1分でわかるイラク戦争
イラク戦争の要点
-
フセイン政権の破壊兵器保有やアル・カイーダとの関係
-
バグダットを制圧しアメリカが戦争に勝利
-
フセインが逮捕され死刑となった
イラク戦争は2003年、主に「イラクが大量破壊兵器を保有している」ことを理由に、アメリカを主体とする有志連合軍が行ったイラクへの軍事介入のことを指します。 この軍事介入は同年3月に首都バグダッドで空爆を開始し、5月には当時のブッシュ米大統領が勝利宣言を出したのち当時のサダム=フセイン政権を崩壊させました。 しかし、原因とされた大量破壊兵器は見つからず、この軍事介入によりイラク国内は治安が悪化して戦闘は長引きました。イラク戦争の目的や必要性はどこにあったのか、評価が難しい戦争です。
イラク戦争の原因と経緯
大量破壊兵器の保持は、1990年に起きた湾岸戦争にまでさかのぼります。このとき、アメリカはイラクに大量破壊兵器の廃棄を義務付けました。 大量破壊兵器の廃棄が不確実な中、2001年9月11日にはアメリカで、あの同時多発テロ事件が起きます。 アメリカは「悪の枢軸」としてイラクを名指しし、「大量破壊兵器を製造し、使う恐れがある」という理由でイラクに先制攻撃をしかけたのです。
アメリカは2001年の同時多発テロ以降大量破壊兵器に対する危機管理を強める
同時多発テロでは4つの旅客機がハイジャックされました。世界貿易センタービルに旅客機が突っ込むシーンは世界に衝撃を与え、国際テロ組織の脅威が認識されるきっかけとなりました。 ブッシュ米政権は、非常事態宣言を発し、テロの首謀者ウサマ・ビンラディンらテロ組織アル・カイーダが潜伏するアフガニスタンへの侵攻を行います。 さらに2002年には国際テロ組織と「ならず者国家」と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを「国家戦略」に位置付け、大量破壊兵器への危機管理を強めていきます。
イラクのフセイン政権が大量破壊兵器の廃棄に応じなかった
イラクが「ならず者国家」とされた理由は、湾岸戦争での停戦条件である大量破壊兵器の廃棄義務を履行してないと考えられたことにあります。 大量破壊兵器とは、核兵器や化学兵器、生物兵器のことを指しますが、イラクは湾岸戦争の際、化学兵器や生物兵器を使用したとされています。 湾岸戦争後、これら武装解除の確認を受けることになりますが、イラクは国連の査察を拒み、逆に大量破壊兵器を保持しているかのような態度をとったりしたのです。
国連の査察に対しても非協力的になった
武装解除の確認は、国際原子力機関や国連大量破壊兵器廃棄特別委員会により行われました。これらの査察により、ウラン濃縮施設やミサイル部品工場の存在が疑われたのです。 当初査察に協力的だったイラク側も、徐々に非協力的になり、国連の査察を妨害し始めます。 業を煮やしたアメリカは1998年、イラクが査察を受け入れない場合単独攻撃を行うと表明し、緊張が高まります。それでもイラクは査察に抵抗したのです。
フセイン政権とアル・カイーダとの繋がり
このように国連の査察に抵抗し、大量破壊兵器を保持しているかもしれないイラクのフセイン政権は同じイスラム系スンナ派のアル・カイーダを協力・支援していると考えられたのです。 しかし、フセイン政権とアル・カイーダの協力関係を示す明らかな証拠は当時存在していませんでした。にもかかわらず、アメリカ国内では、両者が協力関係にあることが信じて疑われず、国民はイラク戦争を支持する側に回ったのです。
イラク戦争開戦には他にも様々な説がある
このように大量破壊兵器の存在やイランとアル・カイーダとのつながりなど、イラク開戦を行う上での証拠は必ずしもはっきりとしたものではありませんでした。 これらの事情は国民を納得させる上での大義名分であり、情報操作を行って扇動したとの指摘もあります。 真偽はさておき、石油資源の確保や中東地域の支配、軍需産業の発展や積み上がった兵器の償却などが真のイラク戦争の目的であったという説もあります。
イラク戦争の開戦
いずれにせよ、当時はイラクが大量破壊兵器を保持しているという疑惑が世界で広まる中、ブッシュ米大統領は米国議会からイラクに対する武力行使を認める共同決議の採択を得ます。 一方、国連安全保障理事会は、イラクが国連の査察団を受け入れれば戦争を回避できる決議を採択し、イラクはこれを受け入れました。しかし、アメリカは国連査察団の確証がないまま、2003年3月に開戦します。
1分でわかるイラク戦争
- フセイン政権の破壊兵器保有やアル・カイーダとの関係
- バグダットを制圧しアメリカが戦争に勝利
- フセインが逮捕され死刑となった
