1分でわかる財田川事件

「財田川事件」は香川県三豊郡財田村(現三豊市)で起こりました。2人組が当時63歳の男性の現金を奪って殺害したとして逮捕された事件です。 また、この強盗殺人事件は警察によって自白を強要され、これを根拠に起訴に至りました。死刑判決を受けた免田事件・松山事件・島田事件と並ぶ「四大死刑冤罪事件」としても社会から注目を集めた事件です。
- 自白は警察による拷問により強要された
- 冤罪事件として注目された事件
- 死刑から一転して無罪となった
財田川事件の名前の由来

「財田川事件」は香川県にある財田村で起こりました。事件が起こった場所が「財田」であればその場所名を使って「財田事件」と表現されるのが普通です。 ではなぜ、財田村で起こった事件を「財田事件」としないで「財田川事件」と表現したのでしょうか。 「財田川事件」と表現したのは再審請求無効を言い渡した越智伝判事のコメント「財田川よ、心あらば真実を教えて欲しい」があったからです。
財田川事件の概要

「財田川事件」は1950年2月28日に起きました。家族と別居生活をしていた当時63歳だった男性が寝巻きに血がついた死体で発見されました。 地元で「財田の鬼」と呼ばれていた不良グループの2人が殺人の疑いで逮捕されました。「財田川事件」の概要と犯人が冤罪を訴えるまでに至った経緯などを解説します。
闇米ブローカーの男性が殺害され現金を奪われた
血だらけの死体で発見された被害者は、家族と別居生活をしていたヤミで米の売買に関わるブローカーでした。 闇米ブローカーは現金1万3000円を奪いとられたあげくに30箇所を刃物で刺されて死亡しました。 同じ1950年4月に財田村の隣にある神田村でも2人による農協強盗事件が発生し、警察は同じ犯人のしわざと疑い始めました。
遡行の悪かった2人が犯人として疑われた
警察は農協強盗事件とこの事件は同一犯とみて捜査をしました。 そんな中で容疑者として上がったのが遡行が悪く、地元の住民から「財田の鬼」と呼ばれていた不良グループでした。 警察は不良グループの2人による犯行の疑いがあると判断して闇米ブローカー殺害・強盗の事件の容疑者として逮捕しました。
1人はアリバイが成立し釈放され谷口繁義が犯人とされた
殺害と現金強奪の強盗殺人事件の容疑者として逮捕されたのが2人組でした。2人組の1人が当時19歳だった谷口繁義(たにぐち しげよし)でした。谷口には事件に関わっていないというアリバイはありませんでした。 谷口容疑者とともに犯行の疑いがあることで逮捕されたもう1人は、事件の当日に殺害現場に行っていないことが証明されて釈放されました。 殺害現場に行っていないことを証明することが出来なっか谷口容疑者は厳しい取調べを受けることになりました。
厳しい取り調べと拷問が行われ、自白を強要された
警察の取り調べで事件現場に行っていないことを証明することができなかった谷口容疑者は、頑固に事件への関与を否定したため 厳しい取り調べを受けることになりました。 厳しい取り調べは約2ヶ月に及びます。手には手錠をかけ、足にはロープを巻いた状態で正座させられ、自由を奪って肉体的や精神的にプレッシャーを与えながら事件への自白を迫る拷問が行われました。 拷問の取り調べによって、自白した谷口容疑者は1950年8月23日に起訴になりました。
財田川事件の裁判と判決

