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ゾルゲ事件の真相は?ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実にも迫る。

もくじ

1分でわかるゾルゲ事件

ゾルゲ事件の要点

  • 1941年に起こった国際的な情報諜報団検挙事件
  • 近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実も逮捕される
  • 主犯のリヒャルト・ゾルゲと尾崎は死刑

ゾルゲ事件の概要

「ゾルゲ事件」の主犯となるリヒャルト・ゾルゲが来日したのは、1933年9月6日のことです。その後数年をかけてゾルゲ諜報団を組織し、日本で諜報・両略活動を展開しました。 ここでは「ゾルゲ事件」の概要について、詳述します。

リヒャルト・ゾルゲを中心とするソ連のスパイ集団

「ゾルゲ事件」を引き起こしたのは、リヒャルト・ゾルゲを中心としたソ連のスパイ集団です。その名を「ゾルゲ諜報団」といいます。 このゾルゲ諜報団は世界大戦を背景に、日本とドイツがソ連に参戦する可能性がどのくらいあるのかを調べていました。 そしてゾルゲ諜報団にはロシア人だけでなくドイツ人や日本人も参加しており、国内で検挙された共産党関係者の名前やアメリカ共産党に属する日本人党員の情報を収集していたのです。

1941年から1942年にかけてスパイが逮捕

「ゾルゲ事件」は、1941年9月から1942年4月の間に起こりました。日本の特別高等警察は、1940年6月にはゾルゲ事件の捜査を開始していたといわれています。 1941年9月27日にアメリカ共産党員であった北林トモを逮捕したのを皮切りに、同年10月15には尾崎秀実を同月18日にはリヒャルト・ゾルゲら外国人を逮捕しました。 ゾルゲ諜報団の逮捕の経緯については、後述します。

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1分でわかるゾルゲ事件

  • 1941年に起こった国際的な情報諜報団検挙事件
  • 近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実も逮捕される
  • 主犯のリヒャルト・ゾルゲと尾崎は死刑

ゾルゲ事件の概要

「ゾルゲ事件」の主犯となるリヒャルト・ゾルゲが来日したのは、1933年9月6日のことです。その後数年をかけてゾルゲ諜報団を組織し、日本で諜報・両略活動を展開しました。 ここでは「ゾルゲ事件」の概要について、詳述します。

リヒャルト・ゾルゲを中心とするソ連のスパイ集団

「ゾルゲ事件」を引き起こしたのは、リヒャルト・ゾルゲを中心としたソ連のスパイ集団です。その名を「ゾルゲ諜報団」といいます。 このゾルゲ諜報団は世界大戦を背景に、日本とドイツがソ連に参戦する可能性がどのくらいあるのかを調べていました。 そしてゾルゲ諜報団にはロシア人だけでなくドイツ人や日本人も参加しており、国内で検挙された共産党関係者の名前やアメリカ共産党に属する日本人党員の情報を収集していたのです。

1941年から1942年にかけてスパイが逮捕

「ゾルゲ事件」は、1941年9月から1942年4月の間に起こりました。日本の特別高等警察は、1940年6月にはゾルゲ事件の捜査を開始していたといわれています。 1941年9月27日にアメリカ共産党員であった北林トモを逮捕したのを皮切りに、同年10月15には尾崎秀実を同月18日にはリヒャルト・ゾルゲら外国人を逮捕しました。 ゾルゲ諜報団の逮捕の経緯については、後述します。

ゾルゲ諜報団の主要メンバー

「ゾルゲ諜報団」とは、リヒャルト・ゾルゲをリーダーとしたソ連のスパイグループのことです。昭和期に活動した彼らは日本だけでなく、極東でもスパイ行為を行っていました。そして「ゾルゲ事件」をきっかけに、メンバーは一斉検挙されています。 ここでは「ゾルゲ諜報団」の主要メンバーについて、詳述します。

リヒャルト・ゾルゲ

リヒャルト・ゾルゲとは、1933年から1941年まで「ゾルゲ諜報団」を率いていたソ連のスパイです。1930年に上海でスパイ活動を始め、1933年9月に日本に入国しました。 ドイツの日刊紙である「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員として、またナチス党員と公言して横浜で暮らし始めます。そしてドイツのソ連侵攻作戦などの情報をつかみ、スターリン率いるソ連政府に提供していました。

マックス・クラウゼン

マックス・クラウゼンはドイツ人で、無線技士であると同時にスパイでもありました。ドイツで機械工として修業していた時期に第一次世界大戦に徴兵され、通信部隊で電気技術の基礎を学んだといいます。 1928年にモスクワ入りした際にソビエト連邦局に足止めされたことをきっかけに、赤軍情報局の所属となります。リヒャルト・ゾルゲは上司であり、1935年11月25日に日本に入国してからは行動を共にしていました。

尾崎秀実

尾崎秀実は、日本で評論活動も行うジャーナリストでした。近衛文麿内閣のブレーンでもあり、言論界だけでなく政界でも重要なポストについており軍部とのコネクションもあったのです。 この尾崎は実は共産主義者で、リヒャルト・ゾルゲ諜報団の一員としてスパイ活動に従事します。その立場を利用して日本の武器・弾薬・航空機並びに輸送機の生産量など、重要な情報を収集していました。