イラク戦争は2003年、主に「イラクが大量破壊兵器を保有している」ことを理由に、アメリカを主体とする有志連合軍が行ったイラクへの軍事介入のことを指します。 この軍事介入は同年3月に首都バグダッドで空爆を開始し、5月には当時のブッシュ米大統領が勝利宣言を出したのち当時のサダム=フセイン政権を崩壊させました。 しかし、原因とされた大量破壊兵器は見つからず、この軍事介入によりイラク国内は治安が悪化して戦闘は長引きました。イラク戦争の目的や必要性はどこにあったのか、評価が難しい戦争です。
イラク戦争の原因と経緯
大量破壊兵器の保持は、1990年に起きた湾岸戦争にまでさかのぼります。このとき、アメリカはイラクに大量破壊兵器の廃棄を義務付けました。 大量破壊兵器の廃棄が不確実な中、2001年9月11日にはアメリカで、あの同時多発テロ事件が起きます。 アメリカは「悪の枢軸」としてイラクを名指しし、「大量破壊兵器を製造し、使う恐れがある」という理由でイラクに先制攻撃をしかけたのです。
アメリカは2001年の同時多発テロ以降大量破壊兵器に対する危機管理を強める
同時多発テロでは4つの旅客機がハイジャックされました。世界貿易センタービルに旅客機が突っ込むシーンは世界に衝撃を与え、国際テロ組織の脅威が認識されるきっかけとなりました。 ブッシュ米政権は、非常事態宣言を発し、テロの首謀者ウサマ・ビンラディンらテロ組織アル・カイーダが潜伏するアフガニスタンへの侵攻を行います。 さらに2002年には国際テロ組織と「ならず者国家」と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを「国家戦略」に位置付け、大量破壊兵器への危機管理を強めていきます。
イラクのフセイン政権が大量破壊兵器の廃棄に応じなかった
イラクが「ならず者国家」とされた理由は、湾岸戦争での停戦条件である大量破壊兵器の廃棄義務を履行してないと考えられたことにあります。 大量破壊兵器とは、核兵器や化学兵器、生物兵器のことを指しますが、イラクは湾岸戦争の際、化学兵器や生物兵器を使用したとされています。 湾岸戦争後、これら武装解除の確認を受けることになりますが、イラクは国連の査察を拒み、逆に大量破壊兵器を保持しているかのような態度をとったりしたのです。
国連の査察に対しても非協力的になった
武装解除の確認は、国際原子力機関や国連大量破壊兵器廃棄特別委員会により行われました。これらの査察により、ウラン濃縮施設やミサイル部品工場の存在が疑われたのです。 当初査察に協力的だったイラク側も、徐々に非協力的になり、国連の査察を妨害し始めます。 業を煮やしたアメリカは1998年、イラクが査察を受け入れない場合単独攻撃を行うと表明し、緊張が高まります。それでもイラクは査察に抵抗したのです。
フセイン政権とアル・カイーダとの繋がり
このように国連の査察に抵抗し、大量破壊兵器を保持しているかもしれないイラクのフセイン政権は同じイスラム系スンナ派のアル・カイーダを協力・支援していると考えられたのです。 しかし、フセイン政権とアル・カイーダの協力関係を示す明らかな証拠は当時存在していませんでした。にもかかわらず、アメリカ国内では、両者が協力関係にあることが信じて疑われず、国民はイラク戦争を支持する側に回ったのです。
イラク戦争開戦には他にも様々な説がある
このように大量破壊兵器の存在やイランとアル・カイーダとのつながりなど、イラク開戦を行う上での証拠は必ずしもはっきりとしたものではありませんでした。 これらの事情は国民を納得させる上での大義名分であり、情報操作を行って扇動したとの指摘もあります。 真偽はさておき、石油資源の確保や中東地域の支配、軍需産業の発展や積み上がった兵器の償却などが真のイラク戦争の目的であったという説もあります。
イラク戦争の開戦
いずれにせよ、当時はイラクが大量破壊兵器を保持しているという疑惑が世界で広まる中、ブッシュ米大統領は米国議会からイラクに対する武力行使を認める共同決議の採択を得ます。 一方、国連安全保障理事会は、イラクが国連の査察団を受け入れれば戦争を回避できる決議を採択し、イラクはこれを受け入れました。しかし、アメリカは国連査察団の確証がないまま、2003年3月に開戦します。
国連加盟国の反対を押し切って開戦した
イラクは実に4年ぶりに査察に協力します。協力は積極的ではないものの、大量破壊兵器保持の新たな証拠は見つかっておらず、査察は継続されるべき旨の報告がなされます。 フランス、中国、ロシア、ドイツの安保理の理事国は、査察が概ね順調に進んでいる以上、現時点では戦争開始の明確な理由は存在しないと評価します。 しかし、アメリカとイギリスは、先制的自衛権を持ちだし、大量破壊兵器の隠ぺい、長年のイラク国内における人権抑圧を理由に、国連加盟加盟国の反対を押し切り開戦します。
