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八甲田雪中行軍遭難事件‎はなぜ起きたのか?隠された真実の悲劇に迫る。

もくじ

1分でわかる八甲田雪中行軍遭難事件‎

  • 参加者210名のうち生還者はわずか11名
  • 原因は気象条件の悪さと雪山を甘く見ていたこと
  • 事件後メディア化された

八甲田雪中行軍遭難事件‎の概要

八甲田雪中行軍遭難事件はロシアとの戦争に向けて明治時代に行われた雪山の軍事訓練での遭難事件です。 訓練参加者が200名以上いたにもかかわらず雪深い八甲田で遭難してしまい、生還できたのはわずかに11名のみでした。世界的にみてもめったにないほどの大規模かつ悲惨な山岳遭難事件です。

1902年に八甲田山での雪中行軍中に起きた遭難事件

この事件は1902年に八甲田山での雪中行軍中に起きた遭難です。当時清国と戦争中であった日本は寒冷地での活動に苦戦していました。 近く始まるであろうとされていた対ロシア戦では、さらなる厳寒地での激戦が予想されていました。そのために厳しい寒さの中でも軍事行動に支障が出ないための訓練が必要とされました。 訓練当日青森から210名、弘前から38名がそれぞれ異なるルートで行軍を開始しました。2つの部隊間に情報の共有はありませんでした。

訓練参加者210人のうち生存者は11人

訓練参加者210人のうち生存者はたったの11人のみでした。救出には1万人近くが動員されましたが多くの命は救うことがかないませんでした。 実際救助隊に救出された人は17名いましたが、そのうちの6名は残念ながら救出後すぐに亡くなっています。 生還を果たした11名についてもほとんどの人がひどい凍傷のために手も足も失うこととなりました。軽症の人であっても凍傷がないわけではなく指や足などを切断しています。

八甲田雪中行軍遭難事件の原因‎

八甲田雪中行軍遭難事件の原因‎とはいったいどのようなものだったのでしょうか。雪山は個人で登山をするにも念入りな準備を必要とします。 この事件の時のように雪中行軍となれば天候に加えて服装や装備、雪山に対する知識などが必要になります。

気象条件の悪さ

原因の一つ目として挙げられるのが雪中行軍時の気象条件の悪さでした。 ちょうどこの時期は日本観測史上最も気温が低い時でした。シベリア寒気団が日本列島を覆い常にない寒さを記録していました。青森も例年より10度前後気温が低かったといわれています。 雪中行軍をしていた八甲田山はこの時マイナス20度ほどだったのではないかと推測されています。また気温に加えて天候が徐々に悪化していったのも原因の一つでした。

軽度な服装

原因の二つ目として挙げられるのが雪中行軍をしていた軍隊の軽度な服装です。 現代であっても雪山登山は遭難者が出るほどに大変なことです。着用する服装も大切ですが予備の手袋や靴下、靴などといったものも必要です。 しかしこの時の軍隊は毛糸の外套や帽子などを着用していただけであり、雪山を登山する服装としては軽度に過ぎるものでした。予備を持っている人も少なく濡れた服装のままでいたために凍傷をひどくした人が多くいました。

指揮の混乱

原因の三つ目として挙げられるのは指揮系統の混乱です。 大人数で行軍する際には平時であっても指揮系統をきちんと決めておく必要があります。特に雪山を登山するのであれば、いざという時のために指揮官をはっきりさせておき、何かあった時のために何名か順番を決めて指揮権を預かるようにする必要があります。 しかしこの時は中隊に大隊本部が随行するという形であったことと、指揮官が複数存在したこと、指揮官同士の情報共有が上手くできていなかったことなどから指揮が混乱したものとみられています。

雪中行軍の情報不足

原因の四つ目として挙げられるのは雪中行軍の情報不足です。そもそも指揮官とされた大尉はもともと予定されていた人物ではなく、任命されたのは出発まで1月を切ったころでした。 そのため大尉はほとんど情報のないままに厳しい雪山への行軍の指揮という重大な任務を任されることとなりました。 また参加した隊員たちの中に雪山での登山経験があるものはおらず、雪国出身でないものも多くいたため雪山や凍傷に対する情報を持っていませんでした。

八甲田雪中行軍遭難事件のその後

多くの死者を出した八甲田雪中行軍遭難事件のその後はどのようなものだったのでしょうか。 日本史上最大規模の遭難事件であったことから自衛隊の教訓にされました。また多くの死者を出したことから心霊現象があるともいわれています。ここでは事件のその後はどのようなことになったのかを順にみていきます。

自衛隊の教訓に

青森の自衛隊駐屯地ではこの事件を教訓にして毎年「八甲田演習」を行うことになっています。 今では伝統行事ともいえるこの演習では約600名の自衛隊隊員が雪山に適した防寒具をまとい雪深い八甲田山を行軍します。 日程は1泊2日で約18キロのコースが設定され、スキーで行軍します。八甲田雪中行軍遭難事件の悲惨さを忘れず今に伝えるために始まった行事です。この行事を通して雪山の恐ろしさや防寒具や情報の大切さを知ることができます。

八甲田山の心霊現象

八甲田山ではこの事件で多くの死者が出たこともあり、いくつもの心霊現象が噂されています。 八甲田山では今も亡くなった軍人たちの霊がさまよっているといわれています。雪山での自衛隊の訓練中にも大勢の人が歩きまわる気配を感じる、外に誰もいないのにテントをたたかれることがあるなどの情報もあります。 八甲田山の遭難事件で生還した人々もその後の戦争でほとんどの人が命を落としています。また八甲田山では軍人にまつわる事故なども多く、そのことも心霊現象の噂の信憑性を高めています。

八甲田雪中行軍遭難事件‎のメディア化

八甲田雪中行軍遭難事件はその悲惨さや規模の大きさから大きな話題となりました。 当初は事件の概要は世間には伝わっていないことも多くありました。しかし映画や本などのメディア化によって八甲田雪中行軍遭難事件がどのような事件であったのかという詳細が伝わりました。ここではメディア化の状況をみていきます。

『八甲田山死の彷徨』新田次郎著

新田次郎さんが書いた山岳小説『八甲田山死の彷徨』は八甲田雪中行軍遭難事件‎を題材としたものです。 実際に事件で生き残った人物への取材などをして書かれた小説です。しかし事件を題材にしたとはいってもノンフィクションというわけではありません。 作者によって想像で補われた部分やかなり脚色された部分などもあり、特にこの雪中行軍を「人体実験」などと表現したことなどは取材に協力した人達もショックを隠せなかったといわれています。

その他の本・映画

八甲田雪中行軍遭難事件‎は『八甲田山死の彷徨』が映画化やテレビドラマ化されたことで世間にも大きく知られるようになりました。 また生還者の聞き取りをしてまとめられた私家本や生還者の足取りをまとめた本が出版されるなど知名度は低いもののいくつかの本が存在します。 近年にはこれまでとは論旨を変えて医学的見地から見た事件を小説化した『八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』という本も出版されています。

八甲田雪中行軍遭難事件‎を教訓に

八甲田雪中行軍遭難事件‎は多くの死者を出した悲惨な事件でした。雪山登山はしっかりした装備を整えた登山者にとっても決して油断できるものではありません。 この事件を教訓に雪山を決して甘く見ることなく装備や知識を万全にした雪山登山が望まれます。

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