1分でわかる沖縄返還
沖縄返還
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1972年に日本に返還され43番目の県に
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日米間で結ばれた密約も話題になった
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基地問題や産業振興問題など未だ多くの課題
沖縄は1972年日本に返還され、はれて日本の42番目の県になりました。 太平洋戦争後日本はアメリカに占領されアメリカの統治下に置かれました。1951年の「サンフランシスコ平和条約」で日本は再び独立を果たしますが、沖縄だけがアメリカの統治を受け続けました。それが解消されたのが1972年だったのです。
1972年にアメリカから日本へ沖縄が返還された
1972年に日本とアメリカとの間で交わされた協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」です。 東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄に対する位置づけは当時のソビエトや中国などの社会主義諸国に対抗する軍事基地として認識されるようになっていました。 沖縄の返還はアメリカ軍基地を県内に維持したままの「核抜き・本土並み」の方針のもとに行われましたが、非核三原則の拡大解釈や日本国内への核兵器の一時的な持ち込みなどに関する秘密協定があったとされています。
沖縄返還までの道のり
なぜ沖縄だけがアメリカの占領下に置かれたままだったのでしょうか。それでも1972年というタイミングで日本に返還されたのはどのような経緯があったのでしょうか。 そこにはアメリカ側の事情とともに、沖縄県民の悲願ともいえる強い要望がありました。
戦後アメリカの支配下に
沖縄は日本の中では太平洋戦争で唯一戦場となった地域です。 戦後のサンフランシスコ講和条約において日本はアメリカの占領から脱して施政権を回復しましたが、沖縄だけは一定の自治を認められつつも最終的な意思決定権はアメリカが握ったままにされました。 1950年に勃発した朝鮮戦争や1960年のベトナム戦争が起こる中で、沖縄はアメリカにとって軍事上特別な存在感を持ちつつあったのです。
1分でわかる沖縄返還
- 1972年に日本に返還され43番目の県に
- 日米間で結ばれた密約も話題になった
- 基地問題や産業振興問題など未だ多くの課題
沖縄は1972年日本に返還され、はれて日本の42番目の県になりました。 太平洋戦争後日本はアメリカに占領されアメリカの統治下に置かれました。1951年の「サンフランシスコ平和条約」で日本は再び独立を果たしますが、沖縄だけがアメリカの統治を受け続けました。それが解消されたのが1972年だったのです。
1972年にアメリカから日本へ沖縄が返還された
1972年に日本とアメリカとの間で交わされた協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」です。 東西冷戦が過熱する中で、アメリカの沖縄に対する位置づけは当時のソビエトや中国などの社会主義諸国に対抗する軍事基地として認識されるようになっていました。 沖縄の返還はアメリカ軍基地を県内に維持したままの「核抜き・本土並み」の方針のもとに行われましたが、非核三原則の拡大解釈や日本国内への核兵器の一時的な持ち込みなどに関する秘密協定があったとされています。
沖縄返還までの道のり
なぜ沖縄だけがアメリカの占領下に置かれたままだったのでしょうか。それでも1972年というタイミングで日本に返還されたのはどのような経緯があったのでしょうか。 そこにはアメリカ側の事情とともに、沖縄県民の悲願ともいえる強い要望がありました。
戦後アメリカの支配下に
沖縄は日本の中では太平洋戦争で唯一戦場となった地域です。 戦後のサンフランシスコ講和条約において日本はアメリカの占領から脱して施政権を回復しましたが、沖縄だけは一定の自治を認められつつも最終的な意思決定権はアメリカが握ったままにされました。 1950年に勃発した朝鮮戦争や1960年のベトナム戦争が起こる中で、沖縄はアメリカにとって軍事上特別な存在感を持ちつつあったのです。
アメリカは軍事基地などを建設
アメリカ施政権のもとに沖縄各地の土地は強制接収され、力ずくで軍事関係の基地や関連施設の建設がを進められました。 アメリカの沖縄に対する位置づけは当時のソビエトや中国などの社会主義諸国に対抗する軍事基地であるとともに、フィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点、後方支援基地として重要性を増していったのです。 一方政治的にはベトナム戦争終結を公約に掲げ大統領選挙に当選した当時のニクソン大統領はベトナム戦争の終結を考え、当時の佐藤首相に安保延長と引き換えに沖縄返還を約束しました。
