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湯口事件の真相とは?ドラフト1位入団するも、うつ病を患い変死した湯口敏彦の真相。

もくじ

1分でわかる湯口事件

湯口投手を追い詰めた常勝チームのきびしさ

  • 怪童と言われた少年の明るい未来と挫折
  • 当時の指導は正しかったのか・うつ病への理解
  • 未来のエースがのみ込まれたプロ野球界の闇

高校球界で活躍した湯口敏彦氏は、期待の選手として名門の巨人軍に入団しました。湯口敏彦氏の速球は高校生では打てない、と言われる程で、首脳陣からの期待も大きかったといいます。 真面目な湯口敏彦氏は熱心な練習を続けますが、なかなか結果が出せず首脳陣から叱責されることも多かったようです。 そんな事が続き精神的に病んでしまった野口敏彦氏は、精神科に入院。治療中に謎の死を遂げます。

湯口事件の概要

1970年のドラフト会議で巨人軍は将来有望な選手として、高校球界で活躍した湯口敏彦氏を1位指名で獲得しました。 将来を嘱望されていた彼は期待に応えようとしますが結果は芳しくなく、首脳陣から叱責されることが多かったといいます。 精神的に追い詰められた湯口敏彦氏は、精神科に入院。入院中に変死体で発見されます。将来を嘱望されていた彼が、何故死に至ったのでしょうか。

1973年に読売ジャイアンツの投手・湯口敏彦が急死した

1973年のドラフト会議。巨人軍は高校球界で活躍した湯口敏彦氏を指名しました。当時連覇を続けていた巨人軍は、即戦力の選手から成長重視の選手獲得に方針を切り替えていました。 首脳陣の期待が大きかった湯口敏彦氏は、賢明に練習を続けますがなかなか結果が出せず、激しい叱責と、時には鉄拳制裁を受けることもあったといいいます。 ファン感謝デーの紅白戦のことでした。ノックアウトされた湯口敏彦氏は、川上監督からも叱責されます。以降、ドンドンと精神的に追い込まれて行き、精神科を受診。2度の入院の後に急死してしまいます。

巨人は川上監督の発言などで批判された

湯口敏彦氏の急死は、大スキャンダルとして報道されました。特に週刊ポストはこれは自殺である、と断定し巨人軍への猛攻撃を始めます。 当時の巨人軍監督の川上哲治氏は、「巨人軍こそ大被害を受けた。大金をはたき、愛情を注いで育てたのに。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかったことだ」と、発言したのです。 この発言で、巨人軍へのバッシングは更に強まっていきます。スポーツ紙は連日巨人軍へのバッシングを報道するようになります。

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1分でわかる湯口事件

  • 怪童と言われた少年の明るい未来と挫折
  • 当時の指導は正しかったのか・うつ病への理解
  • 未来のエースがのみ込まれたプロ野球界の闇

高校球界で活躍した湯口敏彦氏は、期待の選手として名門の巨人軍に入団しました。湯口敏彦氏の速球は高校生では打てない、と言われる程で、首脳陣からの期待も大きかったといいます。 真面目な湯口敏彦氏は熱心な練習を続けますが、なかなか結果が出せず首脳陣から叱責されることも多かったようです。 そんな事が続き精神的に病んでしまった野口敏彦氏は、精神科に入院。治療中に謎の死を遂げます。

湯口事件の概要

1970年のドラフト会議で巨人軍は将来有望な選手として、高校球界で活躍した湯口敏彦氏を1位指名で獲得しました。 将来を嘱望されていた彼は期待に応えようとしますが結果は芳しくなく、首脳陣から叱責されることが多かったといいます。 精神的に追い詰められた湯口敏彦氏は、精神科に入院。入院中に変死体で発見されます。将来を嘱望されていた彼が、何故死に至ったのでしょうか。

