1分でわかるニクソンショック
ニクソンショック
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1971年にニクソン大統領が金と米ドル紙幣の交換停止を発表
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これによりブレトン・ウッズ体制の維持が不可能となる
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日本でも1ドル360円の固定相場制が終了する事態に
「ニクソンショック」は1971年8月15日にアメリカのニクソン大統領が、金と米ドル紙幣の交換停止を含めた経済政策を発表したことから始まります。その影響で、既存の世界秩序は方向転換を余儀なくされました。 今回は「ニクソンショック」とは何か、日本への影響などについて解説します。
ニクソンショックの背景
「ニクソンショック」は当時のニクソンアメリカ大統領が経済政策を大きく変更したことにより、世界経済の枠組みまで大きく変換した注目の出来事でした。 なぜ「ニクソンショック」が起こったのか理解するためには、当時のアメリカの状況について知っておく必要があります。
ブレトン・ウッズ協定
「ブレトン・ウッズ協定」とは世界通貨体制を指し、1944年から1971年まで続きました。米ドルを基軸に、世界各国の通貨為替レートを決定する仕組みです。 このブレトン・ウッズ協定により「国際通貨基金(IMF)」「国際復興開発銀行(IBRD)」が設立され、ドルと金の兌換(だかん)を維持します。 そしてブレトン・ウッズ協定では、米ドルだけが金と交換することを保証されていました。その背景には圧倒的な生産力を持っていたアメリカが世界各国に輸出することで貿易黒字を得たことで、大量の金を蓄えていたことがあります。
アメリカでインフレが進む
1960年代に入ると、西欧諸国の経済力が次第に回復していきました。そして日本も高度成長期に入ります。これにより、米ドルが海外に流出するようになりました。 1965年にアメリカはベトナム戦争に軍事介入し、軍事費が財政を圧迫するようになり財政赤字が進みました。 財政赤字と国際収支の赤字拡大によって、アメリカではインフレが進む結果となりました。
ニクソンショックの原因:ニクソン大統領の声明
「ニクソンショック」の発端は、1971年8月15日にニクソンアメリカ大統領が経済政策の方向を大きく転換すると発表したことでした。 当時のアメリカ国内では失業とインフレが問題となっており、国民は新たな措置を求めていたため、方向転換せざるをえない状況だったといえます。
金兌換制の廃止
「ニクソンショック」の発表の中でも世界に衝撃を与えたのが、「金兌換制(きんだかんせい)」の廃止です。 ブレトン・ウッズ協定では、金1オンスが35米ドルで交換できるとされていました。さらに米ドル以外の通貨は、米ドルとの交換比率が固定されていたのです。 しかしアメリカの経済状況の悪化により、アメリカに米ドルを持ち込めば金に交換できるという制度が維持できなくなったのです。1971年8月13日にイギリスがアメリカに対し、30億米ドルを金に交換するよう申し出たことで明らかとなりました。
輸入課徴金の導入
ニクソン大統領の発表の中には、「10%の輸入課徴金導入」も含まれていました。 輸入課徴金とは、特定の政策目的のために輸入品に対して特別の関税や付加税を課すというものです。この導入は、輸入制限の一助となります。 10%の輸入課徴金導入によってアメリカの輸入超過を抑制することで、米ドルの流出を防ぐことが目的でした。
雇用政策
ニクソン大統領が発表した新経済政策の中には、国内の雇用対策も含まれていました。 当時のアメリカは失業率が高い状態でしたが、その対策として90日間賃金と物価を凍結することを宣言しました。 この価格政策のほかに、総額62億ドルの減税を行うことで国内経済の立て直しを図ろうとしました。
1分でわかるニクソンショック
- 1971年にニクソン大統領が金と米ドル紙幣の交換停止を発表
- これによりブレトン・ウッズ体制の維持が不可能となる
- 日本でも1ドル360円の固定相場制が終了する事態に