バグダットを制圧
3月19日の開戦宣言後、アメリカ、イギリスをはじめとする有志連合は、航空機のピンポイント爆撃(空爆)に加え、巡航ミサイルによる結節点破壊によりイラク軍の指揮系統を早々に崩壊させ主導権を握ります。 イラクは組織的な抵抗力を失い、アメリカ陸上部隊が進攻、南部最大の都市バスラを攻略して、4月には首都バグダットに突入して制圧します。 結局、有志連合はイラク全土を1か月強という速さで占領します。
イラク戦争の結果
イラクの首都バグダットが陥落し、イラク戦争は比較的短期間のうちに終結しました。サダム・フセインは逃亡しますが、のちに捕えられ死刑に処せられます。 しかし、イラク国内はサダム・フセインの残党によって反乱が起き、イスラム過激派や他の武装勢力も押し寄せて国内は混迷を極めることになります。
アメリカが勝利
ブッシュ米大統領が「大規模戦闘終結宣言」を出したのは2003年5月1日ですので、開戦から2カ月もしない間にイラクに対して勝利したことになります。まさに、アメリカの圧倒的軍事力を世界に知らしめる結果となりました。 その後も占領統治下における戦闘状態は続き、最終的に戦闘旅団の駐留はオバマ政権時の2010年8月まで続くことになります。 一方、イラク戦争の要因の一つであった大量破壊兵器が発見されなかったことから、戦争を支持していた同盟国に動揺をもたらす結果となりました。
フセインの逮捕と死刑
サダム・フセインはバグダット陥落後逃亡を続けますが、2003年の12月にアメリカ陸軍第4歩兵師団と特殊部隊による「赤い夜明け作戦」により、イラク中部ダウルにて発見・逮捕されます。逃亡から8カ月ほどで拘束されました。 その後、サダム・フセインは2004年に大量虐殺などの罪で訴追され、2006年11月には「人道に対する罪」により死刑判決を言い渡されます。同年12月30日に絞首刑による死刑が執行されました。
イラク戦争の被害者・死者・戦死者
イラク戦争の犠牲者数は定かではありませんが、WHO(世界保健機関)の推計では15万1千人(2003年3月~2006年6月)がイラク国内で死亡したとされています。 また、アメリカの大学の研究では、イラク戦争で約65万人のイラク人が死亡したと推計されています。これは2010年の撤退までの数字であると考えられます。 一方で、有志連合軍の死者は5千人に満たない数値なので、いかに多くのイラク人(民間人)が犠牲になったかがわかるでしょう。
イラク戦争の日本への影響
日本はイラク戦争時にイラク特措法に基づき、2003年12月から2009年2月までの間、自衛隊を派遣します。 アメリカの同盟国であることもありますが、中東地域の石油に頼る日本としては、イラク国内の安定に貢献すべき社会的使命を負っていたといえます。 派遣目的はイラク国内の非戦闘地域における人道復興、安全確保の支援のためであり、戦闘地域における活動支援ではありませんでした。しかし、戦闘地域か非戦闘地域かの線引きは明確ではなく、イラク派遣の是非は日本国内で大きな議論を呼び起こしました。
新型コロナウイルスによりイラク戦争の二の舞になるか
今や世界中に蔓延した新型コロナウイルスですが、その発生源は中国の武漢とされています。 アメリカは新型コロナウイルスの発生源が武漢であり、中国が新型コロナウイルスの実態を初期に隠蔽したことにより世界中に感染が拡大したとしています。 それをきっかけとし中国側に損害賠償請求を求める動きも検討しているとされています。 しかしこのアメリカ側の動きはかつてイラク戦争が起きた時と状況が非常に酷似しています。 イラク戦争ではイラク側にはっきりとした証拠が見つかっていないにもかかわらず戦争にまで発展した経緯があります。 新型コロナウイルスを巡る米中の対立が戦争に発展しないことを願うばかりです。
イラク戦争を描いた映画
イラク戦争を描いた映画は数多くありますが、なかでも「記者たち~衝撃と畏怖の真実~」は最近の映画ですが、アメリカ政府の巨大な嘘に立ち向かう、記者たちの奮闘を描く実話であり、とてもおすすめの作品です。 ほかにも、マットデイモン主演の「グリーン・ゾーン」やアカデミー賞作品賞を受賞した「ハート・ロッカー」なども一度は見てもらいたい名作です。
まとめ
今回はイラク戦争について解説しましたが、理解できましたか。イラク戦争は日本から遠く離れた地域での戦争だけに関心や記憶が薄れた人も多いかもしれません。 しかし、多くの人が犠牲になった戦争において、日本も間接的に関与した戦争です。憲法で平和主義を掲げる日本にとって、戦争の正当性が問題となったイラク戦争には無関心でいるべきではないといえるでしょう。