでした。 さらに、首脳陣との確執も表面化し2005年オフに戦力外通告を受けます。そんな清原和博に声をかけたのが、オリックスでイチロー選手を見出した故仰木彬氏だったのです。 残念ながら仰木氏は清原和博のユニフォーム姿を見ることなく他界してしまいます。しかし、清原和博は仰木氏のおかげでプロ野球人生をオリックスで全うし、2008年に現役生活の幕を閉じることができたのです。
数々のホームランでファンを沸かせてきた
清原和博の魅力といえば、何といっても長打力です。清原和博から放たれたホームランの数々は、さまざまなピッチャーとの勝負の歴史であり、プロ野球ファンを常に沸かせてきました。 高校時代からホームランにこだわり、数々の記録を打ち立てる清原和博ですが、実はプロではホームラン王を獲得していません。