\ 琉球風水志 シウマの占いページはこちら /

蛮社の獄は鎖国政策を避難した人々が逮捕された言論弾圧事件。モリソン号事件との関わりは?

もくじ

1分でわかる蛮社の獄

蛮社の獄と江戸幕府における方針変更

  • 1939年に言論弾圧事件である「蛮社の獄」が起こり、高野長英・渡辺崋山などが処罰される
  • 「蛮社の獄」のきっかけは異国船打払令により非武装船を砲撃した「モリソン号事件」
  • 1843年のアヘン戦争を受け江戸幕府は天保の薪水給与令を発令、近代化へと舵をきった

蛮社の獄の概要

「蛮社の獄」とは蘭学者が江戸幕府によって、言論弾圧された事件のことです。国学者が蘭学者を「蛮社」との蔑称で呼んでいたことが、事件名の由来です。蘭学の興隆に危機感を持った幕府が、蘭学者たちを処罰しました。この事件には当時の諸外国との関係もかかわっています。 まずは、この事件の概要について詳述します。

1839年(天保5年)におきた言論弾圧事件

「蛮社の獄」は、江戸時代である1938年5月に起こった事件です。当時、日本に多数の外国船が来航するようになり、江戸幕府に就航を求めていました。しかし、当時日本は鎖国をしていました。そのため江戸幕府は外国船の入港を認めず、外国船を砲撃する方針を固めたのです。 しかし、難破して漂流した日本人漁師が外国船に助けられることも多く、非武装船まで問答無用に打ち払うことに意義を唱える学者も少なくありませんでした。 蘭学者の代表的な1人である河野長英も著書「戊戌夢物語」の中で、武装・非武装にかかわらず外国船は容赦なく砲撃する江戸幕府の方針に意義を唱えたました。反対意見を重く見た幕府は、蘭学者の言論を弾圧するようになります。

蘭学者の高野長英、渡辺崋山などが処罰された

1837年に「モリソン号事件」が起こります。事件の内容は後に詳述しますが、これを受けて蘭学者と儒学者からなる尚歯会は江戸幕府への批判を匿名で始めます。 尚歯会に属していた高野長英に続いて、渡辺崋山も「慎機論」という書により「モリソン号事件」での江戸幕府の対応を非難します。 その結果として高野長英は無期懲役、渡辺崋山は江戸通報並びに故郷の田原藩で謹慎という処罰を受けました。

]]>

1分でわかる蛮社の獄

  • 1939年に言論弾圧事件である「蛮社の獄」が起こり、高野長英・渡辺崋山などが処罰される
  • 「蛮社の獄」のきっかけは異国船打払令により非武装船を砲撃した「モリソン号事件」
  • 1843年のアヘン戦争を受け江戸幕府は天保の薪水給与令を発令、近代化へと舵をきった

蛮社の獄の概要

「蛮社の獄」とは蘭学者が江戸幕府によって、言論弾圧された事件のことです。国学者が蘭学者を「蛮社」との蔑称で呼んでいたことが、事件名の由来です。蘭学の興隆に危機感を持った幕府が、蘭学者たちを処罰しました。この事件には当時の諸外国との関係もかかわっています。 まずは、この事件の概要について詳述します。

1839年(天保5年)におきた言論弾圧事件

「蛮社の獄」は、江戸時代である1938年5月に起こった事件です。当時、日本に多数の外国船が来航するようになり、江戸幕府に就航を求めていました。しかし、当時日本は鎖国をしていました。そのため江戸幕府は外国船の入港を認めず、外国船を砲撃する方針を固めたのです。 しかし、難破して漂流した日本人漁師が外国船に助けられることも多く、非武装船まで問答無用に打ち払うことに意義を唱える学者も少なくありませんでした。 蘭学者の代表的な1人である河野長英も著書「戊戌夢物語」の中で、武装・非武装にかかわらず外国船は容赦なく砲撃する江戸幕府の方針に意義を唱えたました。反対意見を重く見た幕府は、蘭学者の言論を弾圧するようになります。

蘭学者の高野長英、渡辺崋山などが処罰された

1837年に「モリソン号事件」が起こります。事件の内容は後に詳述しますが、これを受けて蘭学者と儒学者からなる尚歯会は江戸幕府への批判を匿名で始めます。 尚歯会に属していた高野長英に続いて、渡辺崋山も「慎機論」という書により「モリソン号事件」での江戸幕府の対応を非難します。 その結果として高野長英は無期懲役、渡辺崋山は江戸通報並びに故郷の田原藩で謹慎という処罰を受けました。

蛮社の獄の背景

「蛮社の獄」が起こった背景には、江戸幕府の鎖国政策を後押しする国学者と、新しい文化や時代を容認する蘭学者の軋轢があります。そんな中で欧米諸国の船が日本近海に来航するようになったことで、国内でも様々な意見が飛び交うようになります。 続いては当時の時代背景について紹介します。

蘭学がブームとなった

江戸時代の幕府は、鎖国政策の中唯一オランダとだけは交流を維持していました。江戸時代中期には「オランダ風説書」が日本に持ち込まれ、一世を風靡するほどの人気を博しました。 そして江戸時代後期には「蘭学」と呼ばれる、オランダの学問が一大ブームとなっていました。杉田玄白の翻訳による「解体新書」が有名になったように、西洋の進んだ医療に人々は驚きます。当時最先端の学問として、優秀な人材たちがこぞって蘭学を学びました。 後に「蛮社の獄」で処罰されることになった人々も、蘭学を勉強していた医者でした。