アメリカ軍兵士による事件などが多発した
アメリカ占領下の沖縄ではアメリカ軍兵士による悪質な事故や殺人を含む事件が頻発しました。 沖縄県民はアメリカの占領施政に失望し、本土復帰を強く訴えるようになりました。県民の有志は抵抗運動を起こし、1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」が結成されました。 1970年には沖縄本島中部のコザ市(現在の沖縄市)でアメリカ軍兵士が起こした連続交通事故を契機にコザ暴動が発生しました。刑事事件においても日頃からアメリカ軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に扱われていることに対する市民の怒りが表面化したものでした。
沖縄返還の経緯
沖縄返還にあたっては日本とアメリカの間で一般の国民には知らされいない、様々な形の密約があったのではないかとの噂があります。現実にその一部を暴こうとしたジャーナリストが逮捕されるという有名な事件もありました。 ではそのような密約も含めて沖縄返還の具体的な経緯を見ていきましょう。
1972年に日本復帰
沖縄返還が具体的な形になったのは1969年に行われた日米首脳会談でした。当時のニクソン大統領と佐藤首相が安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したのです。沖縄県民の期待に反して、アメリカ軍基地を県内に維持したままの返還という方針でした。 1971年には沖縄返還協定が調印され、沖縄は1972年に日本へ正式に復帰しました。 残された基地の人員を除いて実際にアメリカ軍がベトナムから退いたのは、翌年の1973年になりました。
日本は多額のお金や密約が噂される協定を結んだ
佐藤・ニクソン首脳会議では非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍核兵器の一時的な持ち込みを許容する秘密協定があったとされています。冷戦という当時の政治情勢の中でアメリカの意向を尊重したのが理由です。 沖縄返還に際し日本政府は返還協定に基づき「特別支出金」として総額3億2000万ドルをアメリカ政府に支払いました。 ジャーナリストであった西山太吉氏は、実際にアメリカに支払った総額は5億ドルをはるかに超えており、多くが密約として処理されたと主張しています。
沖縄返還のその後
ここまで返還されるまでの沖縄を見てきました。返還された後の沖縄には、いいことももちろんありましたが課題も残されました。今なお残るこれらの課題は沖縄県民だけでなく日本全体の大きな宿題といえます。 では返還後の沖縄の状況を具体的に見てみましょう。
法律の整備などが行われた
沖縄の復帰に伴って特別措置に関する法律が定められました。1972年にはこれに基づき沖縄県議会選挙が行われました。同時に沖縄県庁や沖縄県警、自衛隊なども置かれました。 1978年には車両の通行が右側通行から左側通行に切り替えられ、他の都道府県と同じ道路交通法が適用されるようになりました。 沖縄には返還後道路・病院・学校など公共投資に対する予算措置が行われるとともに数々の優遇税制も手当てされ、本土並みの生活水準へ向けた取り組みが官民あげて進められました。
観光業が中心に
沖縄の主要産業は公務・公共事業・アメリカ軍基地関連事業に加えて観光業が中心です。これらの分野で多くの安定した雇用を確保しています。 返還後の沖縄では製造業の育成が立ち後れ、現在でも1人あたりの県民所得は全国の中で最下位辺りを低迷しています。 返還前の沖縄では県外へ移住する人が多かった時期もありましたが、復帰後は逆に本土からの移住者が大幅に増えています。特に2000年代後半からは子育て世代の若い夫婦や定年後の中高年を中心に沖縄移住がブームとなっています。
基地問題など課題は未だに抱えている
2017年の沖縄タイムス・朝日新聞などによる沖縄県民への調査によれば「日本へ復帰してよかった」と答えた人は82%にのぼりました。 総合的には悲願が叶ったという形ですが、今なお課題は多く残されています。よく指摘されるように現在も日本におけるアメリカ軍基地の7割以上が沖縄県に集中しています。たびたび引き起こされるアメリカ兵による暴行事件が県民感情を逆撫でしています。 復帰時様々な沖縄振興策が講じられましたが、公共事業を中心とした建設業の投資に偏る傾向があり、道路や箱物ばかりが立派になったと揶揄(やゆ)され、県民所得は低いままです。
まとめ
今回は「沖縄返還」を取り上げました。今なお残るアメリカ軍基地問題は時の政権をも転覆させるほどの大問題です。安全保障上の必要性は理解できても、沖縄だけにアメリカ軍基地を押しつけてよいのかとの議論は今後も止むことはないでしょう。 我々日本人全員が持ち続けなくてはいけない大きな問題意識といえます。