1分でわかるウルグアイ空軍機571便遭難事故
- 空軍機が墜落し、生存者がサバイバルを生き延びた
- 人肉を食べるほどに壮絶を極めたサバイバル生活
- 後日書籍や映画として世間に広まった
ウルグアイ空軍機571便遭難事故の概要
極寒のアンデス山脈の峰に航空機が衝突、墜落したウルグアイ空軍機571便遭難事故をご存じでしょうか。 ウルグアイ空軍機が人為的ミスにより墜落し、当初は28名の生存者がいました。しかしその後に待っていたのは極寒の高山で救助を待たなくてはならないという現実でした。 壮絶なサバイバル生活を余儀なくされた彼らは、さまざまな手段を講じてかろうじて命をつないでいました。遭難3か月目にしてようやく救助され、彼らの体験は書籍や映画などで広く世間に知られることとなりました。
1972年に起きたチャーター機墜落・遭難事故
1972年にチャーターされたウルグアイ空軍機が墜落し、生存者が遭難するという事故が起こりました。 空軍機に乗っていたのはパイロットなど5名の乗務員、そして10代の少年少女を含むラグビーの選手たちとその家族でした。 航空機はアンデス山脈を越えてチリに向かう予定でしたが、天候が悪く回復を待ってから改めて山を越えることにしました。しかし彼らは山を越えることはできず、極寒のアンデス山脈に衝突・墜落したために生存者は山中で遭難することになりました。
乗員乗客45名のうち29名が死亡、生存者16名は72日間のサバイバルを生き延びた
出発当初は乗客乗員合わせて45名でした。しかし墜落後の72日間にも及ぶ雪山でのサバイバル生活で、生還できたのはわずか16名でした。 もともと墜落した機体は爆発も炎上もしなかったために墜落当初は28名の生存者がいました。しかし墜落時の負傷や物資も食料もほとんどない状態での雪山のサバイバル生活が彼らの命を奪っていきました。 死亡者は29名にものぼり、サバイバルを生き抜けたのは16名しかいませんでした。
ウルグアイ空軍機571便遭難事故の流れ
ウルグアイ空軍機571便はいったい何が原因でアンデス山脈に墜落することになったのかが大きな問題です。 ここでは空軍機が墜落してしまった原因や墜落初日にはどれだけの生存者がいて、どのような状態であったのかに迫ります。
パイロットの致命的なミスでアンデス山脈の峰に衝突した
空軍機がアンデス山脈の峰に衝突したのはパイロットが致命的なミスを犯したためです。 天候が回復したアンデス山脈を抜ける際に、コースは雲で覆われていたため目視で現在地点を知ることはできませんでした。パイロットは標準的な時間を計算してクリコに到達したと考え空港管制官にもその通り報告していました。 しかし実際には強風のために空軍機は減速しており、通常よりも遅くなっていました。そのため山脈の西に達しないうちに北上してしまい峰に衝突、墜落することとなりました。
墜落初日に12名死亡、5名行方不明、28名生存
墜落初日に12名の死亡が確認され、5名は機外へ投げ出されたために行方不明でした。そのため確認できた生存者は28名のみでした。 死亡者12名のうち墜落によって即死したのは9名でしたが、その後墜落時の負傷がもとで3名が初日のうちに亡くなっています。 また5名の行方不明者は後日遺体で発見されました。残された28名も機体が墜落した際に骨折したり負傷したりしていました。しかし満足に医薬品もない状態であったため、適切な治療をすることもできませんでした。
壮絶なサバイバル生活
物資も食料品もほとんどない状態で、負傷者を抱えたまま彼らはサバイバル生活を余儀なくされました。 雪山でのサバイバル生活は過酷を極めました。さらに機内で発見されたラジオによって、彼らの捜索が中止されたことを知り救助を待ち続けることもできなくなりました。
極寒の高山で救助を待たなければならなかった
空軍機が墜落したのは10月のことでしたが、場所がアンデス山脈であったため周囲は雪に覆われていました。凍えるような寒さの中、生存者たちは負傷者を抱えた状態で救助を待たなければなりませんでした。 空軍機はすぐにチリへ着く予定だったために、ろくな食料や物資を積んでいませんでした。そのうえ雪に覆われた極寒の雪山では、自然の恵みすら期待できませんでした。 彼らはチョコレートなどのわずかな食料を分け合ってかろうじて命をつないで、救援を待ち続けました。
遭難11日目に捜索が中止されたことを知る
