1分でわかるフェートン号事件
フェートン号事件とは
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日本が鎖国していた1808年にイギリス軍艦が長崎港に侵入
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イギリス人は敵国であるオランダ人を人質に水・薪・食糧を要求
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日本の警備体制の甘さが露呈したことで、イギリス船が多く来航するようになる
フェートン号事件の経緯と概要
(画像:Unsplash)
フェートン号事件は1808年10月4日に長崎港内で起こりました。イギリス軍艦であるフェートン号がオランダ船を装って侵入し、オランダ人2名を人質にとります。長崎奉行は人質解放を求め、フェートン号の船員との交渉を余儀なくされました。 ここではフェートン号事件の流れについて詳述します。
フェートン号がオランダ船を装い長崎港に侵入
1808年10月4日にイギリス軍艦であるフェートン号のフリートウッドペリュー艦長はオランダ船を拿捕するために長崎港に侵入することを決めます。これはイギリスのベンガル総督であるミントー氏の政策でした。 その目的を達成するためフェートン号にオランダ国旗を掲げオランダ船を装って入港しました。 出島にいた長崎奉行の役人もオランダ船だと疑うことはありませんでした。
出迎えにきたオランダ商館員2名を拉致し要求を提示
出島にいた長崎奉行の役人とオランダ商館員2名は入港してきたフェートン号を小舟で出迎えます。しかし小舟がフェートン号に着いたタイミングで、国旗はイギリス旗に差し替えられました。 そしてフェートン号の船員はオランダ商館員2名を人質にとりました。同行していた役人は人質を返してくれるようフェートン号に頼みました。 しかしフェートン号はその要求に応じることなく、長崎奉行に対して水・薪・食料を要求しました。
1分でわかるフェートン号事件
- 日本が鎖国していた1808年にイギリス軍艦が長崎港に侵入
- イギリス人は敵国であるオランダ人を人質に水・薪・食糧を要求
- 日本の警備体制の甘さが露呈したことで、イギリス船が多く来航するようになる
フェートン号事件の経緯と概要

フェートン号事件は1808年10月4日に長崎港内で起こりました。イギリス軍艦であるフェートン号がオランダ船を装って侵入し、オランダ人2名を人質にとります。長崎奉行は人質解放を求め、フェートン号の船員との交渉を余儀なくされました。 ここではフェートン号事件の流れについて詳述します。
フェートン号がオランダ船を装い長崎港に侵入
1808年10月4日にイギリス軍艦であるフェートン号のフリートウッドペリュー艦長はオランダ船を拿捕するために長崎港に侵入することを決めます。これはイギリスのベンガル総督であるミントー氏の政策でした。 その目的を達成するためフェートン号にオランダ国旗を掲げオランダ船を装って入港しました。 出島にいた長崎奉行の役人もオランダ船だと疑うことはありませんでした。
出迎えにきたオランダ商館員2名を拉致し要求を提示
出島にいた長崎奉行の役人とオランダ商館員2名は入港してきたフェートン号を小舟で出迎えます。しかし小舟がフェートン号に着いたタイミングで、国旗はイギリス旗に差し替えられました。 そしてフェートン号の船員はオランダ商館員2名を人質にとりました。同行していた役人は人質を返してくれるようフェートン号に頼みました。 しかしフェートン号はその要求に応じることなく、長崎奉行に対して水・薪・食料を要求しました。
人質を救出しようとするが警備の弱さが露呈
オランダ商館員2人を人質にとったフェートン号には大砲や銃が装備されていました。 それを知った長崎奉行の松平図書頭康英はフェートン号を焼き討ちあるいは抑留するよう湾内警備を担当していた佐賀藩と福岡藩に命じます。さらに大村藩にも派兵を求めました。 しかし各藩が即座に対応することはありませんでした。佐賀藩は警備にあたるはずの兵員数を大幅に減らしており、長崎における警備の弱さが露呈しました。
要求を受け入れ人質を解放してもらいフェートン号は去る
1808年10月5日の朝フェートン号はオランダ商館員1人を解放します。その際に長崎奉行に水・薪・食糧を要求し、応じなければ長崎港内の和船並びに唐船を焼き払うと脅しました。 その要求を聞いた長崎奉行の松平図書頭康英は激高したものの、フェートン号に対抗する武備がなかったことから要求を承諾します。 フェートン号に対し長崎奉行は水と薪を、オランダ商館は豚と牛を送りました。その結果としてもう1人の人質が解放されフェートン号は長崎港を後にします。
フェートン号事件の背景

