1分でわかるチェルノブイリ原子力発電所事故
チェルノブイリ原子力発電所事故
-
チェルノブイリ原子力発電所の4号炉で爆発が発生
-
爆発で放射性物質が放出されたことで4000人以上が死亡
-
チェルノブイリ原子力発電所は2000年に閉鎖
1986年、旧ソ連時代のウクライナで起こった原子力事故です。4つある原子炉の1つが爆発し、放射性物質がヨーロッパや日本にまで飛来しました。被害地域からは数10万人が移住し、4000人以上が犠牲になりました。 チェルノブイリ原子力発電所は2000年まで稼働していましたが、現在は閉鎖されています。30年以上経過しても現地には未だに事故の爪痕が残されたままです。
チェルノブイリ原子力発電所事故の概要
原子力発電所(画像:pixaboy)
1986年4月26日に起きた原子力事故です。事故があったのは当時旧ソ連に併合されていたウクライナの北部にある、キエフ州プリピャチ市のチェルノブイリ原子力発電所でした。原子炉の1つが爆発し、大量の放射性物質が地球規模で放出されました。 事故の経過や対応、その後の動向などについて以下で詳しくご紹介していきます。
チェルノブイリ原子力発電所事故の4号炉が爆発
事故があったのは発電所に4つあった原子炉の1つ、4号炉でした。 4月26日1時23分、4号炉で爆発が2回発生しました。1度目の爆発は水蒸気爆発で、2度目に関しては化学反応で発生した可燃性ガスと空気による熱爆発だったとされています。 爆発によって建屋(原子炉の設備を覆うコンクリートの建物)の上半分が消し飛んで、合わせて高温の燃料などが周囲にばらまかれました。その結果、飛び散った燃料から発火して、発電施設内の数十箇所で火災が起こりました。
チェルノブイリ原子力発電所事故の爆発により放射性物質が流出
4号炉の爆発とその後に起きた火災によって、多量の放射性物質が大気中に拡散されました。この放射性物質は事故発生から9日後の5月5日に急激に減少するまで放出され続けたようです。 流出した放射性物質は事故の翌日、4月27日にはスウェーデンで観測されました。その後5月上旬までに日本を含む北半球の全域で検出されるようになります。 事故後に大気中に放出された放射性物質は、全部で14エクサベクレルにも上るそうです(エクサは1兆の100万倍となる100京を意味します)。
1分でわかるチェルノブイリ原子力発電所事故
- チェルノブイリ原子力発電所の4号炉で爆発が発生
- 爆発で放射性物質が放出されたことで4000人以上が死亡
- チェルノブイリ原子力発電所は2000年に閉鎖
1986年、旧ソ連時代のウクライナで起こった原子力事故です。4つある原子炉の1つが爆発し、放射性物質がヨーロッパや日本にまで飛来しました。被害地域からは数10万人が移住し、4000人以上が犠牲になりました。 チェルノブイリ原子力発電所は2000年まで稼働していましたが、現在は閉鎖されています。30年以上経過しても現地には未だに事故の爪痕が残されたままです。
チェルノブイリ原子力発電所事故の概要

1986年4月26日に起きた原子力事故です。事故があったのは当時旧ソ連に併合されていたウクライナの北部にある、キエフ州プリピャチ市のチェルノブイリ原子力発電所でした。原子炉の1つが爆発し、大量の放射性物質が地球規模で放出されました。 事故の経過や対応、その後の動向などについて以下で詳しくご紹介していきます。
チェルノブイリ原子力発電所事故の4号炉が爆発
事故があったのは発電所に4つあった原子炉の1つ、4号炉でした。 4月26日1時23分、4号炉で爆発が2回発生しました。1度目の爆発は水蒸気爆発で、2度目に関しては化学反応で発生した可燃性ガスと空気による熱爆発だったとされています。 爆発によって建屋(原子炉の設備を覆うコンクリートの建物)の上半分が消し飛んで、合わせて高温の燃料などが周囲にばらまかれました。その結果、飛び散った燃料から発火して、発電施設内の数十箇所で火災が起こりました。
チェルノブイリ原子力発電所事故の爆発により放射性物質が流出
4号炉の爆発とその後に起きた火災によって、多量の放射性物質が大気中に拡散されました。この放射性物質は事故発生から9日後の5月5日に急激に減少するまで放出され続けたようです。 流出した放射性物質は事故の翌日、4月27日にはスウェーデンで観測されました。その後5月上旬までに日本を含む北半球の全域で検出されるようになります。 事故後に大気中に放出された放射性物質は、全部で14エクサベクレルにも上るそうです(エクサは1兆の100万倍となる100京を意味します)。
火災の鎮火や放射性物質の流出の阻止や処置が行われた
旧ソ連は事故直後に核分裂する4号炉の封じ込めと、火災を鎮火させるために5000トン以上の鉛と砂、石灰やホウ素などをヘリコプターから投下しました。 この他には溶融した燃料を冷却する液体窒素の注入や、再度の水蒸気爆発の防止を目的として、原子炉格納容器底部の圧力抑制プールから冷却水の排出も行いました。 事故後の調査では炉心の封印を目的とした初期対応はほとんど役立たなかったようです。4号炉の事故は原子炉を隔離するコンクリート製建造物「石棺」の完成でようやく終息しました。
象の足
事故後、4号炉周辺は高熱によって変化し、自然界では生成されない物質がいくつか発見されました。 その1つが4号炉直下の地下で見つかった「象の足」という物体です。幅2メートル、重さ数百トンと目される「象の足」は溶融した核燃料とコンクリート、砂などが混ざったってできた高密度の形成物とされています。形状と質感がちょうど動物の象の足に似ていたことから名づけられました。 事故当時は数分間接近するだけで死亡するほど強力な放射線を出していました。
レベル7の原発事故
「チェルノブイリ原子力発電所事故」があった時代には、原子力事故の脅威度を測る指針は存在しませんでした。事故後、国際原子力機関 (IAEA)と経済協力開発機構原子力機関 (OECD)が共同で国際原子力事象評価尺度(INES)を策定しました。 INESによると、「チェルノブイリ原子力発電所事故」はもっとも深刻なレベル7に相当します。原子炉外部に重大な量が放出されていること、原子炉施設が崩壊して再建不能であることがレベル7の認定基準です。 「チェルノブイリ原子力発電所事故」以外では、「福島第一原子力発電所事故」がレベル7に該当します。
チェルノブイリ原子力発電所事故の原因

