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本能寺の変の真相とは。黒幕は光秀か秀吉か家康か?南光坊天海が鍵を握る?

もくじ

本能寺の変の黒幕は明智光秀ではない?

  • 光秀の謀反の黒幕説とは
  • 南海坊天海は光秀など光秀生存説も
  • 謀反の理由は怨恨か野望か

明智光秀が起こした本能寺の変には不明な点が多く今日まで様々な説が飛び交っています。 光秀の後ろに黒幕がにいたのではないかという説や光秀は殺されず生きていたとする説、南海坊天海は光秀とする説などがあります。 明智光秀が謀反を起こした理由もよくわかっておらず怨恨や野望などを挙げる説があります。

天下統一へ迫っていた織田信長

本能寺の変が起きる直前の織田信長は、足利義昭を京から追放して室町幕府を滅ぼし、天下統一を目前にしていました。 羽柴秀吉や柴田勝家などの家臣の軍を関東、北陸、中国地方などへ派遣して反抗勢力を追い込んでいる最中の安全な京で徳川家康を饗応した直後、家臣明智光秀の謀反に遭い、長男の信忠とともに最期を遂げました。

足利義昭を京から追放

織田信長は足利義昭を助けて室町幕府第15代将軍に就任させましたが、その後の義昭の振る舞いに幾度も苦言を呈します。 これに対して将軍就任当初は織田信長を御父と呼ぶなど織田信長に恩を感じていた足利義昭ですが、織田信長からの苦言や振る舞いによって対立するようになります。 武田信玄が京を目指して兵を動かすと足利義昭は呼応して挙兵してしまいます。しかし元亀4年(1573年)7月18日に織田軍に敗れて織田信長によって京から追放されてしまいます。この時が室町幕府の滅亡とされています。

家臣・明智光秀の突然の裏切り

天正10年3月に武田家を滅ぼし天下統一へあと一歩と迫っていた織田信長にとって中国の毛利氏は最後の難となっていました。そこで毛利攻めをしていた羽柴秀吉を援護するため明智光秀に出陣を命じると本能寺に入りました。 光秀の軍勢は天正10年6月1日に丹波亀山城を出陣すると、中国方面には向かわずに2日未明本能寺を襲撃しました。 明智光秀の突然の裏切りに遭い織田信長は自害しましたが、謀反の理由は今もわかっていません。このため、現在まで様々な説が流れています。

黒幕はだれか?多岐に渡る陰謀説

本能寺の変については、明智光秀を背後で操った黒幕が存在したとする陰謀説があります。陰謀説には黒幕をめぐり多岐にわたる説があり、豊臣秀吉や徳川家康あるいは天皇など様々な人物が黒幕に挙げられています。 中でも織田信長がいれば天下を取れなかったと思われる豊臣秀吉が一番得をしたという理由で豊臣秀吉に大きな疑惑を持たれているようです。

当時の常識では考えられない豊臣秀吉の中国大返し

豊臣秀吉の黒幕説には、本能寺の変からわずか2日後に毛利方と和議をまとめて短時日で毛利攻めから戻ったことへの疑惑があるようです。 毛利方の備中高松城(現在の岡山市)攻めを行っていた豊臣秀吉は本能寺の変を知った翌4日には毛利方と和議をまとめるという早業を見せます。 和議を結んだ秀吉は6日に高松を出発し7日に姫路、13日に山崎に到着してわずか7日で200㎞も移動しました。この当時の常識では考えられない行軍は中国大返しと呼ばれます。

戦に巻き込まれなかった徳川家康

本能寺の変が起きた時、徳川家康は堺見物を終えて織田信長と京都で会うための準備をしていたようです。 織田信長の死を知ると家康は光秀の探索を避けて三河に帰国するため伊賀越えを選択し鈴鹿白子から船に乗ったので、戦に巻き込まれませんでした。 徳川家康に同行していた旧武田家の重臣穴山梅雪は、伊賀越えをせず別な道を選んで落ち武者狩りに殺されたとされています。梅雪殺害を謀ったのは徳川家康との説があり、織田信長亡き後の旧武田領への侵略に穴山梅雪は邪魔だったためといわれています。

明智光秀は生きていた?

明智光秀は山崎の戦で死んでいなかったとする説や伝承があります。比叡山に光秀という俗名の僧の記録が残されていることや、光秀の名で灯篭が寄進されていることが根拠となっています。 また、家康・秀忠・家光の徳川3代の将軍に仕えた南光坊天海は明智光秀だったとか、天海が日光の景勝の地を明智平と名前を付けたという伝承もあります。次でみてみます。

南光坊天海は明智光秀か?

南海坊天海はいわば顧問的立場で家康・秀忠・家光の徳川3代将軍に仕えました。前半生に不明な部分が多いことから天海は明智光秀だったとの主張があります。 一つには現在観光名所となっている日光の明智平の名前をつけたのが天海だったという言い伝えがよりどころとなっているようです。 また徳川秀忠と家光の名前に光秀の文字が入っていること、徳川家光の乳母となった春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘だったことなども光秀が天海であるという説の根拠になっているようです。

日光にある観光名所『明智平』

日光にある明智平は中禅寺湖と華厳の滝を見下ろせる観光名所ですが、明智平の名前は南海坊天海によってつけられたと伝えられています。 天海は78歳で日光山の住職となり、風光明媚な明智平を見て昔の名前を残しておきたいと明智平と命名したといわれています。これが天海は明智光秀だったとの説の根拠の一つになっています。 日光東照宮は家康の遺言で天海が造営し、その後家光と大改修を行い現在の社殿になりました。

今なお様々な説が議論される本能寺の変

明智光秀が本能寺の変を起こした理由では今も様々な説が議論があります。怨恨説では、甲州征伐の後光秀が「苦労した甲斐があった」述べてことに怒った信長が「お前は何をしたのか」と頭を欄干に打ち据えたことを挙げています。 別の説では光秀が信長から毛利を攻めて敵の所領である出雲と石見を取れば与える代わりに丹波と近江の所領を取り上げると言われて恨んだことを挙げています。 野望説は光秀が出陣を前に詠んだ「ときは今天が下知る五月哉」歌は天下取りへ野望を表しているというものです。議論百出の本能寺の変ですが、憶測が歴史を面白くしてくれるようです。

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