起訴となった谷口容疑者にはどのような裁判が行われたのでしょうか。高松地方裁判所・高松高等裁判所・最高裁判所が下した判決の内容はどのようなものだったのでしょうか。 そして、冤罪に至る確証となったことなど「財田川事件」の裁判と判決について解説します。
国防色ズボンが有罪判決の決め手となった
事件から9ヶ月ほど後の1950年11月6日に最初の裁判が始まりました。裁判では物的証拠があると検察側は主張しました。 検察側の主張は谷口容疑者が着ていた国防色ズボンに殺害された人と同じO型の血痕が付着していたといった内容でした。検察側はこの物的証拠と事件の関与を谷口容疑者が自白したことから有罪であると主張しました。 しかし、谷口容疑者は自白は厳しい拷問によって強要されたと主張し無罪を訴えました。
高松地方裁判所で死刑判決
高松地方裁判所は、検察側が提出した古畑種基(ふるはた たねもと)教授の血液の種類を調べた鑑定書と事件の自白は信用できるとして死刑判決を下しました。 鑑定書は被害者の血液と谷口容疑者が着ていた国防色ズボンに付いていた血液が一致したことを証明していました。 高松地方裁判所が、死刑判決を下すに至ったのは、血液の種類を調べたのが法医学の権威である古畑種基東京大学教授による鑑定だったことが大きく影響していました。
控訴は全て棄却された
高松地方裁判所の死刑判決から4年後に谷口容疑者は判決は不服として高松高等裁判所に控訴しました。 しかし、高松高等裁判所は確証のある古畑教授の鑑定書と本人の自白に疑う余地がないと判断して谷口容疑者の控訴を棄却しました。 翌年の1957年1月22日に最高裁判所に上告しますが、最高裁判所も上告を棄却しました。この結果により谷口容疑者の死刑が確定しました。
谷口繁義により再審を請求する手紙が届く
死刑が確定した谷口さんは大阪拘置所に収容されました。収容後、死刑執行に向けた動きがありました。 しかし、書類の不備などから手続きができない状態になりました。 そんな中収容された谷口さんは自分は無罪ですと、国防色ズボンに付着した血液の検査をもう一度やって欲しいと再鑑定を希望する手紙を高松地裁に書いていました。
高松地方裁判所の裁判長の矢野伊吉により手紙が発見、再審準備が開始される
手紙は、死刑判決から12年後の1969年に高松地裁の矢野伊吉裁判長に発見されました。手紙の内容から矢野伊吉裁判長が腑に落ちない、どうもひっかかる点があると判断し、再審準備が開始されました。 しかし、再審前に犯人からの手紙だけで再審するのはおかしいと反対する人が多くいて「財田川事件」の再審は反対運動へと発展していきました。
矢野伊吉は裁判官を辞め弁護士になり谷口繁義を弁護した
再審反対の運動が起こったことを受け矢野伊吉裁判長は裁判官から弁護士に身を転じます。 弁護士となった矢野伊吉は最高裁に対して再を審請求をしました。 最高裁は約2ヶ月に及ぶ勾留での自白と自白調書に任意性がなく、警察によって不正作成の疑いがあることなどいくつかの疑問と留意点があるとして高松地裁に裁判のやり直しを命じ、1979年6月7日に高松地裁は再審開始しました。
証拠不十分や、自白の信憑性から無罪判決
高松地裁の公判で谷口は自白は取り調べを行った警察の拷問によるものだと、改めて自白は強要されたことを主張しました。 矢野弁護士は漢字が書けない谷口の犯行を告白した手記を疑うとともに、殺害された現場の検証に疑問があり、物的証拠の被害者の血痕がついていたとするズボンを事件の当日に着ていたのか疑問が残るといったことを主張して無罪を訴えました。 高松地裁は拷問による自白であって、自白には信用性がなく、事件の当日に物的証拠となっているズボンを着ていた証拠がないといた理由から無罪判決を下しました。
谷口繁義には賠償金が支払われた
再審開始から5年で無罪判決を勝ち取った谷口は、収容されてから33年以上の長期にわたり身柄拘束されました。 そんな無罪判決を受けた者を補償する刑事補償法により谷口には9000万円ほどの賠償金が支払われました。 なお「四大死刑冤罪事件」における補償金は免田事件・9000万円ほど、松山事件・7000万円、島田事件・1億1900万円ほどが支払われました。
財田川事件の真犯人

「財田川事件」の犯人とされ、大阪拘置所に収容されていた谷口さんが無罪になったことで 「財田川事件」の真犯人を探すことになりました。 しかし、真犯人探しの捜査は思うように進まず、2019年現在でも真犯人は見つかっていません。 そして、34年以上の長い期間であることから真犯人は既に亡くなっていることが予想されます。
財田川事件のまとめ

冤罪はその人の人生を奪うことになるあってはならないことです。「 財田川事件」で冤罪を受けた谷口さんは34年という長い獄中生活を余儀なくされました。無罪判決で開放され、故郷に戻った後20年ほど暮らし、74歳で亡くなるといった人生でした。 このような冤罪が絶対に起きない、起こさない確固たる制度作りを求めたいものです。