フェートン号事件が起こった当時日本が交易を行っていたのはオランダ・清国・朝鮮と限られた国だけです。しかし日本との交易や日本を航海の中継地としたい国は他にもありました。 イギリスもそうした国の一つでしたが、フェートン号事件の背景にあった事情は異なります。ここではフェートン号事件の背景に何があったのかについて詳述します。
イギリスとフランスの対立
フェートン号事件が起こった背景にはイギリスとフランスの対立があります。1799年にオランダはフランスとの戦争に負け、フランスの属国となりました。 当時のオランダ国王であるウィレム5世は逃亡先のイギリスに援助を求めます。これを受けてイギリスはオランダが海外に置いていた植民地の接収を始めます。 そうしたイギリスの動きに対してフランスも対抗し、日に日に両国の対立は深まっていました。
鎖国中の日本ではなく、オランダ船の捕獲が目的
当時のイギリスは産業革命によって経済大国として成長しつつありました。そしてフランスはナポレオン戦争によって属国となったオランダの商業拠点を手に入れており、それをイギリスが欲しがるのは無理からぬことでした。 イギリスはそのためにオランダ船を捕獲することを思いつき、海外にある商業拠点に軍艦を派遣し始めました。 フェートン号事件は長崎の出島にオランダ商館があったからで、日本の鎖国をとくことではありませんでした。
フェートン号事件の影響・その後

フェートン号事件において人や物に対する被害は出ませんでした。しかし侵入したイギリス軍艦の要求に屈した事実は、その後に様々な影響を与えることとなります。 ここではフェートン号事件の影響やその後について詳述します。
イギリス船が次々と来航
フェートン号はオランダ人を人質をとっただけで、無償で水・薪・食糧を得ました。フェートン号の帰国によってその事実が知れ渡ると、日本にイギリス船が次々と来航するようになります。 イギリス海軍の将校だったゴルドン氏は1818年に浦賀に来航し、江戸幕府に対し通商を迫ります。 また1924年5月には水戸の大津浜にイギリス人12人がに、同年8月には薩摩の国宝島にイギリスの捕鯨船の乗組員が許可なく上陸するという事件が相次いで起こりました。これにより江戸幕府は、外国船に対する警戒心を強めることとなります。
警備の薄さに対する処罰と自害
フェートン号事件では警備担当だった佐賀藩と福岡藩はもとより、統括していた長崎奉行の警備の薄さが露呈されました。 そのため長崎奉行の松平図書頭康英はフェートン号が去った日の夜に自国を辱めた責任をとって切腹しています。また佐賀藩の家老数人も警備兵の数を勝手に減らした責任をとる形で切腹しました。 さらに江戸幕府は佐賀藩の藩主である鍋島斉直に対し100日間の閉門を命じています。
英語教育がされる
フェートン号事件により江戸幕府にとってイギリスは侵略性のある危険な国と認識されました。そのためイギリスについて組織的に研究するようになります。 江戸幕府は1809年長崎通詞だった本木正栄氏をはじめとする6名に英学研修を命じました。この6人はオランダ商館員から英語を学び、1811年に日本初となる英和辞書を完成させます。 フェートン号事件により日本で英語教育が行われるようになったといえます。
まとめ

フェートン号事件をきっかけに来航したイギリス船が、日本を軽んじる振る舞いをくり返しました。江戸幕府はそうした事態に業を煮やしたからこそ、1825年に異国船打払令を発令しています。 フェートン号事件は、江戸幕府後期の治世に多大な影響を残した事件でした。日本の外交史の中でも、覚えておくべき事件の一つといえます。