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ドレフュス事件をわかりやすく解説。真犯人やその後、ゾラの質問状にまで迫る。

もくじ

陸軍の大尉のドレフュスがドイツのスパイとされた事件

  • ドイツのスパイとされたドレフュス
  • 真犯人は別に発見される
  • エミール・ゾラの質問状

ドレフュス事件の概要

1871年のフランスは、普仏戦争に敗れた後経済的な苦境に陥り、国民の第三共和政への不満から社会的に不安定な状態が続いていました。 1894年、そんなフランスを驚愕させる事件が起きます。フランスの陸軍情報部が、パリのドイツ駐留所から軍内に対独通謀者がいることを示すメモを発見しました。 軍部は筆跡が似てるとして、ユダヤ人大尉のアルフレド・ドレフュスを逮捕しました。軍法会議は何の物証もないままドレフュスに有罪を下すことになりました。 ドイツのスパイ容疑で逮捕されたドレフュスは、一貫して自分の無実を訴えます。しかし軍法会議はそれを認めず、無期流刑を言い渡しました。 この判決をめぐって世論は二分され、ユダヤ人差別に反対する共和派と、軍部・教会派が激しく議論を戦わせることになります。 こうした両派の闘争の末に、ドレフュスは2回目の再審で無罪を勝ち取りました。しかし、事件は19世紀フランスが抱える反ユダヤ人の根深さを示す社会問題となり、その後のシオニズム運動へと繋がっていきます。

第三共和政が揺らいでいる時期

ドレフュス事件以前のフランスは、1880年代までに国内の大資本と結び共和制の政治を確立させました。しかし、普仏戦争の敗北後から対独強硬論を唱える右派と軍部と、一方の労働組合主義(サンディカリズム)の台頭によって、右左双方からの攻撃により共和制は徐々に揺らいでいくことになります。 更に、小党の乱立や議員の汚職などの腐敗もあり、徐々にその権威を失っていきます。こうした混乱を背景に、軍部独裁政権の樹立を目指したブーランジュ事件が1889年に起き、1892年にはパナマ事件と続き、益々第三共和政に対する国民の不信が強まっていきます。

世間では反ユダヤ主義が高まっていた

ヨーロッパ諸国で迫害を受けてきたユダヤ人ですが、フランスもその例外ではありませんでした。カトリック教国のフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な理由で憎悪の対象となっていました。 しかし、18世紀後半に起きたフランス革命によって「自由・平等・博愛」の理念が広がると、ユダヤ人への差別も否定される空気が広がり始めました。 ところが、下層部民や農民の間には成功したユダヤ人に反感を抱く者も多くなり、こうした民衆の反ユダヤ人感情が過激化したことで、ドレフュス事件は反ユダヤ人思想による社会問題へとなっていきます。

ユダヤ人の複雑な思い

キリスト教徒から迫害を受けてきたユダヤ人ですが、フランス革命後にはユダヤ人にもフランス国民と同じ権利・義務を与えようという動きが出てきました。 しかし、ユダヤ人の中には西洋社会に同化しようと言うグループと、ユダヤの伝統的な信仰や習慣を大事にしたいというグループとに分かれ、ふたつのグループは実質的に分裂してしまいます。

ドレフュスは終身刑となる

ドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕されたことを、反ユダヤ系の「自由言論」紙がスクープし、「軍部は祖国を裏切った売国奴のユダヤ人をかばっている」と軍指導部の糾弾を始めます。 世論の批判を恐れた軍指導部は、何の証拠もないドレフュスを非公開の軍法会議で有罪にしてしまいます。もちろんドレフュスは無罪を主張しますが、有罪が覆ることはなく軍籍を剥奪され仏領のギアナ沖のディアブル島に終身禁固とされてしまいます。

1896年に真犯人が見つかる

ところが、有罪判決後の1896年に真犯人が見つかったのです。情報部長に着任したピカール中佐により、真犯人はフェルナンド・ヴァルザン・エステルアジ少佐であることが発覚したのです。ピカール中佐は直ぐにこの事実を参謀本部に報告しました。 しかし、軍上層部は「終わったことだ、忘れるように」とピカールを諭し、更に真相の発覚を恐れてピカール中佐をチュニジアに左遷してしまいました。 その後、フェルナンド・ヴァルザン・エステルアジ少佐は、英国に逃亡してしまいました。

エミール・ゾラの質問状

カトリック教国であるフランスでは反ユダヤ人の思想が根強く、特に下層部民や農民は共和制を支えるユダヤ資本に反感を持っていたため、ユダヤ人のドリュストの有罪判決を支持しました。 一方、エステルアジの無罪判決に憤ったエミール・ゾラは、1898年1月13日付オーロール紙に「私は弾劾す」と題したフォール大統領宛ての公開質問状を掲載しました。 これ以降、ドレフュス事件は彼個人の事件から、自由と民主主義制度擁護の政治闘争と化していきます。

ドレフュス事件はシオニズム運動へと繋がっていく

新聞記者としてフランスのドレフュス事件を取材していたテオドール・ヘルツンは、ユダヤ人はドイツ社会・文化と積極的に交流すべきであるという立場を取っていました。 ドイツで教養を学んだ彼らしい発想でしたが、ドレフュス事件の取材で「西欧でユダヤ人は、あらゆる権利を獲得することが難しい」と悟り衝撃を受けました。 その後、ユダヤ人の祖国である「イスラエル」を取り戻すシオニズム運動を主導するようになります。

まとめ

ドレフュス事件の背景は、ヨーロッパに根強く残るユダヤ人への反感が原因でした。特に普仏戦争によって政治や経済が揺らいだフランスで起きたこの事件は、フランス国民の生活への不安や不満がユダヤ人に向かっていったものと言えます。 しかし、この事件をきっかけにフランス国内の政教分離の原則が確立したことは、フランス政治の近代化にとって意義ある出来事であったとも言えるでしょう。

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