1分でわかる全日空機雫石衝突事故
- 1973年に起こった民間旅客機と自衛隊機の衝突事故
- 旅客機は乗員乗客全員死亡し、自衛隊の過失が問われた
- 法律や設備が整備され、同様の事故が防止されている
全日空機雫石衝突事故の概要
1971年に日本で発生した航空機同士の衝突事故で、日本航空事故史上最悪の事故と言われこともあります。岩手県上空を飛行中だった全日空の旅客機と、自衛隊戦闘機がぶつかって両者とも墜落しました。旅客機の乗員乗客は全員死亡し、空中分解を起こした旅客機の破片で二次被害も発生しました。
旅客機と自衛隊戦闘機が空中で衝突
事故が発生したのは1971年7月30日です。午後1時25分に千歳空港を出発した全日空58便は、羽田空港に向かって南下し、午後2時前後には岩手県上空に差し掛かっていました。 ほぼ同時刻、静岡県の航空自衛隊第1航空団の戦闘機2機が、訓練飛行のためにやはり岩手県を飛行していました。 そして午後2時2分39秒、58便と戦闘機のうち1機が岩手山の上空8500mで空中衝突してしまいます。訓練教官の乗る機体は58便を回避しましたが、事故にあった戦闘機は回避運動が遅れてしまい、58便の進路に割って入る形で追突されたのです。
旅客機の乗員乗客は全員死亡
航空機同士の衝突によって、58便も戦闘機も操縦不能に陥りました。58便のパイロットは立て直そうとしたようですが、衝突のショックで機体に不備が発生しており、すでに舵が利かない状態になっていました。 58便はバランスを崩したまま墜落し続け、音速(時速約1230km)を超えたスピードに耐えきれず、上空4600mで空中分解を起こします。この時点で旅客機の乗員7名、乗客155名、合計162名は死亡したものと見られています。 なお戦闘機側も安全装置が故障したものの、操縦席の風防が破損していたため、乗員は脱出に成功しました。数km南の田んぼにパラシュートで落下して、生還しています。
旅客機は空中で分解し遺体損傷も激しかった
58便は空中分解した後、岩手県中部にある雫石町(しずくいしちょう)の町内に機体の残骸が無数降り注ぎました。 幸いにも事故による火災などは起きなかったため、乗員乗客の遺体は悲惨な事故にもかかわらず、早い段階で確認することができたようです。しかし遺体は音速で落下した衝撃によって、目を背けたくなるほど惨い損傷だったと言われています。 事故当時は晴天の昼間だったことから、多くの人が58便の残骸落下を目撃しました。この時に写真も撮影されており、事故直後に墜落する旅客機の様子が今でも残っています。
部品が民家などに飛来し直撃
空中分解した旅客機の残骸は、雫石町の西安庭地区を中心として落下しました。 残骸の一部は周辺の建物は民家にも落ちています。とある民家では破片が屋根を貫通し、当時81歳だった女性が負傷しました。 二次被害は他にも出ていますが、幸いにも負傷者はこの女性1人のみでした。怪我の程度については不明ですが、少なくとも重傷ではなかったようです。
全日空機雫石衝突事故の原因
後の調査と衝突事故を目撃した戦闘機の証言によって、事故原因は58便ではなく戦闘機側にあることが明らかとなっています。戦闘機は事故当時、予定されていた訓練空域から逸れて、旅客機の飛行ルートに侵入していたのです。これはまだ未整備だった航路の問題でもありました。
訓練中の戦闘機の過失
事故から約1年後の1972年7月27日、事故調査委員会は当時の運輸大臣に事故報告書を提出しています。 その報告書によると基本的な過失は戦闘機側にあるとしつつ、事故原因としていくつかの理由を挙げました。詳しくは以下の通りです。 ・戦闘機の訓練教官が予定の訓練空域を逸脱して、旅客機の飛行ルートに侵入したことに気づいていなかった ・58便は事故の数秒前に戦闘機を目視していたが、飛行ルートの関係上、接触を予期できなかった ・戦闘機は回避可能だったにもかかわらず、訓練に集中するあまり、訓練教官の回避指示も訓練生の回避行動も遅れた
航路等に関する航空法の未整備
事故当時の航空関連の法整備は非常に未発達で、ジェットエンジンの旅客機が主流になっていたにもかかわらず、第2次大戦前の前時代的な運用がまかり通っていました。 たとえば東北地方をカバーする監視レーダーはなく、旅客機パイロットからの位置情報を元にして、航空管制を地図上で行っていたようです。さらに飛行ルートも、速度がまったく違うジェット機とプロペラ機で分けておらず、訓練空域を跨がるように設定されていました。 簡単に言えば、いつ衝突事故が起きてもおかしくなかったのです。これらはすべて、全日空機雫石衝突事故以降に見直されています。事故は悲惨な犠牲者を生みましたが、空路の安全を確保する上で、手痛い教訓となりました。