食料や物資を求めて空軍機の中を探索した時に見つけたラジオから、彼らの捜索が中止されたことがわかりました。遭難してから11日目のことでした。 すでにわずかに残っていた食料はほぼ尽きており、ニュースを聞いた生存者たちは絶望に包まれました。そのとき生存者のうちの一人がみなを鼓舞し、何とか完全な絶望に陥ることは避けられました。 しかし食料が見つかるあてはなく負傷者にはろくな手当てをすることもできず事態は悪化していきました。
人肉を食べることで生き延びることを選択した
亡くなった人々は極寒の中で腐敗することはありませんでした。そのために生存者の一人がその遺体を食べて生き延びることを提案しました。 彼らはキリスト教徒であった上に、亡くなっていたのは友人や家族でした。その遺体を食べることに抵抗のない人はいませんでした。 しかしすでにわずかにあった食料もそこを尽き、雪に覆われた周囲から調達するのは困難でした。空軍機を解体しても服やバッグなどを解体しても食べるものは見つけることはできず、彼らは苦渋の決断を下しました。
遭難16日目に起きた雪崩で死者が増えた
遭難16日目にして雪崩が起き、眠っていた生存者たちは雪に埋もれました。浅く雪をかぶっただけの人々は助かりましたが、深く埋まってしまった8人が死亡しました。 もともと彼らは墜落した空軍機を拠点にしていました。極寒の雪山を負傷者を抱えてさまようことはできなかったためです。 16日目に起きた雪崩はすさまじく、彼らが拠点にしていた機体を丸ごとの見込み雪の下に埋めてしまいました。そのためかろうじて生き残った人々も、狭い機体の中に閉じ込められてしまいました。
遠征をして、約3ヶ月後に助けを求めることができた
そのままとどまっていてもどうにもならなかったため、2~3人で雪山を遠征して約3か月後に助けを求めることに成功しました。 もともと雪崩の後から体力があり精神的にもタフな2~3人で、何度か遠征に挑戦していました。しかし山を下りて助けを求めるまでには至りませんでした。 しかし機体の残りを発見したことによって僅かながら食料を手に入れました。また寝袋を作ることもでき、それによって最後の遠征隊が出発して無事に救援を呼ぶことができました。
ウルグアイ空軍機571便遭難事故のその後
救援を求めた2人により、機体に残された14人の生存者たちも順次救出されました。その後彼らは病院で治療を受けています。 初めは機内に積み込んでいたチーズで生き延びていたと偽っていました。しかし人肉を食べていたことを公表するべきだと意見がまとまり、記者会見の準備をしていました。 ところが記者会見をする前に、機内に残された遺体の写真が公表されてしまい、人肉食に大きく焦点が当てられてしまいました。
ウルグアイ空軍機571便遭難事故のメディア化
やがて、「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」はメディア化されました。多くの噂と無遠慮な報道に対して生存者は憤りを感じていました。 そのため真実を知るものがきちんと伝えるべきであると、生存者の一人がこの時の体験を書籍という形で公表しました。
書籍
生存者の一人である当時22歳だったナンド・パラードさんが、当時の体験を書籍化して世間に公表しました。彼は最後に遠征をして救助を求めた一人でもありました。 彼が「アンデスの奇跡」という本を出版したのは、遭難事故から実に34年もの月日が流れた後でした。この本には彼の体験した過酷な72日間が描かれています。 またアメリカの歴史作家により書かれた書籍やイギリスの作家が生存者やその家族にインタビューをして書き上げた書籍などもあります。
映画
世間に衝撃を与えたこの遭難事故は書籍だけでなく映画にもなっています。 いくつかのドキュメンタリー映画や劇映画が制作されており、中には生存者の一人であるナンド・パラードさんが映画の技術顧問を務めた作品もあります。またドキュメンタリー映画には生存者や家族、救助に当たった人々へのインタビューが記録されている作品もあります。 ドキュメンタリーや劇映画などは日本で公開されたものもあり、墜落後の壮絶なサバイバルを知ることができます。
雪山サバイバルの真実
空軍機の墜落と雪山でのサバイバル生活は想像を絶します。その実態を知らずして、人肉を食したという一点だけに焦点をあてるメディアの姿勢には問題があるといわざるを得ません。 彼らの体験は書籍や映画を通して知ることができます。我々も自分自身の目と耳で真実を見つめるように心がけたいものです。