ブラックマンデーは香港を発端とした株価大暴落した世界恐慌
ブラックマンデーとは
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香港で株価大暴落が始まった
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ブラックマンデーの原因は諸説あり
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コンピューターの自動売買が株価の下げを加速した
「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」とは1987年10月19日に起こった世界同時株安の事です。この日は香港市場から株価の暴落が始まり、欧州を経由して米国へと波及していきます。 ニューヨーク・ダウ平均株価は、開始早々から売り注文が殺到し、508ドル(22.6%)も下落し過去最大の暴落となりました。
ブラックマンデーの起きた時代背景
(画像:Unsplash)
1980年代の米国は財政赤字と貿易赤字に悩まされていました。大型減税で税収が不足して国債を増発しますが、内需の過熱で足りないモノを輸入に頼っていたからです。 また、景気停滞にもかかわらず物価が上昇するスタグフレーションも、米国市民の生活を直撃しました。当時の米国を見ていきましょう。
双子の赤字
財政収支の赤字と貿易収支(経常収支)の赤字をまとめて「双子の赤字」と呼びます。 財政収支の赤字とは、国の歳入よりも歳出が多くなり、その赤字を埋めるために国債を増発する状態です。主な歳入は税収で、歳出は軍事費の増額や社会保障費を手厚くすることで増えていきます。 貿易収支の赤字とは、輸入が輸出よりも多い状態をいいます。例えば、海外から自動車を大量に輸入しても、輸出する農産物の金額が少なければ、トータルでは赤字となります。
スタグフレーション
「スタグフレーション(stagflation)」とは、景気停滞(stagnation)と物価上昇(inflation)が、同時に発生する状態を示す合成用語です。正常な経済活動においては、経済が安定して好景気が続けばインフレが発生します。 ところが、景気が悪化していく中でインフレが発生すると経済の舵取りが難しくなります。 景気停滞で人々の所得が減るのに、インフレで食料品やガソリン代が値上がりするからです。
ブラックマンデーの原因となる出来事
(画像:Unsplash)
ブラックマンデーの原因には、いろいろな説があります。米国の双子の赤字が原因とする説やプラダ合意やルーブル合意を使った米国主導の協調政策の失敗を指摘する説などです。 その中でも、コンピューターを使ったプログラム売買が、株の売り注文を雪だるま式に増価させたことは、市場関係者の共通の認識でした。
不況から抜け出すべくレーガノミックスを実行
1981年、ロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任します。当時の米国は1979年の第2次オイルショックでスタグフレーションが発生していました。そのために取った政策をレーガノミックスと呼びます。 レーガノミックスとは、軍事費の拡大、大規模な減税、投資を促すための規制緩和、インフレ抑制などの経済対策のことです。その結果、財政出動と税収不足から国の借金が膨らみ、金利高がドル高を誘発して貿易赤字も拡大します。
貿易赤字解消のためプラザ合意を締結
財政出動で国債を増発し、借金が増えると金利(支払う利息)が上がります。お金は利息の高いところに集まるので、結果ドル高になります。円高不況と同じで、ドル高で米国製品の価格競争力が弱まり、輸出が減って貿易赤字が発生します。 1985年9月、米国の輸出を増やすため、つまりドル高を止めるために、ニューヨークのプラザホテルで先進5ヵ国(米・日・英・西独・仏)の蔵相・中央銀行総裁が集まって会議をします。それが「プラザ合意」でした。
ドルの下落を止めるためルーブル合意を締結
プラザ合意のおかげで計画通りにドル安は進みます。しかし、急激なドル安が消費大国アメリカの輸入製品の価格を押し上げ、今度はインフレが発生しました。 1987年2月、パリにある旧ルーブル宮殿に先進7か国の蔵相・中央銀行総裁が集まり「ルーブル合意」が締結されます。今度は行き過ぎたドル安を止めるためでした。 しかし、金利調整の足並みが揃わず、ルーブル合意の8ヶ月後にブラックマンデーが発生します。
ブラックマンデーは香港を発端とした株価大暴落した世界恐慌
- 香港で株価大暴落が始まった
- ブラックマンデーの原因は諸説あり
- コンピューターの自動売買が株価の下げを加速した
「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」とは1987年10月19日に起こった世界同時株安の事です。この日は香港市場から株価の暴落が始まり、欧州を経由して米国へと波及していきます。 ニューヨーク・ダウ平均株価は、開始早々から売り注文が殺到し、508ドル(22.6%)も下落し過去最大の暴落となりました。
ブラックマンデーの起きた時代背景

