1分でわかるイラン革命
- イラン革命により独裁政治が終焉
- アメリカやソ連に依存しない革命を実行
- イラン革命後に創設されたイラン革命防衛隊
イラン革命の原因や情勢

イランを支配していたイスラム王朝が、大国から弾圧を受けて弱体化したイランをクーデターで支配したのがパフラヴィー国王です。パフラヴィー国王は国の発展のために農地改革や森林の国有化、労働者の処遇改善など進めて他の国に負けない国作りを目指します。 しかし、強引なやり方に民衆が反発しました。その反発を弾圧したことにより民衆が怒り、パフラヴィー国王の独裁政治を辞めさす狙いから革命を起こします。
パフラヴィー朝による独裁政治が行われていた
イラン革命の起こる前はイランの最後の王朝と言われている パフラヴィー朝による独裁政治が行われていました。パフラヴィー朝はイランをヨーロッパ的な政治の仕組みに進めていたことと、王朝による政治に理解が得られず革命の対象になりました。 そのパフラヴィー朝を作り上げたのがレザー・ハーンです。レザー・ハーンは1919年8月9日に調印されたイギリス・イラン条約の策略に貢献した人物です。
モハンマド・レザー・シャーによる白色革命
パフラヴィー朝最後皇帝であるモハンマド・レザー・シャーはイランをイギリス・フランス・オランダのような近代的な民主政治を目指した政策をしました。 これが「白色革命」です。「白色革命」を英吾で表現すると「White Revolution」になり、「White」とは文字の通り白色で「Revolution」は革命を意味します。 白色の革命とはフランスでは白が国王や皇帝を象徴する色であったことから、ヨーロッパ化を目指した革命を「白色革命」と用いられました。
インフレや経済格差が生じる
白色革命を推し進めたモハンマド・レザー国王は、農地改革、工業化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上などヨーロッパ化を推進していきます。 そこで生まれたのがインフレや経済格差です。近代化の政策が先行していく中で、その政策を行う設備などの準備が遅れて対応できない事態が起こりました。 そのことから、民衆は職につくことが出来ない状態となり、政策の改革の恩恵を受ける人受けられない人が生まれ、貧困の格差が生まれます。
イラン革命の発生とその後

イラン革命はパフラヴィー国王の独裁政治を終わらせたことで始まりを迎え、イランをイスラム教の教えに基づく政治形態に作りあげました。パフラヴィー朝時代はアメリカとも良好な関係でした。 しかし、イラン革命によりアメリカとの関係が悪くなり、「アメリカ大使館人質事件」が起こります。続いてはイラン革命の発生と、その後の経緯について説明します。
ホメイニを主導として革命運動が行われる
「イラン革命」の始点となった「白色革命」の先頭にいたのがホメイニです。その裏付けとなったのがイラン革命後、ホメイニが最高指導者の座に就きました。最高指導者の座に就いたホメイニは、イランの絶対的な権力者となります。 そして、ホメイニとアメリカやイスラエルとの悪化が拡大していきます。特にイスラム教の信者であるアラブ・ムスリムが住む土地を支配しているイスラエルとの関係の悪化は激しくなっていきます。
アメリカにもソ連にも依存しない形で革命は行われた
「イラン革命」の特徴の1つがアメリカもソ連もこの「イラン革命」に関与せずに「中立」の立場をとったことです。「中立」の立場をとった背景には、当時のアメリカとソ連は経済・外交・政治などの国際的な権力を巡っての冷戦下にありました。 資本主義・自由主義を主張するアメリカと共産主義・社会主義を主張するソ連の2つの大国により世界が二分していました。その時代を米ソ冷戦時代あるいは東西冷戦時代と呼びます。
イスラム教に根ざした思想で革命は行われた
「イラン革命」の原点はパフラヴィー国王の独裁政治への不満であることは間違いのないことです。しかし、「イラン革命」の大きな原動力となったのは、イスラム教の教えによる政治支配、つまり宗教的な影響が大きく関わっていました。 国民たちが、イランのもともとの宗教であるイスラム教シーア派の信仰に立ち返ることを求めたのです。そしてイランの伝統的な宗教であるイスラム教に根ざした思想によってイラン革命は行われました。
ホメイニーを中心としたイスラム共和制
イランがパフラビー朝の独裁政治を倒した「イラン革命」後はフランスのパリに亡命中だったホメイニーがイランの最高指導者になります。ホメイニーはイスラム教による統治体制の確立を目指します。民選による大統領による統治体制の進展を願い、実現していきます。 そのため、イラン・イスラム共和国には、イスラム教による統治体制と大統領による統治体制の2つが存在することになります。
イラン革命防衛隊とは

「イラン革命防衛隊」とはイランの軍組織です。イラン革命後の最初の最高指導者であるホメイニー師が1979年5月5日に創設しました。 「イラン革命防衛隊」は陸軍・空軍・海軍・特殊作戦部隊・民兵で構成されている軍組織です。陸軍に10万人ほど、海軍に2万人ほどなど、イラン革命防衛隊には総勢約12万5000人の隊員がいます。 空軍には射程が1000km以下の短距離弾道ミサイルを含んだ「弾道ミサイル部隊」といった特殊な部隊があります。
イラン革命をモデルにした映画「アルゴ」

イラン革命をモデルにした映画としてアカデミー作品賞・脚色賞・編集賞を受賞した映画「アルゴ」があります。 「アルゴ」はイラン革命で起きたテヘランの「アメリカ大使館占拠事件」の外交官の救出をモデルにした映画です。 この映画はベン・アフレック監督が自ら主演しています。部隊はテヘランで、テヘランにあるアメリカ大使館を過激派が占拠し、人質になった52人をCIAで救出するというストーリーです。
まとめ

「イラン革命」は世界に大きな影響を与えた革命でした。民衆が成し遂げた革命であり、冷戦で世界が二分される中で自主を保とうとしたのです。 またイラン革命よりイスラム国に革命が波及することを恐れたソ連がアフガニスタンに侵攻し、結果この侵攻がソ連の弱体化にもつながりました。イラン革命は当時の世界に大きな影響を与えた出来事だと言えます。