事故当時、4号炉は保守点検のための停止作業に入っていました。その作業中、停止前の発電機の慣性を利用した発電で、施設内への電力供給が可能かどうかの実験が行われていたのです。事故はこの実験の最中に発生しました。 事故の原因は複数指摘されています。原子炉施設自体の構造的欠陥、運転員の設備への熟練不足、計画予定外の低出力で実験を強行した上に安全装置を無効化していたことなどが主要な原因として挙げられています。
チェルノブイリ原子力発電所事故の被害と死者

「チェルノブイリ原子力発電所事故」は、直接間接を問わず多大な犠牲者を出しました。現場に居合わせた運転員、事故処理に当たった正規非正規の作業員、そして被害地域に住んでいた大多数の住民が被害に遭いました。 事故で実際にどのような被害が出たのか、人間だけでなく動植物への影響も含めてご紹介していきます。
死者は4000人を超えた
事故における直接的な死者は運転員、消防士ら合わせて33名とソ連政府は発表しました。 一方、世界保健機関(WHO)や国際がん研究機関(IARC)の推定では、事故の影響によって少なくとも約4,000人が癌で死亡していることが発表されています。 この約4,000人という人数は事故現場から30km圏内の高度汚染地域に限った話であり、30km圏外の汚染地域やヨーロッパ全域にまで対象を広げた場合、癌の死者数は約16,000人にまでおよぶとされています。
周辺住民は移住せざるを得なかった
原子力事故の影響は直接的な被害だけではありません。 事故発生の翌日、27日には周辺住民の避難が始まりました。まずチェルノブイリ原子力発電所に隣接するプリピャチ市の4万5,000人はその日のうちに避難が完了し、周囲30km圏内の住民も5月6日までには避難しました。この時の避難民の数は11万5000人にものぼりました。 後に避難区域は事故現場から北西100km圏内まで拡張され、事故の影響から合計40万人以上もの人々が移住せざるを得なくなったのです。
癌や白血病の患者が増加
「チェルノブイリ原子力発電所事故」の健康被害で顕著なのは甲状腺癌の増加です。 ベラルーシでは1990年には2000件だった小児甲状腺癌の症例が、およそ5倍から10倍まで急増したとしています。これは汚染されたミルクを乳児が接種してしまったことが原因のようです。 疫学的追跡調査では、確認された白血病のうち500件あまりが事故によって起きたと予測されています。一方で、自然発生の白血病との区別は難しく、白血病と甲状腺癌を除いた癌について、事故との因果関係はないという意見も報告されています。
奇形の動植物が増えた
放射性物質が汚染地域に大量に降り注いだことにより、自然界に影響が出ていることもわかっています。マツ科植物が放射性物質で枯れ果てた通称「赤い森」では、高濃度の汚染で動植物の中に突然変異の奇形が生まれるようなったそうです。 奇形の姿は一定ではなく、サイズの巨大化や体の癒着、見た目には現れない内臓器官の変形、遺伝子レベルの損傷など多岐に渡ります。 ただし奇形の増加は立ち入り禁止の危険地帯で起こっているとされ、実際にどれくらいの割合で発生しているのか確かなことはわかっていません。
生態系にも影響を及ぼした
事故現場周辺は汚染され、人間の立ち入りは厳しく制限されるようになりました。そのことから、現地の生態系は大きく変化したようです。 調査によって高濃度汚染地域では動物の減少が認められるものの、それよりも広い範囲の立ち入り制限区域では個体数が増加していることがわかりました。特に鳥類の数が多いようです。 2003年には絶滅危惧種のオジロワシが捕獲され、希少種のモウコノウマも制限区域で繁殖し、着実に頭数を増やしています。皮肉にも事故後のプリピャチは動物にとって安全な地域となっているようです。
作業員(リクビダートル)として多くの人がチェルノブイリに駆り出された
リクビダートルとは現地の言葉で「清掃人」を意味する言葉で、原子力発電所事故の事後処理に従事した人々のことをこう呼びます。投入されたリクビダートルの総数は60万から80万人といわれています。 彼らの行った作業とはプリピャチ市内の街路の除染や汚染樹木の伐採、そして崩壊した原子炉を封印する「石棺」の建設です。 この作業中に多くのリクビダートルが被爆し、4,000人から6,000人ほどが放射線に起因する癌で死亡したといわれています。
チェルノブイリ原子力発電所事故の事故後の対応と現在

