1分でわかる済南事件
- 日本軍と中国国民革命軍の武力衝突事件
- 日本軍が兵を増員し制圧
- 反日感情を増幅させ満州事変のきっかけ
済南事件の概要
済南事件はその後の日中関係に大きな影響を及ぼした事件として知られています。日本軍と蒋介石率いる国民革命党は互いに衝突を避けていました。にも関わらず騒乱事件へと発展し多くの犠牲者を出してしまいます。なぜ、このような痛ましい事件を引き起こしてしまったのでしょうか。
1928年に山東省済南で起きた日本軍と国民革命党の武力衝突事件
済南事件は1928年の中国山東省済南で勃発しました。当時、済南に進出していた日本陸軍と蒋介石をリーダーとする国民革命軍が真っ向から対立した武力衝突事件です。 事の発端について双方ともに見解が異なり、現在もその乖離は解消されていません。また、日本の教科書にも採用されていた当時の写真が別の事件のものであったなど多くの謎を残しています。
民間人・居留人・軍人の犠牲者が発生
当時の中国には多くの日本人が居住していました。済南事件勃発後、中国側の報復に遭ったことによる民間人・居留人・軍人の犠牲者は26人、負傷者は157人です。中国側の犠牲者は諸説あるものの約3600人、負傷者は1400人と見込まれます。 数の上では中国側の犠牲者が多いのは一目瞭然ですが日本人犠牲者のうち9人は惨殺されており、人数よりも重要視する歴史学者も少なくありません。
日本軍が勝利し済南を占領
済南事件が勃発して以降、国民革命軍による法人への攻撃は凄まじいものがありました。両国とも自国に正義があるとの行動であったため凶行はエスカレートするばかりです。 日本軍は国民革命軍に12時間以内に撤退するよう勧告しますが受け入れられませんでした。そのため日本は国民革命軍の拠点「済南城」に攻め入り済南を占拠することで事件は収束を迎えます。
済南事件の背景
済南事件は日本と中国の両国に大きな衝撃を与えた事件です。しかし当時の中国は動乱期であり何が起こっても仕方がない状況であったことも事実です。その結果中国は日本に対する反日感情を深めることになりますが、済南事件の背景には何があったのでしょうか。
中国の内戦状態による治安悪化
当時の中国は北と南に分裂して内戦状態(第一次国共内戦)にありました。中華民国・国民政府の初代総裁となる蒋介石は国民革命軍を率いて北伐に乗り出しています。 そのため中国国内の治安は最悪で略奪などの犯罪行為が横行する時代でもありました。日本は中国に進出して様々な事業を展開しています。中でも済南は重要拠点として軍人のみならず多くの居留人がいました。
北伐による済南の陥落
中国の内戦は激化の一途を辿り、国民革命軍の北伐によって済南は陥落しました。日本軍は国民革命軍の済南制圧によって、さらに治安が悪化することを懸念します。 国民革命軍率いた蒋介石は日本で軍事教育を受けていることもありトラブルを起こさなことを約束します。安心した日本軍は一旦撤退しており騒乱が起こるなど誰も予想していませんでした。
見解が割れる済南事件のきっかけ
済南事件のきっかけは日本と中国では見事に見解が割れており真相は解明されていません。双方とも自国が有利になる主張を繰り広げていますが信ぴょう性に欠けるのも事実です。日本と中国の見解の相違とはどういったものでしょうか。
日本側:国民革命軍の兵士による邦人店舗略奪事件
日本軍は国民革命軍が邦人店略奪事件を引き起こしたと主張しています。国民革命軍のリーダー蒋介石は済南に入ってきた際、日本と問題を起こさないと約束ししました。 にも関わらず犯罪行為を犯したのは明らかに約束違反であり許される行為ではないと考えています。つまり非があるのは国民革命軍であり騒乱を鎮圧したのが日本軍との見解です。
中国側:病人を病院に連れて行こうとした際に日本軍に阻止され言い争いに発展
国民革命軍は病人を病院に連れて行こうとした際に日本軍に阻止され口論となったと主張しました。さらに日本軍が先に兵士だけでなく病人まで射殺したためやむなく応戦したと考えています。 このことは国民革命軍の北伐に対する妨害行為にほかならない。つまり非があるのは日本軍であり国民革命軍こそが事態の鎮圧に尽力したとの見解です。
済南事件の影響
済南事件は日本陸軍と国民革命軍の小競り合いから大量虐殺事件へと変貌していきます。特に中国側は済南交渉にあたった無抵抗の外交官を殺害したことに強い憤りを表しました。拗れに拗れた済南事件はどういった影響を与えるのでしょうか。
第三次山東出兵
済南事件収束に向けた日本と中国の交渉は、日本が中国側の外交官を殺害したことで不調に終わりました。無抵抗の外交官を殺害したことを問題視する中国に対し、日本はさらに軍を派遣(第三次山東出兵)して対抗します。 日本の強硬な姿勢に対し中国側は憤りをあらわにするも、日本に有利な譲歩案により収束する道を選択します。中国国内からはこの選択に批判の声が上がりました。
満州事変のきっかけに
中国が譲歩案提示したにも関わらず日本が第三次山東出兵を決めたことに中国国内だけでなく、世界各国からも「やり過ぎ」との声があがります。 1931年に勃発した「満州事変」は満州を制圧しようとする関東軍と中国の闘いです。済南事件における反日感情がきっかけになったことは否めません。結果関東軍は満州を支配しますが、反日感情はさらに高まり日本は国連を脱退します。