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津山事件の全貌。犯人・都井睦雄の動機や生存者・寺井ゆり子さんに行われたインタビューとは?

もくじ

1分でわかる津山事件

「津山事件」の要点

  • 「津山事件」は戦前に起きた日本犯罪史上最悪の猟奇的大量殺人事件
  • 犯人都井睦雄は計画的に次々と集落の人々を殺害し、死者は30人に上った
  • 犯人都井睦雄は遺書を残して自殺するも動機については不明な点が残っている

津山事件の概要

「津山事件」は、1938年5月21日に、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)の貝尾集落というところで起きた日本犯罪史上最悪の大量殺人事件です。 その衝撃さのあまり作家横溝正史の興味を買い、小説「八つ墓村」のモデルともなりました。いったい「津山事件」とはどんな事件なのか、ここでは「津山事件」の概要について紹介します。

1938年岡山県の集落で起きた大量殺人事件

幼い頃両親を肺結核で亡くした都井睦雄は、6歳のときから姉と祖母の生まれ故郷である貝尾集落で生活をしてきました。事件の発生は1938年です。 この集落には22戸、合計110名以上の住人が住んでいました。都井睦雄は、将来小説家になりたいと思っていました。家自体は比較的裕福な家庭であったため、生活にはそれほど困らなかったようです。 そんな彼が21歳のときにとんでもない事件を起こしたのです。

30名が死亡、犯人は自殺した

動機については後述しますが、都井は事件当日、集落の人々を日本刀や猟銃を使って次々と殺害します。 軍人さながらの格好で、学生服と足にはゲートルを巻き、闇夜に対応するためのライトを頭と胸に、猟銃を片手に、腰には日本刀と匕首(ひしゅ)を差して人々を襲います。 30人を殺害した返り血を浴び全身は鮮血に染まっていました。夜中にその姿を目にした住人は恐怖で腰を抜かしたに違いありません。都井は最後は自殺します。

犯人・都井睦雄

これほどの凶悪な事件を起こした都井睦雄とはいったいどういう人物だったのでしょうか。都井睦雄は1917年、岡山県苫田郡加茂村大字倉見という別の集落で生まれ、6歳のときに貝尾集落に移住します。 22歳の若者がなぜ集落の人々を殺害しなければならなかったのか。犯行動機は何なのか、都井睦雄について見ていきます。

犯行動機

10代後半から都井には結核の兆候が見え始めます。そして20歳の時、徴兵検査で不合格となります。 都井が結核であることが集落内で知れ渡ると、都井がそれまで関係を持っていた女性たちから拒絶されるようになりました。当時、集落には夜這いの風習が残っていたとされており、都井は集落内の何人かの女性と関係を持っていたようです。 当時結核は不治の病で他人に感染することもあり、集落の人は彼との接近を恐れたのでした。都井の心には村人への復讐心が徐々に大きくなっていったのです。

犯行準備

都井は事件の数日前に、姉などに宛てて遺書を書いていました。つまり、近々犯行を行う予定であり、しかも死を覚悟してのことだったといえます。 また、自転車を使って隣町の駐在所まで走り、住民が助けを求めるまでに必要な時間を把握しておくなど、犯行に向けて周到に準備をしていたのです。 事件前日の夕方に都井は電柱に登って送電線を切断し、貝尾集落を全面的に停電させます。当時停電は珍しいことではなかったため、集落の人は特に不審に思わなかったようです。

残された遺書

残された遺書は2種類あります。事前に書いておいたものと、犯行後追加で書いたものです。追加で書いたということは、犯行が当初の予定と異なり、犯行のうちに何かしらの吐露したい気持ちが生じたのでしょうか。 犯行後に書いた遺書によると「殺すべき相手を殺さず、殺さなくていい者を殺してしまった。」「病気4年間の社会の冷胆、圧迫に泣いた。」「今日決行を思いついたのは、以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから。」と記されています。 また、祖母と姉に対する申し訳ない気持ちもつづられています。

都井睦雄の姉はうどん屋を営んでいた

都井睦雄の姉は1934年に結婚して別の集落に転居します。親のいない2人姉弟であり、2人はかなり仲が良かったものと思われます。都井睦雄の姉はうどん屋を経営していたとされています。 ただし姉はすでに死亡しており、現在のそのうどん屋が存在しているかどうかは定かではありません。仮に存在しているとしても、事件に関与している人はいないでしょう。

