1分でわかるモリソン号事件
ニュースの要点
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1837年に漂流していた日本人を乗せたイギリスのモリソン号が来航
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モリソン号をイギリス軍艦だと勘違いして、異国船打払法により砲撃
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蛮社の獄・アヘン戦争を経て、江戸幕府は対外政策の方針転換を行う
モリソン号事件の概要
(画像:Unsplash)
「モリソン号事件」が起こったのは、鎖国政策がとられていた江戸時代後期のことです。「フェートン事件」や「大津浜事件」「宝島事件」といった、外国船来航によって様々な事件が起こっていました。 そのため1825年に江戸幕府は、異国船打払令を発令します。その後に「モリソン号事件」が起こるのです。ここでは「モリソン号事件」の概要について、詳述します。
1837年に起きた事件
「モリソン号事件」は江戸時代後期である、1837年に起こりました。モリソン号はアメリカの船で、江戸幕府に対し通商とキリスト教の普及について交渉するという目的を持っていました。 モリソン号の船長はD・インガソル氏で、アメリカの商社であるオリファント社の依頼で日本に来ていたのです。そのため船は非武装で、日本の浦賀に来航しました。
日本人漂流民を乗せたアメリカ船を砲撃
アメリカ船であるモリソン号には、漂流していた日本人が7名同乗していました。当時は日本船が漁のために外界に出て嵐にあって漂流し、外国船に助けられることが珍しくなかったのです。 しかし浦賀奉公所はモリソン号をイギリス軍艦と勘違いし、砲撃します。退去を余儀なくされたモリソン号は薩摩藩の山川に向かい、交渉に臨みました。 しかし交渉を拒否されたうえ、ここでも砲撃を受けたのです。日本との交渉を諦めたモリソン号は、アメリカに帰航しました。
1分でわかるモリソン号事件
- 1837年に漂流していた日本人を乗せたイギリスのモリソン号が来航
- モリソン号をイギリス軍艦だと勘違いして、異国船打払法により砲撃
- 蛮社の獄・アヘン戦争を経て、江戸幕府は対外政策の方針転換を行う
モリソン号事件の概要

「モリソン号事件」が起こったのは、鎖国政策がとられていた江戸時代後期のことです。「フェートン事件」や「大津浜事件」「宝島事件」といった、外国船来航によって様々な事件が起こっていました。 そのため1825年に江戸幕府は、異国船打払令を発令します。その後に「モリソン号事件」が起こるのです。ここでは「モリソン号事件」の概要について、詳述します。
1837年に起きた事件
「モリソン号事件」は江戸時代後期である、1837年に起こりました。モリソン号はアメリカの船で、江戸幕府に対し通商とキリスト教の普及について交渉するという目的を持っていました。 モリソン号の船長はD・インガソル氏で、アメリカの商社であるオリファント社の依頼で日本に来ていたのです。そのため船は非武装で、日本の浦賀に来航しました。
日本人漂流民を乗せたアメリカ船を砲撃
アメリカ船であるモリソン号には、漂流していた日本人が7名同乗していました。当時は日本船が漁のために外界に出て嵐にあって漂流し、外国船に助けられることが珍しくなかったのです。 しかし浦賀奉公所はモリソン号をイギリス軍艦と勘違いし、砲撃します。退去を余儀なくされたモリソン号は薩摩藩の山川に向かい、交渉に臨みました。 しかし交渉を拒否されたうえ、ここでも砲撃を受けたのです。日本との交渉を諦めたモリソン号は、アメリカに帰航しました。
モリソン号事件はなぜ起きたか

モリソン号はアメリカの非武装船で、保護した日本人漂流者も同乗していました。しかしイギリスやロシアの軍艦と同様に、砲撃されてしまったのです。 ここでは「モリソン号事件」がなぜ起きたのかについて、詳述します。
モリソン号の来航の目的は、漂流民の送還とキリスト教布教
モリソン号が日本に来航したのはアメリカの商社であるオリファント社の依頼で、通商とキリスト教の普及許可を求めていることにあったことは前述しました。そのため、非武装で来航しています。 さらにモリソン号には、漂流していた日本人漁師7名が乗船していました。その遭難者を日本に送還することも、目的の一つだったのです。
異国船打払令によって砲撃される
江戸幕府は1825年に「異国船打払令」を発令していました。異国船打払令とは日本に近づいた外国船を追放するために、見つけ次第砲撃するように命じたものです。 モリソン号は漂流していた日本人7名を保護して送還しようとしていたにも関わらず、この異国船打払令によって砲撃されました。しかも浦賀と山川で2度、砲撃を受けています。 そのためモリソン号は目的を叶えるのは難しいと判断し、アメリカに帰還しました。
モリソン号事件のその後

「モリソン号事件」は江戸幕府のみならず、日本全体に様々な影響を与えました。この事件により、公然と江戸幕府を批判する声が上がるようになったのです。そして「蛮社の獄」につながっていきます。 ここでは「モリソン号事件」のその後について、詳述します。
日本の防備の脆弱性が露呈した
「モリソン号事件」により、江戸幕府はアメリカの民間船を退去させることはできました。 しかし「モリソン号事件」の砲撃によって、浦賀から撃った大砲がモリソン号に届かなかったという現実を突きつけられることになります。その後の薩摩藩が、沿岸防備に力を入れるようになったのがその表れです。 さらに浦賀奉公所の武士たちは、外国船が突然現れたことでの動揺を隠すことができませんでした。これにより、日本の防備が脆弱であることが露呈してしまったのです。
江戸幕府に批判が集まった
オランダ商館より江戸幕府に対し、モリソン号には日本人の漂流者7名が乗船していたことが知らされます。 しかし江戸幕府の審議では外国船を打ち払うためには、漂流した日本人の送還は一切認めるべきではないとの強硬意見が採用されました。 そうした江戸幕府の決定に対し、多くの批判が集まったのです。非難の声をあげたのは、蘭学者や儒学者たちでした。
蛮社の獄の発端の1つとなった
「モリソン号事件」を契機に江戸湾の防備に乗り出した江戸幕府に対し、蘭学者と儒学者からなる尚歯会が強く批判していました。江戸幕府にはもともと蘭学者を排除しようという思惑があり、尚歯会を弾圧し始めます。 これが1839年5月に起こった「蛮社の獄」です。これは江戸幕府による、言論弾圧事件を指します。この「蛮社の獄」により高野長英や渡辺崋山が捕らえられ、牢屋につながれました。
江戸幕府の方針を転換させた
「蛮社の獄」により江戸幕府への公然とした批判は封じ込めたものの、その後に方向転換を余儀なくされる事件が再び起こります。それが、1849年から1842年に起こった「アヘン戦争」です。 アヘン戦争とはアヘンを巡って清とイギリスが戦った戦争のことで、イギリスが圧勝します。それは清は軍事力が高いと信じていた江戸幕府にとって、衝撃的な出来事だったのです。 そのためアヘン戦争以後は外国船の報復攻撃を避けるため、1842年に「天保の薪水給与令」を発令します。これにより調査して問題がなかった外国船に対しては、食料や燃料の補給を認めました。
まとめ

今回は江戸幕府の対外政策を大きく転換させるきっかけとなった、「モリソン号事件」について説明しました。 「モリソン号事件」から「アヘン戦争」「天保の薪水給与令」を経て、江戸幕府は外国との通商を始めることとなります。それが日本の開国につながっていくのです。 こうした知識を踏まえて現在の外交問題を考えると、新たな視点が生まれるかもしれません。