1980年代の米国は財政赤字と貿易赤字に悩まされていました。大型減税で税収が不足して国債を増発しますが、内需の過熱で足りないモノを輸入に頼っていたからです。 また、景気停滞にもかかわらず物価が上昇するスタグフレーションも、米国市民の生活を直撃しました。当時の米国を見ていきましょう。
双子の赤字
財政収支の赤字と貿易収支(経常収支)の赤字をまとめて「双子の赤字」と呼びます。 財政収支の赤字とは、国の歳入よりも歳出が多くなり、その赤字を埋めるために国債を増発する状態です。主な歳入は税収で、歳出は軍事費の増額や社会保障費を手厚くすることで増えていきます。 貿易収支の赤字とは、輸入が輸出よりも多い状態をいいます。例えば、海外から自動車を大量に輸入しても、輸出する農産物の金額が少なければ、トータルでは赤字となります。
スタグフレーション
「スタグフレーション(stagflation)」とは、景気停滞(stagnation)と物価上昇(inflation)が、同時に発生する状態を示す合成用語です。正常な経済活動においては、経済が安定して好景気が続けばインフレが発生します。 ところが、景気が悪化していく中でインフレが発生すると経済の舵取りが難しくなります。 景気停滞で人々の所得が減るのに、インフレで食料品やガソリン代が値上がりするからです。
ブラックマンデーの原因となる出来事

ブラックマンデーの原因には、いろいろな説があります。米国の双子の赤字が原因とする説やプラダ合意やルーブル合意を使った米国主導の協調政策の失敗を指摘する説などです。 その中でも、コンピューターを使ったプログラム売買が、株の売り注文を雪だるま式に増価させたことは、市場関係者の共通の認識でした。
不況から抜け出すべくレーガノミックスを実行
1981年、ロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任します。当時の米国は1979年の第2次オイルショックでスタグフレーションが発生していました。そのために取った政策をレーガノミックスと呼びます。 レーガノミックスとは、軍事費の拡大、大規模な減税、投資を促すための規制緩和、インフレ抑制などの経済対策のことです。その結果、財政出動と税収不足から国の借金が膨らみ、金利高がドル高を誘発して貿易赤字も拡大します。
貿易赤字解消のためプラザ合意を締結
財政出動で国債を増発し、借金が増えると金利(支払う利息)が上がります。お金は利息の高いところに集まるので、結果ドル高になります。円高不況と同じで、ドル高で米国製品の価格競争力が弱まり、輸出が減って貿易赤字が発生します。 1985年9月、米国の輸出を増やすため、つまりドル高を止めるために、ニューヨークのプラザホテルで先進5ヵ国(米・日・英・西独・仏)の蔵相・中央銀行総裁が集まって会議をします。それが「プラザ合意」でした。
ドルの下落を止めるためルーブル合意を締結
プラザ合意のおかげで計画通りにドル安は進みます。しかし、急激なドル安が消費大国アメリカの輸入製品の価格を押し上げ、今度はインフレが発生しました。 1987年2月、パリにある旧ルーブル宮殿に先進7か国の蔵相・中央銀行総裁が集まり「ルーブル合意」が締結されます。今度は行き過ぎたドル安を止めるためでした。 しかし、金利調整の足並みが揃わず、ルーブル合意の8ヶ月後にブラックマンデーが発生します。
ブラックマンデーの世界と日本への影響

