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虎ノ門事件は難波大助による摂政宮裕仁親王の暗殺未遂事件。犯行の動機や事件の影響は?

もくじ

1分でわかる虎ノ門事件

1分でわかる虎ノ門事件

  • 1923年12月に皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者に襲撃される
  • 犯行動機は無政府主義者並びに共産主義者への弾圧に憤慨したことだった
  • 皇太子暗殺事件の責任を取って内閣が総辞職するなどの影響が出た

虎ノ門事件の概要

(画像:Unsplash

虎ノ門事件は1923年12月27日10時40分に、虎ノ門交差点で起こりました。体調不良だった大正天皇に代わり、皇太子である裕仁親王が摂政として出席する議会に向かっていた道中です。 警戒線を突破した犯人が皇太子の御召自動車に向かって、ステッキに仕込んであった散弾銃を発砲します。銃弾は窓ガラスを破りましたが、裕仁親王に当たることはありませんでした。 しかし御召自動車に同乗していた、東宮侍従長である入江為守氏はケガを負っています。

犯人・難波大助

(画像:Unsplash

虎ノ門事件の犯人は現場で、周囲にいた警官と群衆によって取り押さえられています。それが、難波大助(なんばだいすけ)でした。 山口県周防村(現在の光市)で生まれた難波大助は、犯行当時に衆議院議員を務めていた難波作之進を父に持ちます。難波大助も中学時代までは天皇や皇室に敬意を払っていましたが、卒業後に上京してから社会主義や無政府主義に傾倒し始めました。 やがて共産主義者となり、反逆的な社会運動家として虎ノ門事件を起こしました。

虎ノ門事件の背景

(画像:Unsplash

難波大助が虎ノ門事件を引き起こした背景には、当時の社会状況が深く関わっています。虎ノ門事件が起こる約4ヶ月前には関東大震災があり、社会が不安定になったことによって無政府主義者や共産主義者への弾圧が激しくなっていました。 ここでは虎ノ門事件の背景について、詳述します。

関東大震災による社会混乱・不安

虎ノ門事件があった1923年の9月1日には、関東大震災が起こっていました。この地震により10万9,000棟が全壊し、約21万2,000棟が全焼しています。 死亡あるいは行方不明者は10万5,000人、被災者は190万人にも上っています。また当時は通信・報道手段が東京都内に集中していたため、首都機能が麻痺する事態となりました。 また関東大震災後の混乱に乗じて朝鮮人による凶悪犯罪や暴動を起こすという噂がまことしやかに流れるなど、社会不安が高まっていました。

無政府主義者への弾圧

関東大震災の発生により社会が混乱する中、陸軍内に社会主義並びに自由主義の指導者を殺害しようとする動きが生まれました。その代表例が「甘粕事件」「亀戸事件」です。 甘粕事件では社会運動家の大杉栄氏や伊藤野枝氏が、亀戸事件では労働運動の指導者だった平澤計七氏が殺害されています。 そうした無政府主義者への弾圧が進むことに対し、社会主義者は反発を強めていきます。その1人に虎ノ門事件の犯人となる、難波大助がいました。

虎ノ門事件の影響

(画像:Unsplash

白昼堂々、皇太子・摂政宮裕仁親王に対する襲撃が行われたことは関係各所に多大な影響を与えました。それは、関東大震災からの復興を進めていた内閣にも及んでいます。 ここでは虎ノ門事件の影響について、詳述します。

内閣の総辞職

虎ノ門事件が起こった1923年12月27日の夕方、当時の内閣総理大臣だった山本権兵衛氏を筆頭に内務大臣の後藤新平氏・司法大臣の平沼騏一郎氏など全閣僚が裕仁親王に辞表を提出しました。 裕仁親王は山本権兵衛氏を慰留しましたが決意は固く、同月29日に内閣閣僚全員の辞表を再提出します。 そのため1924年1月7日、裕仁親王は内閣総辞職を認めました。

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1分でわかる虎ノ門事件

  • 1923年12月に皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者に襲撃される
  • 犯行動機は無政府主義者並びに共産主義者への弾圧に憤慨したことだった
  • 皇太子暗殺事件の責任を取って内閣が総辞職するなどの影響が出た