津山事件の当日

犯行があったのは日付が変わった5月21日の未明です。その前日寺井ゆり子さんが貝尾集落に里帰りをしていたのです。 それ以前からぼんやりと犯行を考えていたはずですが、寺井ゆり子さんの里帰りが都井を急速に犯行へと決断させたと考えられます。事件の当日の都井睦雄について見ていきましょう。

事件で使われた凶器

都井が事件で使用した凶器は、猟銃に日本刀、匕首そして斧であったとされています。 狩猟免許を取得していた都井はブローニング猟銃を持っていたのですが、事件前のとある事件で警察に家宅捜索された際、これら凶器を押収され狩猟免許も取り消されてしまいます。 しかし都井は再び凶器をかき集め犯行に至ります。この行動を見る限り、かなり恨みを募らせていたと考えられます。

計11家に押し入った

都井は最初に自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させます。その後家を出て隣の家に侵入し、女性と子供3人を殺害します。 そこからは次々に民家に侵入して、約1時間半かけて計30人(即死は28人、2人は重傷後死亡)を殺害します。その過程で「お前はわしの悪口を言わなかったから堪えてやる。」と言って見逃がされた住民もいたようです。 遺書にも書かれていたように、標的とそうでないものを都井の中では区別していたようです。ライトを頭と胸に準備していたのもそのためでしょう。

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1分でわかる津山事件

  • 「津山事件」は戦前に起きた日本犯罪史上最悪の猟奇的大量殺人事件
  • 犯人都井睦雄は計画的に次々と集落の人々を殺害し、死者は30人に上った
  • 犯人都井睦雄は遺書を残して自殺するも動機については不明な点が残っている

津山事件の概要

「津山事件」は、1938年5月21日に、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)の貝尾集落というところで起きた日本犯罪史上最悪の大量殺人事件です。 その衝撃さのあまり作家横溝正史の興味を買い、小説「八つ墓村」のモデルともなりました。いったい「津山事件」とはどんな事件なのか、ここでは「津山事件」の概要について紹介します。

1938年岡山県の集落で起きた大量殺人事件

幼い頃両親を肺結核で亡くした都井睦雄は、6歳のときから姉と祖母の生まれ故郷である貝尾集落で生活をしてきました。事件の発生は1938年です。 この集落には22戸、合計110名以上の住人が住んでいました。都井睦雄は、将来小説家になりたいと思っていました。家自体は比較的裕福な家庭であったため、生活にはそれほど困らなかったようです。 そんな彼が21歳のときにとんでもない事件を起こしたのです。

30名が死亡、犯人は自殺した

動機については後述しますが、都井は事件当日、集落の人々を日本刀や猟銃を使って次々と殺害します。 軍人さながらの格好で、学生服と足にはゲートルを巻き、闇夜に対応するためのライトを頭と胸に、猟銃を片手に、腰には日本刀と匕首(ひしゅ)を差して人々を襲います。 30人を殺害した返り血を浴び全身は鮮血に染まっていました。夜中にその姿を目にした住人は恐怖で腰を抜かしたに違いありません。都井は最後は自殺します。

 

犯人・都井睦雄

これほどの凶悪な事件を起こした都井睦雄とはいったいどういう人物だったのでしょうか。都井睦雄は1917年、岡山県苫田郡加茂村大字倉見という別の集落で生まれ、6歳のときに貝尾集落に移住します。 22歳の若者がなぜ集落の人々を殺害しなければならなかったのか。犯行動機は何なのか、都井睦雄について見ていきます。

犯行動機

10代後半から都井には結核の兆候が見え始めます。そして20歳の時、徴兵検査で不合格となります。 都井が結核であることが集落内で知れ渡ると、都井がそれまで関係を持っていた女性たちから拒絶されるようになりました。当時、集落には夜這いの風習が残っていたとされており、都井は集落内の何人かの女性と関係を持っていたようです。 当時結核は不治の病で他人に感染することもあり、集落の人は彼との接近を恐れたのでした。都井の心には村人への復讐心が徐々に大きくなっていったのです。

犯行準備

都井は事件の数日前に、姉などに宛てて遺書を書いていました。つまり、近々犯行を行う予定であり、しかも死を覚悟してのことだったといえます。 また、自転車を使って隣町の駐在所まで走り、住民が助けを求めるまでに必要な時間を把握しておくなど、犯行に向けて周到に準備をしていたのです。 事件前日の夕方に都井は電柱に登って送電線を切断し、貝尾集落を全面的に停電させます。当時停電は珍しいことではなかったため、集落の人は特に不審に思わなかったようです。

