1分でわかるバターン死の行進
- 捕虜収容所まで100㎞を超える距離を炎天下の中行進
- 約1万人~1万2千人の捕虜が死亡
- 本や書籍、映画でメディア化
バターン死の行進はマリベレスから捕虜収容所があるサンフェルドナルドまで100㎞を超える距離を歩かされた事件です。 捕虜収容所にたどり着くまでにマラリアやデング熱・赤痢などの病気や栄養失調などで約1万人~1万2千人が亡くなりました。バターン死の行進は様々形で本や書籍・映画に残されています。
バターン死の行進の概要

バターン死の行進は第二次世界大戦に日本軍がフィリピンを攻略した際に捕虜を捕虜収容所まで長距離を歩かせて大勢の死者をだした事件です。真相や真実は必ずしも明らかになっているとは言えない事件ですが、可能な範囲でその真相に迫ってみましょう。
フィリピン進攻作戦において米比軍の捕虜が多数死亡した行進
4月のフィリピンは一年で最も暑い乾季です。日中の気温は連日40度を超えます。捕虜達はそのような時期に満足な食糧もなく炎天下を何日も歩き続けなければいけませんでした。 しかも当時は戦争中であり衛生面も最悪の状態でした。またマリベレスではマラリアやデング熱、赤痢などの流行性の病気が充満していました。 フィリピン進攻作戦において米比軍の捕虜が大勢死者がでたので「バターン死の行進」と名付けられました。
捕虜たちは捕虜収容所に鉄道とトラックではなく徒歩で移動
捕虜たちは捕虜収容所に鉄道とトラックではなく徒歩で移動しました。当初移動計画は長距離を歩く予定ではありませんでした。 しかし計画通りにはなりませんでした。原因の一つはトラックや鉄道の確保ができませんでした。二つ目は予想外に多い捕虜の人数でした。 そこで捕虜たちは長い距離を歩き続けることになってしまいました。何日も歩き続けて栄養失調や病気にかかる捕虜たちも多くなり、大勢の死者が出てしまいました。
移動距離は100kmを超える
バターン死の行進で歩かされたのはマリベレスからサンフェルナンドまでです。この距離は60㎞から120㎞と書物によって距離は異なっています。 現在の道路では約95㎞ですが当時は舗装された道ではありませんでした。ジャングルや川があり困難な道だったと思われます。 捕虜の証言記録では3日で歩いた人から2週間以上歩いた人がいました。栄養失調やマラリア・デング熱・赤痢などの病気の人にとっては、まさに死の行進だったと考えられます。
死者は約1万〜1万2千人
バターン死の行進における捕虜の人数は約7万6千人です。その中で捕虜収容所までたどり着いた捕虜は約5万4千人だったといわれています。 死者は約1万人から1万2千人と見られています。主な死亡の原因は飢えや疲労、マラリア・デング熱・赤痢などの病気、日本軍の処刑などがあげられます。 亡くなった捕虜はアメリカ兵士が約2千人から3千人、フィリピン兵士が約7千人から8千人といわれています。
辻政信の偽命令によって一部の捕虜が処刑される
フィリピン戦線ではジャングルが多く環境が悪い上に情報不足だったため辻政信が戦闘指導で派遣されました。辻政信はこのフィリピン戦線は人種間戦争と判断をしました。 辻政信は独断で大本営からの通達と偽の捕虜処刑命令を出しました。これにより実際に捕虜たちが刺殺や銃殺により処刑されてしまいました。 辻政信の命令を不振に思った部隊では捕虜を逃がしたところもあったようです。
バターン死の行進に対する日本軍の反論

