1分でわかるノルマントン号事件
- ノルマントン号事件は有色人種差別が生んだ大惨事
- やがて政治問題となり不平等条約の改正へと繋がる
- 過去の失敗から学んだ陸睦宗光・イギリスと日英通商航海条約を締結
ノルマントン号事件の概要

1886年、横浜から神戸に向かっていたノルマントン号は航海中に暴風にみまわれ座礁、沈没しました。脱出したのはイギリス人やドイツ人だけで日本人らは発見されませんでした。見殺しにしたのは有色人種に対する差別だとして国民の怒りが沸騰しました。 船長のジョンウイリアムドレークは言葉が通じなくて避難が間に合わなかったと説明しますが、国民の非難の声は収まりませんでした。
1886年にイギリス船籍の貨物線・ノルマントン号が座礁沈没したことから始まる紛争事件
紀伊半島の熊野灘は江戸時代以降は関西の京都や大阪と江戸を結ぶ海上輸送の難所といわれ、海難事故が多発していました。日本では灯台を設置し頻発する事故に備えていました。 横浜港から神戸を目指していたノルマントン号は暴風雨に巻き込まれ、和歌山県樫野崎で座礁、沈没しました。 この事故でイギリス人とドイツ人はいち早く救助ボートに乗って脱出し、内3名が死亡しますがほぼ全員が救助されました。しかし、ノルマントン号に同乗していた日本人や中国人は取り残され全員が行方不明となりました。
船長を含む25人は全員助かったが、日本人乗客の24名全員が死亡
この事故で不可解とされたのは、船長のジョンウイリアムドレークをはじめイギリス人やドイツ人の乗組員だけが救助ボートで脱出したことです。 船には日本人24人や中国人技師が乗っていましたが、そのまま船内に残されました。一方、船長たちが乗る救助ボートは須江浦の漁師らによってほぼ全員が救助されました。 日本人の水死体が発見されないことなどに疑問をもった人々が、船長らが脱出する前に日本人らを監禁していたのではないかという疑念を抱きます。
船長の非人道的行為や人種差別的行動に国民が憤怒する
東京日日新聞は「ひとりも助からないのはおかしい。西洋人であれば助けたのに、日本人だから助けなかったのではないか。」と論じ、国民も事故の背景に人種差別があると憤りました。 ジョンウイリアムドレークジョン船長は「言葉が通じなかった彼らは状況が分からなかった。だから我々だけで脱出した」と陳述しました。 しかしこれに納得しない日本国民の怒りは収まらず、当時の外務大臣井上毅(かおる)はジョンウイリアムドレークジョン船長を殺人罪で告訴することを決断します。
ノルマントン号事件裁判の経緯

当時の外務大臣である井上毅は法務学者らの意見を聞きながら、ジョンウイリアムドレークジョン船長を英国領事裁断所に殺人罪で起訴しました。 裁判ではジョンウイリアムドレークジョン船長に有罪判決が下ります。しかし判決内容は禁固3か月、賠償金の支払いもないという日本の求めと比べ軽いものでした。
領事裁判権に基づき海難審判が行われたが、船長に無実判決が下される
ジョンウイリアムドレークジョン船長がどんなに訴えても、実際に有色人種だけが行方不明(実際は死亡)なっているのですから、相応の処分を求めるようにと世論が沸きおこります。 そこで当時の外務大臣の井上馨は英国の領事裁判権に基づいて海難裁判を行うことを決断します。 海難裁判は計2回行われ、1回目の裁判ではジョンウイリアムドレークジョン船長が出廷し証言しました。
無実判決に国民世論は沸騰
1886年11月1日、1回目の裁判で日本側はジョンウイリアムドレークジョン船長の死刑を求めました。 しかし英国の領事裁判所は「彼は救出する努力をしたが言葉が通じず叶わなかった。日本人を残したのはやむを得えない行為だった。」として無実の判決を下しました。 この判決に国民世論は沸騰し、新聞も連日この話題をとりあげ政府は対応を迫られることになります。
井上外相が兵庫県知事名で殺人罪で告訴させ、有罪判決が出るものの賠償金は無し
1回目の裁判ではジョンウイリアムドレークジョン船長と脱出した船員全員が無実となりました。 世論から不満の声が上がる中行われた2回目の裁判では、ジョンウイリアムドレークジョン船長は有罪の判決を受けます。 しかし刑罰は禁固3か月で、賠償金の支払いも認められないという日本の求めに対して非常に軽いものでした。
ノルマントン号事件と領事裁判権が撤廃されるまで

ノルマントン号事件に限らず、明治時代には領事裁判権による不平等な判決が続き問題視されていました。 井上馨もノルマントン号事件などの経験から不平等条約の改正に取り組んでいましたが、その実現を果たすことは出来ませんでした。
不平等条約の領事裁判権による裁判で何度か日本側が悔しい思いをする
不平等条約による領事裁判権による裁判では日本は何度も悔しい思いをして来ました。 1877年に起きた「ハートリー事件」ではイギリス貿易商のジョンハートレーがアヘンの密輸をしようとして税関に捕まりますが、イギリスの法律ではアヘン取引は合法であるとして無罪になっています。 1892年には「千島艦事件」が発生し、日本軍の水雷砲艦千島が瀬戸内海でイギリス商船ラヴェンナ号と衝突し、千島の乗組員74人が殉職しました。この事件では日本政府が訴訟当事者になり、その後の領事裁判権の撤廃へと繋がっていきます。
条約改正の失敗が続く
不平等条約の改正は当時日本の最重要課題でした。1872年には岩倉使節団がアメリカを視察し改正交渉をしますが失敗します。 ノルマントン号事件で活躍した井上馨もイギリスとの交渉に失敗します。こうした歴代外務大臣の失敗から別の角度で交渉をする方がよいと考えたのが陸睦宗光(むつむねみつ)です。 陸睦宗光は幕末に条約を結んだ国以外と対等条約を結び、各国にプレッシャーをかけていく戦略をとりました。
第二次伊藤博文内閣が成立し、陸奥宗光外相が領事裁判権の撤廃を実現させる
1886年に外務省に出仕した陸睦宗光が最初にやったのは幕末に通商条約を結んだアメリカなどの国以外との条約締結を進めることでした。 1888年にはメキシコと「日墨修好通商条約」を締結させ、欧米との交渉を進める足掛かりを作りました。 1894年にはイギリスと「日英通商航海条約」を締結させ、日本の悲願だった領事裁判権の廃止と関税自主権の一部回復を成功させしました。
ノルマントン号事件とビゴーの関係

風刺漫画家として有名なジョルジュビゴーはノルマントン号事件についても描いています。 フランス人のジョル ジュビゴーはイギリスの対応がまずかったせいで、日本は欧米との条約を改正したのだと批判しました。
まとめ

このノルマントン号事件の不当な判決よって、日本が一丸となって不平等条約を改正しようとする世論が作られました。 不平等条約がある限り日本は真の文明国、主権国家にはなれないと国民が立ち上がり、政府を突き動かしたともいえます。井上馨や陸睦宗光などの有能な政治家に恵まれたことも当時の日本にとって幸運なことでした。