全日空機雫石衝突事故の裁判
この事故では刑事裁判と民事裁判の2つが起こされています。刑事裁判では訓練教官と事故を起こした訓練生が、航空法違反の疑いで起訴されました。民事裁判の方は、旅客機乗客の遺族が国に対して起こした損害賠償請求です。
訓練教官に禁固刑の判決
訓練教官と生還した訓練生は、事故から約1日後に岩手県警に逮捕されました。容疑は業務上過失致死と航空法違反です。 盛岡地裁は1975年11月27日、訓練教官を禁固4年、訓練生を禁固2年8ヶ月の実刑判決としました。一方、1978年にあった仙台高裁は訓練教官の責任を重く見て、訓練生の禁固刑を破棄して無罪としています。 最高裁では訓練教官の責任を一部認めつつ、あくまで訓練空域を設定した上官の指示に従ったことを考慮して、禁固3年執行猶予3年の判決を改めて下しました。まとめると訓練教官は禁固3年執行猶予3年の有罪、訓練生は無罪となっています。
遺族、全日空が国を相手取った損害賠償請求
旅客機乗客はそれぞれ、国に対して民事裁判を起こしています。詳しくは個別の事案となりますが、たとえば大学助教授の遺族のケースでは、1974年に東京地裁は国に約5000万円の支払いを命じました。 また全日空および全日空に保険金を払った保険会社らも、国へ国家賠償法を根拠に損害賠償訴訟を起こしています。これには国も反訴を起こし、両者の主張が対立したため、高裁にまでもつれ込んで判決が出るまで10年経過しました。 東京高裁は最終的に国へ全日空に約7億円と保険会社に約15億、全日空へ国に対して約7億をそれぞれ支払うよう命じました。両者ともに上告しなかったため、この判決で確定しています。
全日空機雫石衝突事故が与えた影響
全日空機雫石衝突事故後、これを教訓としてさまざまな施策が行われました。前時代的だった航空機の運用見直しやそれに伴う法整備、そして事故を忘れないための慰霊碑建立などです。
法整備やレーダー導入
事故から4年後の1975年6月24日、事故の問題点を受けて改正航空法が可決され、10月から施行されました。主な改正内容は以下の通りです。 ・航空路の範囲内で曲芸飛行を含めた訓練飛行の禁止、通過禁止、速度や高度の変更や制限などのルールを厳格化 ・安全防止策の徹底と異常接近の報告義務化 ・フライトレコーダーなどの安全装置の義務化 ・上記を一般航空機だけでなく、自衛隊機にも適用 またレーダーの導入も本格化しました。1991年までに国内全域を網羅するレーダー管制システムが作られ、空中衝突防止装置 (TCAS)も開発されています。
慰霊の森
法整備と合わせて、58便の墜落現場の1つが整備され、慰霊の森となっています。場所は岩手県岩手郡雫石町の南西です。 慰霊の森では2003年まで、毎年7月30日に慰霊祭が執り行われていました。それ以降は遺族の組織「一般財団法人慰霊の森」や地元住民、全日空の手で維持されています。2019年からは50回忌に向けて、大規模改修が行われました。 「一般財団法人慰霊の森」は広く航空安全を願うため、現在慰霊の森の名称変更を検討しているとのことです。
当時世界で頻発していた航空機衝突事故
全日空機雫石衝突事故があった当時は、日本だけでなく世界でも同様の衝突事故が起きていました。 特に顕著だったのはアメリカで、1950年代から1960年代にかけて航空機衝突事故が多発しました。その背景には、急速な航空機の発達とともに、航空路が過密化していたという事情があります。 全日空機雫石衝突事故とほぼ同時期に起こったヒューズ・エア・ウエスト706便空中衝突事故は、小型旅客機と戦闘機の衝突事故という点で類似しています。こちらの場合も事故を機に、航空管制の見直しやレーダー管制の導入が行われました。
現在は航空機の衝突事故はほぼ起きていない
現在では航空機の性能や関連技術は、当時と比べて飛躍的に向上しています。最新の統計によると、衝突を含む航空機事故の発生率は468万分の1とされており、自動車事故よりも遥かに低い確率です。 2015年9月に西アフリカのセネガルで衝突事故が起きているものの、2010年代の衝突事故はこの1件しか起きていません。2000年代、あるいは1990年代やそれ以前の10年間で何度も起きていたことを考えれば、驚異的なまでに事故率が低くなっています。 航空機は今や、世界的になくてはならない交通機関です。ぜひ今後も悲惨な事故が起こらないよう、安全に配慮して欲しいものです。