バターン死の行進はアメリカ・日本・フィリピンでは実際の主張にかなりの差があります。バターン死の行進に対する日本側の主張はどのようなものだったのでしょうか。 マリベレスには食料が不十分でした。日本軍は食料の調達を試みましたが、トラックや鉄道での調達が難しい状態でした。追い打ちをかけるようにマラリアが大流行していました。このために日本軍は直ちにマリベレスを離れる決定をしました。 少しでも早く食料のあるサンフェルナンドに向かおうとしました。しかしトラックや鉄道がうまく手配できず、多くの人が歩くことになってしましました。 途中の村でトウモロコシやサトウキビ・イモ・水などを提供してもらい、野草・木の実・野生動物を捕獲し捕虜たちに与えていたと記録されています。
バターン死の行進のその後

フィリピンの主力部隊を率いる司令官の本間雅晴や偽命令によって一部の捕を処刑させた辻政信などの人物はバターン死の行進の後どうなったのでしょうか。またフィリピンや日本の対応はどうだったのでしょうか。
移動責任者は死刑だが辻政信は逮捕・起訴されず
バターン死の行進はマニラ軍事裁判や極東国際軍事裁判で裁かれました。司令官の本間雅晴と捕虜移送責任者の河根良賢は有罪となり銃殺刑になりました。 一方辻政信は戦後バンコクで僧侶に変装して潜伏し、インドネシア、中国を経て日本に帰国します。 日本では元高級将校達に匿ってもらいました。連合国軍最高司令官総司令部でスパイとして利用され戦争犯罪追及を免れ、逮捕・起訴はされませんでした。
フィリピンでは4月9日が「勇者の日」として休日に
日本軍は4月9日にバターン半島を陥落しましたが、その戦いのすさまじさからフィリピンではその日を「勇者の日」として国民の休日にしています。 その日は戦いで亡くなったフィリピン人戦士とアメリカ人戦士をともに称える日です。 またフィリピン人・アメリカ人・日本人の多くの犠牲者を慰霊するために「勇者の廟」をサミット山に建設しました。サミット山では戦争で亡くなった方々の慰霊のため日比両国政府で記念式典を行っています。
日本の謝罪
バターン死の行進後元米国捕虜達は幾度となく日本に対して謝罪を求めていました。しかし日本の謝罪は遅く2010年9月13日になりました。 当時の岡田外相はようやく元米国捕虜と面会をはたし、正式に謝罪をしました。 日本の外相が謝罪をしたのは戦後65年経って初めてのことで、日本でもアメリカでも大きなニュースになりました。
バターン死の行進のメディア化

バターン死の行進は日本ではあまり知られていませんが、映画や本・書籍などでメディア化されています。どのような形でメディア化されたのか具体的に見てみましょう。
本・書籍
代表作は河出書房新社から出版されている「バターン 死の行進」です。作者はマイケル・ーマン、エリザベスMノーマンです。 この本はアメリカ人ジャーナリストと歴史学者夫妻が10年以上の年月をかけて書いたノンフィクション作品です。 この作品は日本人・アメリカ人・フィリピン人400人以上に取材をした公平な内容となっています。
文藝春秋・笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破」』
笹幸恵さんは世界で初めてバターン死の行進を自分で経験した日本人ジャーナリストです。 文藝春秋から笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破」』の実録を出版しています。 笹幸恵さんはバターン死の行進の道のりを4日かけて歩きました。バターン死の行進の道中はできるかぎり当時に近い状態で歩くために、あえて体調不良の時に行動しています。
映画
バターン死の行進の代表的な映画には「バターンを奪回せよ」と「ディフェンディング・ザ・エネミー」があります。 「バターンを奪回せよ」はイーニアスマッケンジーと、ウィリアムゴードンのノンフィクション小説をもとにエドワードドミトリクが監督した映画です。 ジェームズモル監督の映画の「ディフェンディング・ザ・エネミー」には死刑になった本間雅晴と関わった弁護士の姿が描かれています。
まとめ

真珠湾攻撃や広島・長崎への原爆投下などと異なり、戦争の記憶としてのバターン死の行進は日本人になじみが薄いといわざるを得ません。 立場の違いによって様々な主張があるのは事実ですが、先にの戦争で起こった悲惨な出来事の一つとして是非記憶に止めたい事件です。