残された遺書

残された遺書は2種類あります。事前に書いておいたものと、犯行後追加で書いたものです。追加で書いたということは、犯行が当初の予定と異なり、犯行のうちに何かしらの吐露したい気持ちが生じたのでしょうか。 犯行後に書いた遺書によると「殺すべき相手を殺さず、殺さなくていい者を殺してしまった。」「病気4年間の社会の冷胆、圧迫に泣いた。」「今日決行を思いついたのは、以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから。」と記されています。 また、祖母と姉に対する申し訳ない気持ちもつづられています。

都井睦雄の姉はうどん屋を営んでいた

都井睦雄の姉は1934年に結婚して別の集落に転居します。親のいない2人姉弟であり、2人はかなり仲が良かったものと思われます。都井睦雄の姉はうどん屋を経営していたとされています。 ただし姉はすでに死亡しており、現在のそのうどん屋が存在しているかどうかは定かではありません。仮に存在しているとしても、事件に関与している人はいないでしょう。

津山事件の当日

犯行があったのは日付が変わった5月21日の未明です。その前日寺井ゆり子さんが貝尾集落に里帰りをしていたのです。 それ以前からぼんやりと犯行を考えていたはずですが、寺井ゆり子さんの里帰りが都井を急速に犯行へと決断させたと考えられます。事件の当日の都井睦雄について見ていきましょう。

事件で使われた凶器

都井が事件で使用した凶器は、猟銃に日本刀、匕首そして斧であったとされています。 狩猟免許を取得していた都井はブローニング猟銃を持っていたのですが、事件前のとある事件で警察に家宅捜索された際、これら凶器を押収され狩猟免許も取り消されてしまいます。 しかし都井は再び凶器をかき集め犯行に至ります。この行動を見る限り、かなり恨みを募らせていたと考えられます。

計11家に押し入った

都井は最初に自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させます。その後家を出て隣の家に侵入し、女性と子供3人を殺害します。 そこからは次々に民家に侵入して、約1時間半かけて計30人(即死は28人、2人は重傷後死亡)を殺害します。その過程で「お前はわしの悪口を言わなかったから堪えてやる。」と言って見逃がされた住民もいたようです。 遺書にも書かれていたように、標的とそうでないものを都井の中では区別していたようです。ライトを頭と胸に準備していたのもそのためでしょう。

犯行後は自殺

犯行を終えた都井は集落を後にし、午前3時頃に隣接する楢井集落に立ち寄ります。そこで顔見知りの小学5年生の家に押し入り、鉛筆と紙を入手します。 その後その家から3.5キロほど離れた山の中で都井は自殺します。時刻は午前5時頃猟銃で自らの心臓を打ち抜いたものと推定されています。 現場には都井の遺書が残されていましたが、自宅からも遺書が見つかっており犯行後の自殺は計画的なものであったと考えられます。

事件のあった貝尾集落の現在

集落の3分の1にあたる30人もの人が一晩で殺されたのですから、貝尾集落は相当なショックであったことは間違いありません。その後の集落は復興したのでしょうか。 一方事件の当事者である寺井ゆり子さんは2010年頃までは生存が確認されており、その頃ある作家のインタビューを受けています。事件のあった貝尾集落のその後について見てみます。

現在は限界集落化が進んでいる

事件があった貝尾集落は2015年の国勢調査では、12世帯33人(男性16人・女性17人)となっています。前回2010年の国勢調査のときから若干減っており、限界集落化が進んでいるもののなんとか維持しているといった状況です。 2015年には都井睦雄の生家も取り壊されてしまいました。貝尾集落には事件当時から居住している人は現在一人もいないようです。 現在の集落の人たちからすると、貝尾集落について興味本位で語られるのはいい気分がしないかもしれません。

事件の生き残りである寺井ゆり子さんへのインタビュー

2011年に発表された「津山三十人殺し最後の真相」という本で、作者の石川清氏が寺井ゆり子さんにインタビューしています。 都井の遺書にも書かれていたように、寺井ゆり子さんは当時都井と関係があったとされている人物ですが、事件では殺害されず逃げ延びました。 インタビューでは寺井ゆり子さんは事件の原因者として差別的な扱いを受けながらも、結婚相手との間に子供をもうけしっかりと生活を送っているとのことです。

まとめ

「津山事件」は、80年経った今でもなお人々の関心を引きつけていますが、そのわけは犯行動機の部分にあるといってもよいでしょう。病気への差別の要素もある以上、動機に関しては都井に対して同情すべき余地も残されています。 人間関係がもつれ、都井のようになってしまう危険性は誰もが持っているものです。「津山事件」は社会の中で生きていく人間の難しさを感じさせる事件であるといえます。

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