チェルノブイリの原子力事故は、発生してから多くの影響をおよぼしました。悲惨な出来事のあった事故現場周辺は立ち入り制限されており、現在も当時と変わらない状態で残されたままです。 ここからは事故の原因となった4号炉や、2000年まで稼働していた発電所、立ち入り禁止区域の現状に迫ります。
石棺を建築
事故後、4号炉は6月から11月の5ヶ月をかけて建築された「石棺」で封じ込められました。「石棺」はコンクリート製で、放射線を遮断する効果があります。 「石棺」の中にはいまだに膨大な放射性物質が残っており、一説にはすべてなくなるまでに10万年必要という話もあります。 「石棺」の耐用年数は30年だったため、1990年代から老朽化対策が進んでいました。その後、2016年4月に「石棺」をまるごと包む巨大シェルター「新安全閉じ込め構造物(NSC)」が完成し、同年11月に移設作業が完了しました。
チェルノブイリ原子力発電所は完全閉鎖
4号炉の事故があっても、チェルノブイリ原子力発電所は運転停止せず、残り3つの原子炉は事故後も稼働し続けていました。ウクライナが財政難で新しい発電所が作れず、電力の供給が不足していたためです。 しかし火災事故の発生や国際的な取引が行われたことで、1991年には2号炉、次いで1996年に1号炉が停止されました。 そして2000年11月、同時のウクライナ大統領の手によって3号炉の運転も止まり、これをもってチェルノブイリ原子力発電所は完全閉鎖されました。
立ち入り禁止だったチェルノブイリ原子力発電所周辺に観光地化の動き
1986年の事故後、現場から30km圏内は立ち入り禁止区域に設定されています。30年以上経過した現在でも居住は禁止されたままですが、ウクライナ政府の方針には変化が出てきました。 事故の教訓を世界に発信することを目的として、チェルノブイリ原子力発電所の周辺地域を観光地化して、一般開放する取り組みが発表されたのです。 事故現場周辺に住民が戻りつつあること、違法に立ち入りする観光客が年々増加していることが観光地化に舵を切った理由のようです。
チェルノブイリ原子力発電所事故と福島第一原子力発電所事故の比較

2011年3月東日本大震災によって福島第一原子力発電所で炉心溶融の事故が起こりました。INESはこの事故の深刻さを「チェルノブイリ原子力発電所事故」と同等のレベル7と判定しました。 同じレベル7でも福島とチェルノブイリでは、引き起こされた被害に大きな差があります。汚染面積でいえば福島はチェルノブイリの10%程度、放射性物質はチェルノブイリが14エクサベクレルだったのに対して0.8エクサベクレルとなっていました。 おおむね福島はチェルノブイリより1桁少ない被害規模といえるようです。
チェルノブイリ原子力発電所事故から得た教訓

チェルノブイリで発生した原子力事故は多くの教訓を世界に知らしめました。それは原子力発電は決して完璧な発電システムではなく、多大な危険と表裏一体であるということです また「チェルノブイリ原子力発電所事故」では扱うものの危険性に比べて、管理がずさんだったことも露呈しました。 致命的でなくともミスが重なれば重大な事態に発展し得る、ということを念頭に入れて、チェック体制の徹底も事故から学ぶべきでしょう。
まとめ

現代社会は電気に支えられた社会といっても過言ではありません。現時点では環境への影響や発電量の観点から原子力発電は重要な電源の一つといえます。いずれなくすにせよ、安全なシステムに更新するにせよ、しばらくは付き合って行く必要があります。 そうした社会で私達にできることは、原子力事故の悲惨さに学ぶとともに、電力消費を抑えて原子力発電への依存をより少なくしていくことではないでしょうか。