「ニクソンショック」は1971年8月15日にアメリカのニクソン大統領が、金と米ドル紙幣の交換停止を含めた経済政策を発表したことから始まります。その影響で、既存の世界秩序は方向転換を余儀なくされました。 今回は「ニクソンショック」とは何か、日本への影響などについて解説します。
ニクソンショックの背景
「ニクソンショック」は当時のニクソンアメリカ大統領が経済政策を大きく変更したことにより、世界経済の枠組みまで大きく変換した注目の出来事でした。 なぜ「ニクソンショック」が起こったのか理解するためには、当時のアメリカの状況について知っておく必要があります。
ブレトン・ウッズ協定
「ブレトン・ウッズ協定」とは世界通貨体制を指し、1944年から1971年まで続きました。米ドルを基軸に、世界各国の通貨為替レートを決定する仕組みです。 このブレトン・ウッズ協定により「国際通貨基金(IMF)」「国際復興開発銀行(IBRD)」が設立され、ドルと金の兌換(だかん)を維持します。 そしてブレトン・ウッズ協定では、米ドルだけが金と交換することを保証されていました。その背景には圧倒的な生産力を持っていたアメリカが世界各国に輸出することで貿易黒字を得たことで、大量の金を蓄えていたことがあります。
アメリカでインフレが進む
1960年代に入ると、西欧諸国の経済力が次第に回復していきました。そして日本も高度成長期に入ります。これにより、米ドルが海外に流出するようになりました。 1965年にアメリカはベトナム戦争に軍事介入し、軍事費が財政を圧迫するようになり財政赤字が進みました。 財政赤字と国際収支の赤字拡大によって、アメリカではインフレが進む結果となりました。
ニクソンショックの原因:ニクソン大統領の声明
「ニクソンショック」の発端は、1971年8月15日にニクソンアメリカ大統領が経済政策の方向を大きく転換すると発表したことでした。 当時のアメリカ国内では失業とインフレが問題となっており、国民は新たな措置を求めていたため、方向転換せざるをえない状況だったといえます。
金兌換制の廃止
「ニクソンショック」の発表の中でも世界に衝撃を与えたのが、「金兌換制(きんだかんせい)」の廃止です。 ブレトン・ウッズ協定では、金1オンスが35米ドルで交換できるとされていました。さらに米ドル以外の通貨は、米ドルとの交換比率が固定されていたのです。 しかしアメリカの経済状況の悪化により、アメリカに米ドルを持ち込めば金に交換できるという制度が維持できなくなったのです。1971年8月13日にイギリスがアメリカに対し、30億米ドルを金に交換するよう申し出たことで明らかとなりました。
輸入課徴金の導入
ニクソン大統領の発表の中には、「10%の輸入課徴金導入」も含まれていました。 輸入課徴金とは、特定の政策目的のために輸入品に対して特別の関税や付加税を課すというものです。この導入は、輸入制限の一助となります。 10%の輸入課徴金導入によってアメリカの輸入超過を抑制することで、米ドルの流出を防ぐことが目的でした。
雇用政策
ニクソン大統領が発表した新経済政策の中には、国内の雇用対策も含まれていました。 当時のアメリカは失業率が高い状態でしたが、その対策として90日間賃金と物価を凍結することを宣言しました。 この価格政策のほかに、総額62億ドルの減税を行うことで国内経済の立て直しを図ろうとしました。
ニクソンショックの影響
ニクソン大統領が1971年8月15日に発表したアメリカの新経済政策は、世界各国に様々な影響を与えました。この発言により、それまでの世界秩序は大きく変革せざるをえなくなったのです。
ドルが暴落
1971年8月15日にニクソン大統領が金兌換制(きんだかんせい)の停止を発表したことで、米ドルに対する信用がなくなり大暴落します。 そのため欧州各国は「ニクソンショック」の翌日である16日、為替市場を閉鎖しました。 しかし日本の為替市場は開放されており、米ドル売りが殺到したのです。その結果として43億米ドルだった日本の外貨準備高が、146億米ドルになりました。
ブレトン・ウッズ協定の廃止
「ニクソンショック」によって米ドルへの信用が急落したことで、固定相場制を維持する理由がなくなってしまいました。 そのため世界各国は、「変動為替相場制」へと舵を切ります。 変動為替相場制度は、市場の需要や供給によって為替レートを決定するというものです。これによりブレトン・ウッズ協定が廃止されることになりました。