対外関係の不安と開国への期待があった

産業革命後の19世紀後半になると、欧米諸国は大量生産した商品を海外で売るようになります。アジアもその商圏であり、日本と就航を結ぶことで商売や中継地点として活用したいと考えていました。 しかし当時の江戸幕府は鎖国政策をとっており、江戸幕府は対応に苦慮したため異国船打払令を発令します。それは外国から日本を守ろうとする、江戸幕府の考えによるものでした。 一方で蘭学者を中心に開国への期待を寄せる人も増え始めるという、時代の過渡期でもありました。

蛮社の獄のきっかけ

「蛮社の獄」のきっかけとなったのは、前年の1837年に起きた「モリソン号事件」です。漂流していた日本人漁師を保護した非武装船を砲撃しただけでなく、日本近海における警備体制の甘さが露呈したことも事件につながっています。 ここでは「蛮社の獄」のきっかけについて、詳述します。

モリソン号事件

「モリソン号事件」が起こったのは、1837年のことです。浦賀近くに来航していたアメリカのモリソン号は、漂流していた日本人漁師7名を保護しました。 この7名を日本に送還することと引き換えに、日本との通商とキリスト教の普及を承認してもらおうと接岸を試みます。モリソン号は民間船で、武装していませんでした。 しかし浦賀奉公所は、モリソン号を砲撃します。その後モリソン号は山川に向かいますが同じように砲撃され、帰還を余儀なくされました。モリソン号事件の詳しい経緯や事件後の経過に関しては、以下の記事で詳しく解説しているので、こちらも一読ください。

高野長英の「戊戌夢物語」

「モリソン号事件」が起こった背景には、1808年10月に起こった「フェートン事件」がありました。長崎港にオランダ船を装ったイギリス軍艦が侵入し、日本人を人質にとったり許可なく上陸するなどの蛮行を働いた事件です。 この「フェートン事件」が異国船打払令につながるわけですが、高野長英が1838年10月に匿名で発表した「戊戌夢物語」において「モリソン号事件」の無謀さを非難します。人命救助が目的で来航した外国船については漂流民を受け取った上で、通商は拒否すればよいと主張しました。 「戊戌夢物語」は体裁としては夢の中で見聞したことを物語にしたとしていましたが巷で評判となったため、江戸幕府も看過できない状況でした。

渡辺崋山の「慎機論」

その後高野長英と同じ尚歯会に属する渡辺崋山が、「慎機論」の草稿を書きます。その中で渡辺崋山は「人道に背くことでイギリスに侵略される口実をつくることになる」という、高野長英同様の主張をしました。 当時の渡辺崋山は三河田原藩の家老を務めていたことから、匿名で発表することはできず草稿はそのまま放置されます。 しかし「蛮社の獄」により家宅捜索された際にその草稿が見つかり、渡辺崋山は断罪されました。

鳥居耀蔵による罪の捏造

「モリソン号事件」の後で江戸幕府は、江戸湾沿岸の警備を強化する目的で鳥居耀蔵に測量を依頼します。そして鳥居耀蔵は日本古来の方法で、江戸湾沿岸を測量しました。 しかし同時に蘭学の測量技術を学んでいた江川英龍も同じ作業を行っていました。2人は言い争い、鳥居耀蔵は江川英龍に言い負かされてしまいます。 面子を潰されたと感じた鳥居耀蔵は逆恨みをしました。当時明確には日本の領土とされていなかった小笠原諸島に、蘭学者が出向こうとしているという噂を根拠として次々と蘭学者を逮捕していきました。

蛮社の獄のその後

「蛮社の獄」で逮捕された高野長英と渡辺崋山に対する内偵は、1839年の春頃から始まっていました。その時期に鳥居耀蔵が小笠原諸島に蘭学者が渡航しようとしていると噂を聞きつけ、蘭学者排除のために暗躍します。そして蘭学者たちが無実だったにもかかわらず処罰されました。 ここでは「蛮社の獄」のその後について、詳述します。

蘭学者が次々と逮捕される

鳥居耀蔵は江戸湾沿岸の測量で江川との争いに負けたことを恨みに思い、彼を紹介するきっかけとなった渡辺崋山の内偵を進めていました。さらに渡辺崋山が小笠原諸島への調査を行う計画があったことを、海外への密航の企てだと断じます。 その結果小笠原諸島に調査に渡ろうとしていたメンバーが、次々逮捕される事態となりました。出頭を命じられたメンバーの中には逮捕を免れないと思い込み、自殺した人もいます。

天保の薪水給与令を出し、近代化に向かい始める

「蛮社の獄」により蘭学者を処罰した江戸幕府でしたが、1843年に起こった「アヘン戦争」で清国が負けたことにより意識改革を迫られました。日本より強いと考えていた清国に勝ったイギリスに、植民地化される危険を認識したからです。 老中だった水野忠邦は異国船打払令を止め、1842年に「天保の薪水給与令」を発令します。これにより来航した外国船を調査し、問題がなければ薪・水・食料の補給を認めました。そして日本の開国以後は蘭学者を多用し、日本は近代化に向かっていくことになります。

まとめ

江戸幕府の異国船打払令に対する批判がきっかけで蘭学者の迫害につながったのが「蛮社の獄」です。 「蛮社の獄」で逮捕された高野長英が自害した3年後にはペリーが来航し、日本は開国を余儀なくされます。そして肩身の狭い思いをしていた蘭学者たちの活躍により、日本は近代化していきました。こうした史実を覚えておきましょう。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

もくじ
閉じる