ブランコ・ド・ヴーケリッチ

クロアチア出身のブランコ・ド・ヴーケリッチも、ゾルゲ諜報団の一員です。1935年5月に、フランスのアヴァス通信社における日本特派員として入国しました。 ゾルゲがドイツのソ連侵攻に関する情報を報告したにも関わらずスターリンが耳を傾けなかったことから、ヴーケリッチは友人のジョセフ・ニューマンにその情報を提供します。ヴーケリッチも1941年10月18日に、ゾルゲと共に逮捕されました。

ゾルゲ事件の逮捕に至るまでの経緯

ゾルゲ諜報団を率いるリヒャルト・ゾルゲは、対ソ連戦に対する日本の方針やナチス・ドイツのソ連侵攻に関する情報を収集しスターリンに報告していました。日本の共産主義者も手助けしており、「ゾルゲ事件」は日本の共産主義者への内偵が発端となりました。 ここではゾルゲ諜報団が逮捕されるまでの経緯を、詳述します。

宮城与徳の内偵から始まる

1930年代より日本の特別高等警察は、共産党やアメリカ共産党に関係する日本人の情報収集を行っていました。その際に名前があがっていたのが、宮城与徳です。 宮城与徳は1919年6月に父に呼び寄せられて渡米し、現地校に通います。1931年にアメリカ共産党に入党しますが、実際にはソ連や国際共産主義運動を指導していたコミンテルンの活動に取り組んでいました。 そのコミンテルンの指示で、1933年10月24日に帰国したとされています。その頃から、特別高等警察の内偵は始まっていました。

北林トモの逮捕

北林トモは1931年よりサンディエゴの自宅に宮城与徳を下宿させていました。そして宮城の影響により、アメリカ共産党に入党しています。 そのため日本に帰国した1930年頃から、特別高等警察の内偵対象となっていました。1941年9月28日に北林夫妻は、日本共産党の伊藤律により特別高等警察に逮捕されます。 その取り調べの過程で宮崎与徳と関係があることが明らかとなり、同年10月10日の宮崎の逮捕につながりました。

ゾルゲ諜報団の逮捕

宮城与徳の逮捕後、自宅の家宅捜索が行われました。その際に、数多くの証拠品が発見されます。特別高等警察はそこで初めて、事件の重要性を理解したのです。 1941年10月13日には九津見房子と秋山幸治が逮捕され、その陳情によってリヒャルト・ゾルゲをはじめとする外国人関係者がいることが明らかとなります。 そして同月18日にゾルゲとマックス・クライゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチが逮捕されました。

ゾルゲ事件の裁判

ゾルゲ諜報団のメンバーが起訴されたのは、逮捕の翌年である1942年です。国防保安法をはじめ、軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法違反などの罪に問われました。 そして東京刑事地方裁判所において、1943年9月から1944年3月の間に裁判が行われたのです。ここでは「ゾルゲ事件」の裁判の行方について、詳述します。

リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑に

「ゾルゲ事件」の首謀者であるリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実に対しては、死刑判決が下されました。 8年にわたってソ連に対し、情報漏洩を行っていたことが重罪とされたのです。ゾルゲと尾崎は大陪審に上告したものの棄却され、刑が確定します。 そしてゾルゲと尾崎はロシア革命記念日である1944年11月7日に、巣鴨拘置所で処刑されました。ゾルゲの最後の言葉は「ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」だったとされています。

マックス・クラウゼンとブランコ・ド・ヴーケリッチは無期懲役だった

ゾルゲ諜報団の主要メンバーだったマックス・クラウゼンとブランコ・ド・ヴーケリッチに対しては、無期懲役が言い渡されました。検察はクラウゼンを死刑の求刑を求めて控訴しましたが、大陪審で棄却されています。 仙台刑務所に収監されていたクラウゼンは第二次世界大戦の終戦後、1945年10月28日に連合国軍によって釈放され帰国しています。 一方のヴーケリッチは、1944年7月に網走刑務所に収監されます。この時にはすでに慢性消化不良にかかっており、体力が落ちていました。その影響で1945年1月13日、急性肺炎で獄死しています。

ゾルゲ事件の獄中手記が書籍化された

逮捕されたリヒャルト・ゾルゲは、収監されていた巣鴨拘置所で手記をしたためました。これが「ゾルゲ事件 獄中手記」です。 獄中手記の中でゾルゲが語ったのは、自身の諜報活動についてだけではありません。日本人が第二次世界大戦へと駆り立てられていく様子も、冷静に分析されていたのです。後にこの獄中手記が書籍化され、研究書としても用いられています。

まとめ

新・スパイ法の議論が上がっている今こそ「ゾルゲ事件」について知っておくべきです。日本人の共産主義者がゾルゲ諜報団に参加しており、内閣や外交官経由で様々な情報が漏洩されていたことは驚きをもって受け止められました。 しかしスパイ防止法のない日本では、「ゾルゲ事件」が再来する可能性が十分にあると言えます。日本が「ゾルゲ事件」から学び、自国を守れるようになることが必要ではないのでしょうか。

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