スミソニアン体制の導入と終焉

1971年12月アメリカのワシントンにあるスミソニアン博物館で、先進諸国の蔵相が集まった会議が行われました。その席上で米ドルの切り下げを決定し、固定相場制を維持しようと試みました。これを「スミソニアン協定」といいます。 しかしすでに米ドルの価値を保証できる状況にはなく、わずか2年後の1973年にはスミソニアン協定は終焉を迎えています。
ニクソンショックの日本への影響と対処
「ニクソンショック」は、日本にも大きな影響を与えました。日本も1973年に、変動相場制に移行したからです。 変動相場制によって、ドルのレートは低下します。そして1ドルが200円を割り込むことが、当たり前になったのです。 その結果、日本からアメリカへの輸出がふるわなくなりました。それを受けて国内需要を拡大する必要に迫られ、日銀は公定歩合を引き下げます。融資を受けやすくなったことから投資が過熱し、これがバブル経済につながっていきます。
もう一つのニクソンショック:ニクソン大統領の中国訪問

世界経済の秩序の変革のきっかけとなった出来事のことを、一般的に「ニクソンショック」と呼ばれています。 しかし実は「ニクソンショック」は2回ありました。 「第1次ニクソンショック」といわれるのが、1971年7月15にニクソン大統領が発表した外交政策です。その際ニクソン大統領は、中華人民共和国に訪問することを宣言しました。当時のアメリカと中国の外交関係は第二次世界大戦の影響などで非常に悪かったことから周囲を驚かせるショックを与えた発表となりました。
ニクソンショックからの学び

「ニクソンショック」によって起こったブレトン・ウッズ協定の崩壊から、学べることがあります。それは1つの通貨を基軸に、為替レートを固定することが難しいという事実です。 テクノロジーの開発や技術の進歩により、貿易取引量をそれぞれの国だけで制御することが不可能となりました。資本主義社会では、国が貿易を統制できないのです。 しかし変動相場制は、不安定なシステムでもあります。そのため「ニクソンショック」以降、世界各国で金融危機が多発するようになりました。
ニクソンショックに類似の通貨危機
「ニクソンショック」以降世界では通貨・金融危機が多発するようになりました。私たちの身近でも通貨・金融危機は発生しているのです。 以下で日本に近いアジアで起こった通貨・金融危機による経済不況を二つご紹介します。
アジア通貨危機
「アジア通貨危機」とは1997年から1998年に、アジア新興国であったタイ・インドネシア・韓国・香港において起こった一連の金融危機を指します。 当時のアジア新興国は米ドルとの固定相場制を採用しており、先進国から直接投資を受けていることに加え輸出産業に依存し経済構造は不安定な状況でした。 1997年7月にタイの通貨であるバーツが暴落すると、インドネシア・韓国・フィリピンなどでも通貨・経済危機が誘発されたのです。その結果、アジア新興国では深刻な景気後退が起こりました。
韓国通貨危機
「韓国通貨危機」とは2008年から2009年にかけて、ウォンが大暴落したことで起こった通貨危機をさします。 2008年9月にアメリカで起こったリーマンショックにより、世界中の金融機関が経営危機に陥りました。それにより金融市場が信用収縮に見舞われ、流通が滞ったドルが市場で不足したのです。 2006年から国際収支が悪化していた韓国ではドル不足に加え、資本収支の短期対外債務の比率が高くなっていたためウォンが下落しました。一時はアメリカと通貨スワップ協定を結ぶことで持ち直しますが、2009年2月に再びウォン安に転じました。しかし日韓通貨スワップの締結も功を奏して、通貨危機は何とか脱しました。
まとめ
世界の経済構造を考えるうえで避けて通ることのできない、「ニクソンショック」について説明しました。固定相場制から変動相場制への移行により、世界の金融市場も大きく変わったのです。 「アジア通貨危機」や「韓国通貨危機」だけでなく、1987年の「ブラックマンデー」、1990年代の日本の「バブル崩壊」など、世界では金融危機が多発しています。今後の世界金融市場の推移を見守るうえでも、「ニクソンショック」を学ぶことは重要です。