虎ノ門事件の概要

虎ノ門事件は1923年12月27日10時40分に、虎ノ門交差点で起こりました。体調不良だった大正天皇に代わり、皇太子である裕仁親王が摂政として出席する議会に向かっていた道中です。 警戒線を突破した犯人が皇太子の御召自動車に向かって、ステッキに仕込んであった散弾銃を発砲します。銃弾は窓ガラスを破りましたが、裕仁親王に当たることはありませんでした。 しかし御召自動車に同乗していた、東宮侍従長である入江為守氏はケガを負っています。

犯人・難波大助

虎ノ門事件の犯人は現場で、周囲にいた警官と群衆によって取り押さえられています。それが、難波大助(なんばだいすけ)でした。 山口県周防村(現在の光市)で生まれた難波大助は、犯行当時に衆議院議員を務めていた難波作之進を父に持ちます。難波大助も中学時代までは天皇や皇室に敬意を払っていましたが、卒業後に上京してから社会主義や無政府主義に傾倒し始めました。 やがて共産主義者となり、反逆的な社会運動家として虎ノ門事件を起こしました。

虎ノ門事件の背景

難波大助が虎ノ門事件を引き起こした背景には、当時の社会状況が深く関わっています。虎ノ門事件が起こる約4ヶ月前には関東大震災があり、社会が不安定になったことによって無政府主義者や共産主義者への弾圧が激しくなっていました。 ここでは虎ノ門事件の背景について、詳述します。

関東大震災による社会混乱・不安

虎ノ門事件があった1923年の9月1日には、関東大震災が起こっていました。この地震により10万9,000棟が全壊し、約21万2,000棟が全焼しています。 死亡あるいは行方不明者は10万5,000人、被災者は190万人にも上っています。また当時は通信・報道手段が東京都内に集中していたため、首都機能が麻痺する事態となりました。 また関東大震災後の混乱に乗じて朝鮮人による凶悪犯罪や暴動を起こすという噂がまことしやかに流れるなど、社会不安が高まっていました。

無政府主義者への弾圧

関東大震災の発生により社会が混乱する中、陸軍内に社会主義並びに自由主義の指導者を殺害しようとする動きが生まれました。その代表例が「甘粕事件」「亀戸事件」です。 甘粕事件では社会運動家の大杉栄氏や伊藤野枝氏が、亀戸事件では労働運動の指導者だった平澤計七氏が殺害されています。 そうした無政府主義者への弾圧が進むことに対し、社会主義者は反発を強めていきます。その1人に虎ノ門事件の犯人となる、難波大助がいました。

虎ノ門事件の影響

白昼堂々、皇太子・摂政宮裕仁親王に対する襲撃が行われたことは関係各所に多大な影響を与えました。それは、関東大震災からの復興を進めていた内閣にも及んでいます。 ここでは虎ノ門事件の影響について、詳述します。

内閣の総辞職

虎ノ門事件が起こった1923年12月27日の夕方、当時の内閣総理大臣だった山本権兵衛氏を筆頭に内務大臣の後藤新平氏・司法大臣の平沼騏一郎氏など全閣僚が裕仁親王に辞表を提出しました。 裕仁親王は山本権兵衛氏を慰留しましたが決意は固く、同月29日に内閣閣僚全員の辞表を再提出します。 そのため1924年1月7日、裕仁親王は内閣総辞職を認めました。

関係者の辞任

虎ノ門事件の発生により、当日の警護体制にも厳しい目が向けられました。そのため警視総監だった湯浅倉平氏と警視庁警務部長だった正力松太郎氏は、懲戒免官されることとなります。 また難波大助の出身地である山口県の県知事に対しては給与の2ヶ月間の2割減、難波が立ち寄ったといわれた京都府の知事は譴責処分を受けました。 さらに現職の衆議院議員だった難波作之進は虎ノ門事件当日に辞職し、自宅に蟄居します。このように、関係者の辞任が相次ぎました。

まとめ

皇太子が白昼堂々と襲撃された虎ノ門事件は、関係者が辞職を余儀なくされるほど世間を騒然とさせる事件でした。犯人の難波大助は虎ノ門事件の翌年、大逆罪により死刑執行されています。 2019年は新天皇の御即位にまつわる行事が多く、報道で警護の様子を見た方も多いはずです。虎ノ門事件は現在における皇室の警護体制にも、教訓として生かされています。

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