キューバ危機とはアメリカとソビエトの核戦争危機
1分でわかるキューバ危機
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アメリカがキューバとソ連の結びつきを危惧
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アメリカとソ連の核戦争の手前に
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アメリカと旧ソ連首相を繋ぐホットラインの設立
かつてアメリカ合衆国と旧ソビエト連邦が一触即発の危機に陥ったことがありました。まさに第三次世界大戦が始まる可能性が高まったのです。 それは「キューバ危機」と呼ばれています。アメリカとソビエトは大量の核兵器を保有していましたので、どちらかが一発でも核兵器を使用すれば双方核兵器の応酬となり、それは人類全体の危機をも意味しました。 それでは、この「キューバ危機」の原因や危機が回避されるまでの経緯などを詳しく見ていきましょう。
キューバ危機の原因
人類にとって致命的なアメリカとソビエト双方が核兵器を搭載したミサイルを撃ち合うような危機が何故起こったのでしょうか、そしてそれは何故「キューバ」だったのでしょうか。 そこには「キューバ」という国の地政学的な特徴がありました。アメリカ周辺の地図を頭に浮かべながら記事を読み進めてください。
1962年にソビエトとキューバが軍事協定を結びミサイルなどを送った
1962年ソビエトとキューバは極秘で軍事協定を結びました。この協定に基づきソビエトはキューバに核ミサイルをはじめ多くの武器・兵員を送りました。 背景には1959年のカストロによる「キューバ革命」がありました。キューバ革命を契機にキューバはアメリカと敵対し、ソビエトと急速に接近しました。 アメリカの喉元にあるキューバが共産化することに、当然アメリカは強い危機感を持ち秘密裏にキューバのカストロ政権転覆を計画しました。
核ミサイル基地を見つけたアメリカが海を封鎖し撤退を迫る
ソビエトとキューバの接近によってソビエト関係の船舶が頻繁にキューバ近海に現れるようになり、アメリカは警戒感を強め偵察飛行を強化します。 1962年10月アメリカの偵察機はキューバでソビエト製の中距離弾道ミサイルが配備された核ミサイル基地を発見しました。 アメリカ大統領のケネディは様々な選択肢の中で海上封鎖を選択します。ソビエト側に強いメッセージを発するとともに、今後の選択肢の幅を広げるためでした。
キューバ危機とはアメリカとソビエトの核戦争危機
- アメリカがキューバとソ連の結びつきを危惧
- アメリカとソ連の核戦争の手前に
- アメリカと旧ソ連首相を繋ぐホットラインの設立
かつてアメリカ合衆国と旧ソビエト連邦が一触即発の危機に陥ったことがありました。まさに第三次世界大戦が始まる可能性が高まったのです。 それは「キューバ危機」と呼ばれています。アメリカとソビエトは大量の核兵器を保有していましたので、どちらかが一発でも核兵器を使用すれば双方核兵器の応酬となり、それは人類全体の危機をも意味しました。 それでは、この「キューバ危機」の原因や危機が回避されるまでの経緯などを詳しく見ていきましょう。
キューバ危機の原因
人類にとって致命的なアメリカとソビエト双方が核兵器を搭載したミサイルを撃ち合うような危機が何故起こったのでしょうか、そしてそれは何故「キューバ」だったのでしょうか。 そこには「キューバ」という国の地政学的な特徴がありました。アメリカ周辺の地図を頭に浮かべながら記事を読み進めてください。
1962年にソビエトとキューバが軍事協定を結びミサイルなどを送った