1973年に読売ジャイアンツの投手・湯口敏彦が急死した

1973年のドラフト会議。巨人軍は高校球界で活躍した湯口敏彦氏を指名しました。当時連覇を続けていた巨人軍は、即戦力の選手から成長重視の選手獲得に方針を切り替えていました。 首脳陣の期待が大きかった湯口敏彦氏は、賢明に練習を続けますがなかなか結果が出せず、激しい叱責と、時には鉄拳制裁を受けることもあったといいいます。 ファン感謝デーの紅白戦のことでした。ノックアウトされた湯口敏彦氏は、川上監督からも叱責されます。以降、ドンドンと精神的に追い込まれて行き、精神科を受診。2度の入院の後に急死してしまいます。

巨人は川上監督の発言などで批判された

湯口敏彦氏の急死は、大スキャンダルとして報道されました。特に週刊ポストはこれは自殺である、と断定し巨人軍への猛攻撃を始めます。 当時の巨人軍監督の川上哲治氏は、「巨人軍こそ大被害を受けた。大金をはたき、愛情を注いで育てたのに。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかったことだ」と、発言したのです。 この発言で、巨人軍へのバッシングは更に強まっていきます。スポーツ紙は連日巨人軍へのバッシングを報道するようになります。

湯口敏彦とは

高校球界で活躍した湯口敏彦氏でしたが、性格はおとなしく人見知りだったそうです。そのため、家族からも厳しいプロ野球界では無理だろうと言われていました。 常勝チームの巨人軍では、余計に精神的に辛いだろうと家族も心配していたそうです。それでも入団後の湯口敏彦氏は、懸命に練習に励みました。 しかし、その真面目さから1位指名という重圧が徐々に彼に圧し掛かってきます。

巨人にドラフト1位で入団

巨人軍は1968年までの連続優勝もあって、即戦力の選手ではなく、成長重視の選手獲得を目指していました。 巨人軍が注目したのは、当時高校球界で活躍した岐阜短期大学付属高校の湯口敏彦氏でした。彼の速球は高校生では打てない、と言われる程でした。 巨人軍はドラフト1位で湯口敏彦氏を指名します。湯口敏彦氏は、入団1年目での一軍登板こそありませんでしたが、その真面目な性格から、誰よりも熱心に練習に取り組み、一軍昇格を目指しました。

入団後は主に二軍で経験を積む

1971年、入団して1年目の公式戦では、一軍デビューはなりませんでした。2年目の成績も芳しくなく、フォームの改造を命じられます。 しかし、2軍投手コーチの猛烈な反対もあり、フォームを戻して2年目に臨みました。結果は2勝3敗と厳しものでした。 しかし、後半からの成長を首脳陣から評価され、年俸も上昇します。そんな湯口敏彦氏でしたが、生真面目な性格故に、なかなか一軍に上がれないことを悩むようになっていきます。

しかし2年目終わり頃からうつ病の症状がみられた

湯口敏彦氏はドラフト1位の自分が、なかなか一軍で登板できないことを悩むようになっていました。 ある日は父親に電話を掛け、そのことを相談しています。父親も覇気がないことに気づき、「それがプロの厳しさだから」と言って励ましたそうです。 湯口敏彦氏は休日に若手選手と海に遊びに行っても、仲間と話なすこともなく波を怖がるようなおかしな様子が見せていたと、当時の二軍コーチは語っています。

川上監督や中尾碩志二軍監督からの指導でうつ病を悪化させた

1972年11月23日、毎年恒例の寮生による飲み会がありました。翌日はファン感謝デーでしたが、二軍の自分には登板機会はないだろうとリラックスして飲み会を楽しみました。 ところが、湯口敏彦氏は突然紅白戦の登板を命じられます。二日酔いの湯口敏彦氏は滅多打ちに合い、川上監督にも叱責されたのでした。 二軍の中杉監督からも激しく叱責されます。このことで湯口敏彦氏は憔悴しきってしまいます。