1980年代中盤の世界経済は楽観的な見方が主流でした。特に株式市場には大量の資金が流れ込んでいます。その最中にブラックマンデーが発生しました。 日本においては、ブラックマンデーの影響もアジア諸外国ほど深刻ではありませんでした。バブルの直前であったからです。
世界的に株価が暴落
1982年8月に776ポイントだったダウ平均株価は、1987年8月には2,722ポイントまで駆け上がります。しかし、1987年10月19日ブラックマンデー当日のダウ平均株価は、一日で508ドルも下がり、下落率は22.6%にも達しました。 暴落は他の国にも波及して10月末時点では、香港やオーストラリアは40%を超える下落率を記録し、スペイン、イギリス、カナダなども20%超の下落率でした。ニュージーランドに至っては60%超も下落します。
日経平均株価も下落するも短期間で復活
ブラックマンデー当日の日経平均株価は、過去最大の3836円48銭(-14.90%)値下がりしましたが、翌日には2037円32銭も上昇しています。 当時の日本では、「場立ち」と呼ばれる証券マンが、証券取引所の中で人力で注文を成立させていました。欧米のスマートなコンピューター取引とは対象的です。 コンピューターによるシステマチックな取引が浸透していなかったことが、逆に株式市場への影響を軽減したようです。
ブラックマンデーの再来の可能性

AI(人工知能)が自動売買を行う現代です。何時、ブラックマンデーが再来しても不思議ではありません。 高い利回りを求めて大量の資金が国境を行き来します。そんな時に軍事衝突や貿易摩擦がきっかけで、ある国が自国からの資本の引き出しや為替取引を拒否すればパニックが起こります。 国際社会を眺めただけでも、EUからの英国離脱問題、中国と米国の貿易問題、核を保有するイランと諸外国の関係、独立や自治国家を求める民族紛争など問題は山積みです。いつ株式に影響が出てもおかしくありません。
ブラックマンデーはウォール街大暴落(暗黒の木曜日)を超える大暴落であった

世界恐慌を引き起こした「ウオール街大暴落(暗黒の木曜日)」は1929年10月24日に発生し、当時の下落率は12.8%でした。一方のブラックマンデーは、22.6%も下落します。 10月14日から10月19日(ブラックマンデー当日)までにダウ平均株価は760ポイント、実に31%も下げました。偶然にも過去の大暴落はともに10月です。 しかし、ダウ平均株価の不振はわずか2年と続かず、1989年8月には元の水準まで戻ります。つまり、ブラックマンデーは暗黒の木曜日よりも大きな暴落だったということです。
ブラックマンデーの類似の世界恐慌

石油は米ドル建てなので、輸入するには米ドルの準備が必要です。一方、自動車を米国に輸出すれば、代金は米ドルで受け取ります。従業員には円で給与を支払うために、米ドルを日本円に替える必要があります。つまり、貿易と為替は表裏一体の関係です。
アジア通貨危機
「アジア通貨危機」とは、1997年にタイの通貨バーツが変動相場制に移行したことで、東アジア諸国に広がった通貨暴落と金融・経済危機のことです。 アジア各国は自国通貨とドルを固定する「ドルペッグ制」を採用していましたが、アジア通貨が実力以上と見たヘッジファンドが空売りを仕掛けます。 売ってくる相手には、買いで対抗しなければいけませんが、アジア諸国は自国通貨を買うために必要な売却すべき外貨(ドル)を保有していませんでした。タイ、韓国、インドネシアは特に大きな打撃を受けます。
ニクソンショック
1971年8月、リチャード・ニクソン米大統領が新経済対策を発表します。その中に含まれていた「金・ドル兌換停止」のことを主に「ニクソンショック」と呼びます。 それまでの金価格は1オンス=35ドルに固定されていましたが、この固定比率を放棄するという意味です。金の裏付けがあって米ドル通貨は世界の基軸通貨であり続けました。 ドル紙幣を金と交換できないほど、米国の金の保有量が減っていたことで世界に衝撃が走ります。
まとめ

株価暴落は、人々の楽観がピークに達すると、何処からともなくやって来ます。そして、その度に多くの国が高い授業料を払わされてきました。 「市場メカニズムは社会を豊かにする」との考え方が、経済学の根底にあります。たとえ、バブルや暴落を繰り返しても、国際社会は協力し合って乗り越えていく宿命を負っています。