1962年ソビエトとキューバは極秘で軍事協定を結びました。この協定に基づきソビエトはキューバに核ミサイルをはじめ多くの武器・兵員を送りました。 背景には1959年のカストロによる「キューバ革命」がありました。キューバ革命を契機にキューバはアメリカと敵対し、ソビエトと急速に接近しました。 アメリカの喉元にあるキューバが共産化することに、当然アメリカは強い危機感を持ち秘密裏にキューバのカストロ政権転覆を計画しました。
核ミサイル基地を見つけたアメリカが海を封鎖し撤退を迫る
ソビエトとキューバの接近によってソビエト関係の船舶が頻繁にキューバ近海に現れるようになり、アメリカは警戒感を強め偵察飛行を強化します。 1962年10月アメリカの偵察機はキューバでソビエト製の中距離弾道ミサイルが配備された核ミサイル基地を発見しました。 アメリカ大統領のケネディは様々な選択肢の中で海上封鎖を選択します。ソビエト側に強いメッセージを発するとともに、今後の選択肢の幅を広げるためでした。
封鎖を突破しようとするソビエトとアメリカが緊張状態に
アメリカの本気度を値踏みしたソビエトのフルシチョフは、アメリカの海上封鎖が現実化するにはしばらく猶予があると判断します。 ソビエト近くにいたのキューバ行き船舶には寄港するように命じますが、キューバ近くの船舶には近いキューバの港に急行するよう命じ、キューバのミサイル基地建設も続行させます。 しかしながらアメリカの海上封鎖は現実となり、情勢は一気に緊迫化します。
アメリカ・ソビエト両首脳の行動と交渉
ここまでキューバを舞台にしたアメリカとソビエトのチキンレースが緊迫化するところまで見てきました。まさに核戦争一歩手前まできていたのです。 ここからはアメリカ大統領のケネディとソビエトのフルシチョフの行動を中心に、一触即発の危機がどのようにして回避されたのか見ていきます。
アメリカは海上封鎖後、核兵器搭載を命令
アメリカによる海上封鎖が開始され、アメリカは陸海軍・海兵隊を総動員した体制を敷きました。 ソビエト船舶が海上封鎖を突破しようとした場合には全面的な核戦争になる可能性があったため、海外の基地を含めて核兵器の準備も進めました。 核兵器を搭載した戦略爆撃機を常時空に待機させ、たとえ本土が核攻撃されても反撃できる体制を確保しました。
ソビエトは船を封鎖されているところまで接近させる
一触即発の危機の中でソビエトのフルシチョフはアメリカのケネディとキューバのカストロに書簡を送ります。現在のようなホットラインのない当時は書簡をやりとりするしかなかったのです。 ケネディ宛の書簡は海上封鎖を強く非難する内容でした。一方カストロ宛の書簡にはソビエトは引き下がらないとされていました。 やがてキューバに向かうソビエト船舶はアメリカによる封鎖線に接近していきます。
ソビエトはアメリカがキューバに侵攻しないことを条件に撤退を示唆
フルシチョフは自身の方針を見直そうとしていました。ここでアメリカの海上封鎖を突破することによる意味を再評価し、今後アメリカがキューバ侵攻を行わないことを条件にキューバのミサイル基地を撤去する方が得策だと踏んだのです。 本国の命令によってソビエトの貨物船は封鎖線の手前でUターンします。アメリカによる船舶の臨検が行われれば、多くの機密情報が失われるリスクも考慮しての判断でした。
アメリカは条件をのみソビエトも核ミサイルを撤退させた
アメリカの海上封鎖によるアメリカ・ソビエト両国の一色即発の危機は一応去りましたが、キューバのミサイル基地建設は続行されており、アメリカではキューバ空爆を主張する声も強まりつつありました。 アメリカは核弾道を搭載したミサイルを発射準備体制に置くと同時に、核兵器を搭載した戦略爆撃機や原子力潜水艦をソビエト国境近くまで進め、準戦時体制が敷かれました。 危機をいち早く察したフルシチョフはアメリカが今後キューバを犯さないことを条件にキューバのミサイル基地を撤去する方針をモスクワ放送で表明し、これを実行しました。こうして「キューバ危機」は回避されたのでした。
キューバ危機の関係者