うつ病と診断され入院する

それからは、湯口敏彦氏の症状は益々悪化していき、仲間から話しかけられても返事もしないで、終始無言の状態が続くようになりました。 11月27日に行われた熱海の納会でも、何人かの選手が湯口敏彦氏の様子がおかしいことに気づきます。報告を受けた中杉二軍監督は、すぐに実家に連絡を入れました。 11月29日、湯口敏彦氏は東京の清和病院に入院することになります。しかし、この湯口敏彦氏の入院は、極秘扱いにされ外部に告知されることはありませんでした。

復帰するも再度入院

1973年2月15日に湯口敏彦氏は医師の診断とマスコミの追及を恐れた球団の意向で、宮崎県の二軍練習に合流します。 しかし、キャンプ初日にまた異変が起こります。湯口敏彦氏は壁に向かって微動だにせずに座っていたり、大声で叫んだりと奇行を繰り返すようになります。 湯口敏彦氏は「野球をやらせてくれ!」と叫んだりして大暴れします。湯口敏彦氏はそのまま、再び清和病院へ緊急入院させられることになりました。

病院のベットで変死体となって発見された

湯口敏彦氏の妻、百恵さんは、彼を励まそうと1日置きに見舞いに行っていました。死亡した22日に見舞った時は、元気な様子だったとも語っています。 帰宅して1時間も経たないうちに、病院から湯口敏彦氏が急死したと連絡が入りました。見舞いに訪れた叔母と分かれた湯口敏彦氏は、夕食を取ったあと心臓発作を起こし、ベッドの上で亡くなっていたそうです。 マスコミは死亡の仕方があまりに不自然だと報じ、一時は自殺説も流れました。

湯口事件に対する世間の反応

湯口敏彦氏の死因は心臓麻痺だとして発表されました。当時の世間では、精神疾患は感染するとまでいわれ、その理解は十分とはいえませんでした。 死亡した1970年代は精神疾患であると分かっただけで、差別を受ける時代でした。球団の「心臓麻痺」による死という発表も、こうした時代背景からだったのでしょう。

川上哲治監督の発言

川上哲治氏が湯口敏彦氏の死を受けて、発表したコメントはあまりに冷たいものでした。この発言によって巨人軍へのバッシングは大きくなっていきます。 川上哲治氏の発言も激しく批判を浴びますが、同時に湯口敏彦氏の死因についても様々な憶測が飛び交いました。 湯口敏彦氏の死に不信感を抱いていた世間に対する川上哲治氏の冷ややかな発言は、マスコミに火を付けることになります。巨人軍へのバッシングは更に強まっていきます。

マスコミによるバッシング

川上哲治氏の発言により、巨人軍へのバッシングは強まっていきます。特に週刊ポストは、湯口敏彦氏の死から2週間後には「湯口敏彦氏は自殺であった」と騒ぎを煽る特集記事を出します。 ついには、湯口敏彦氏の父親の手記を掲載しました。この激しい追及は、球界で囁かれていた同種の事件への疑惑を暴こうとする週間ポストとマスコミの意図があったのではないか、と見る動きもありました。

湯口事件によりドラフト指名選手の指名拒否

巨人軍のイメージは、事件後から徐々に下がっていきます。1973年のドラフト会議では、巨人軍が指名した7名のうち、4名が入団を拒否するという事態になります。 特に1位指名を受けながら、入団を拒否した小林秀一選手は、巨人軍の1位指名を拒否した選手として、今もファンの記憶に残っています。 巨人軍に指名された選手の中には「湯口敏彦氏の事件を理由に断った」と漏らした選手もいたといいます。湯口敏彦氏の死は、当時のプロ野球界の闇を明らかにするものになりました。

まとめ

将来のエースと嘱望された湯口敏彦氏は、若干20歳の若さでこの世を去りました。精神疾患を起こすまで追い込む、当時のプロ野球界の責任も問われて然るべきでしょう。 これはプロスポーツという勝つことが宿命の世界で起きた悲しい出来事でした。しかし、球団と社会の精神疾患への理解が深ければ防げた事件だったのかもしれません。

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