「キューバ危機」にはアメリカ側、ソビエト側、キューバ側にそれぞれ何人かの関係者がいます。 この記事では特に大きな役割を演じたアメリカの「ケネディ」、ソビエトの「フルシチョフ」、キューバの「カストロ」の三人について見ていきましょう。
アメリカ・ケネディ
「ケネディ」は第35代アメリカ大統領です。フルネームは「ジョン・F・ケネディ」で、イニシャルをとって「JFK」とも呼ばれています。日本で最も有名なアメリカ大統領の一人です。 1917年生まれですが、大統領在任中の1963年にダラスで暗殺されました。ケネディ暗殺事件は謎に包まれた部分が多く、映画にも描かれました。 「キューバ危機」ではソビエトのフルシチョフと綱渡り的な駆け引きを行い、第三次世界大戦を回避したと評価する声も多く聞かれます。
ソビエト・フルシチョフ
「フルシチョフ」のフルネームは「ニキータ・セルゲーエビッチ・フルシチョフ」です。ソビエトの第4代最高指導者です。スターリン批判を行ったことで有名です。 ソビエトを集団指導体制の方向に舵を切り、スターリンの独裁と恐怖政治を世界に発信するなどして、西側諸国とも共存を模索しました。 キューバのカストロと接近し「キューバ危機」の切っ掛けをつくりましたが、ケネディとの駆け引きによって寸前で危機を回避しました。
キューバ・カストロ
「カストロ」のフルネームは「フィデル・アルハンドロ・カストロ・ルス」です。ここでとりあげた三人の中では最も最近まで生存し、2016年に没しています。 1959年に「チェ・ゲバラ」などとともにそれまでの親米政権を倒し、「キュー革命」を成し遂げます。日本では「カストロ議長」と呼ばれました。 ソビエトのフルシチョフと組んでアメリカへの抑止力としてキューバにミサイル基地を建設しようとしますが、この記事にあるように計画は頓挫します。
キューバ危機を経て
「キューバ危機」はその後のアメリカとソビエトの関係だけでなく、世界全体にも大きな教訓を残しました。 核兵器による第三次世界大戦が「今そこにある危機」として認識されるようになったのです。この記事では、「キューバ危機」によって生まれたアメリカとソビエト首脳のホットラインなどをとりあげます。
両首脳を結ぶホットラインが作られた
「キューバ危機」では、核武装した国家間の危機管理が非常に不安定で危険に満ちていることがアメリカ・ソビエト両国で共有されました。 このため、アメリカ・ソビエト両国は核戦争を回避するための方策を検討し、両国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話である「ホットライン」が設置されました。 この「ホットライン」は今日まで維持されており、その後の幾多の世界的な危機を回避してきました。
大気圏内外水中核実験停止条約の締結
核戦争の恐怖を体験した両国は危機管理の重要性と核不拡散の必要性を共有するに至りました。 この結果1963年にはアメリカ・ソビエト・イギリスによる「大気圏内外水中核実験停止条約」が締結されました。この条約は地下以外の大気圏や水中での核実験を禁止するもので、「部分的核実験禁止条約」と呼ばれています。 この条約は核不拡散に一定の効果はありましたが、地下での核実験は対象から外されていたため、大国の核開発を抑止する効果としては限定的でした。
キューバ危機を題材にした映画
キューバ危機を題材に制作された映画で13デイズというものがあります。 キューバ危機の起きた13日間に焦点を当てて作品が構成されています。 13デイズではキューバ危機を題材にしているだけであり、キューバ危機の事実とは異なる描写が多数ありますが、キューバ危機を題材とした映画の中ではかなり有名なものになっています。
まとめ
今回は世界を核戦争の恐怖に陥れた「キューバ危機」を解説しました。世界の平和と人類の生存を願うならば絶対に忘れてはならない重要な事件です。 このような恐怖を経験しつつも、国家のエゴによって未だに核兵器全廃を実現できない我々人類の愚かさを今更のように実感せざるを得ません。