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東峰十字路事件は中核派と警察の成田空港建設を巡った闘争。三里塚闘争へのつながりとは?

もくじ

1分でわかる東峰十字路事件

  • 東峰十字路事件は成田空港建設を巡る闘争
  • 警察官3名が死亡し80名以上の負傷者が出た
  • 反対派が50名以上逮捕されるも実刑判決はなし

東峰十字路事件の概要

東峰十字路事件とは成田空港を建設するときに起こった地元農民や学生などの反対派と、政府側である警察組織の衝突事件です。警察官と相対した反対派は多数の殺傷能力のある凶器を持っており、そのため負傷者だけでなく数名の死者も出ています。

成田空港建設予定地への行政代執行で住民と警察の間で起きた衝突

成田空港建設予定地への行政代執行で建設に反対する人や一般の住民と、警察の間で衝突が起きました。 第一次代執行時には多数の一般市民が野次馬として詰めかけた上に先導されて投石などを行ったため、当初第二次代執行時には一般市民も近づけないように計画されていました。しかしあまりに計画の規模が大きすぎたために警視庁の理解を得ることがかなわず、実行段階では規模が3分の2程度まで縮小されました。 もともとの計画より少なくはなりましたが、当日は5000人以上の警察官が動員されました。

警察官らが反対派の襲撃に遭い3名が死亡し80人以上が負傷を負った

東峰十字路事件は警察官3名が死亡し、負傷者も80名以上が出るという痛ましい事件でした。 もともと地元住民は反対派とまではいかずとも空港建設をよく思っておらず、反対派に協力的でした。そのため警察官にとっては味方のいない状況であり、反対派だけでなく一般市民をも警戒していました。 しかし反対派であるゲリラ部隊は、警察無線などを傍受して機動隊の動きなどを把握していました。そのため動きを読まれていた機動隊はゲリラたちに翻弄され、3名もの警察官が過激派の手によって殺害されてしまいました。

鉄パイプや火炎瓶が凶器として用いられた

ゲリラ集団は、鉄パイプや火炎瓶を凶器として使用していました。特に火炎瓶が直接当たった警察官は大きな火傷を負いました。 火炎瓶の恐ろしさは火傷だけではありませんでした。体中についた火を何とか消すことができても、ひどい火傷で倒れこみ無防備になってしまったところを襲われてしまうことです。 倒れて動けなくなった警察官は防護服や手錠などを奪われ、鉄パイプや角材などで抵抗もできないまま打ち据えられてしまいました。

東峰十字路事件の犯人逮捕と裁判

たくさんのゲリラや警察官が入り乱れていた東峰十字路事件の犯人は、逮捕されたのでしょうか。この事件は目の前で犯行が行われたにもかかわらず、犯人を特定することの難しい事件でした。犯人の逮捕とその後の裁判の様子を順を追って解説していきます。

犯人の特定は困難を極めた

警察官とゲリラ部隊をあわせて6000人以上が入り乱れて闘争していたために、犯人を特定することは非常に困難でした。 また人数の多さだけでなく、事件の捜査をすぐに行うことができなかったのも犯人を特定することが困難であった理由の一つです。さらに地元住民のほとんどが反対派であったために地域住民の協力を得られず、機動隊に守られなくては捜査することすらできませんでした。 目撃証言や物証もほとんどなく、警察の捜査は行き詰りました。

50名を超える反対派の人々が一斉に逮捕された

事件後に警察官を殺害したとして、闘争に加わっていた中でも疑わしい人物を50名以上も一斉に逮捕しました。 しかし地域住民は協力的ではなく、殺害現場を見分できるまでに事件から1週間も要したうえに目撃証言などはほとんどありませんでした。 また物的も証拠も乏しかったために、犯人を特定することは困難を極めました。しかしもともと反対派に同情的であった世間は、この事件以降地元住民に対する風当たりを強くしました。

その後の裁判の結果、ほぼ全ての逮捕者が執行猶予付きの懲役刑とされた

その後の裁判の結果、ほぼ全ての逮捕者が執行猶予付きの懲役刑という判決が下されました。 逮捕者は多くても実刑判決を下された人はいませんでした。 逮捕者の罪状は公務執行妨害罪と凶器準備集合罪などでした。警察官が死亡した件については目撃証言や物的証拠がほとんどなく、犯人を特定するには至らなかったため傷害致死罪は適用されませんでした。被告の自白だけでは信憑性に欠けるというのが大きな理由です。

当時の中核派の主張や活動内容

当時の中核派の主張や活動内容は、集会やデモ活動が主なものでした。また多数のゲリラ事件やテロ事件なども起こしています。中核派とは革共同系の日本の新左翼党派の一つです。いわゆる暴力団や過激派などと呼ばれる組織です。 中核派の構成員は1万人はいるといわれていましたが、その内実は不明であり公には活動していない非公然といわれる活動家も多数存在していました。 しかしその後に起きた大闘争で多数の逮捕者を出したことなどから、組織の規模は大きく縮小され大掛かりな闘争やテロはなくなりました。

東峰十字路事件に対する世論

東峰十字路事件が起きたことによってマスコミや世論などは、それまでとは全く違ってきました。 もともとマスコミや世論は地元住民に同情的でした。直接支援をすることはなくても、反対派の農民らに共感できる部分は多くあったためです。マスコミなどは特に顕著に同情的な記事を書き連ね、転移に応じた地権者を裏切り者であるかのように表現することもありました。 しかし東峰十字路事件で3名もの警察官が死亡したことにより、マスコミや世論は反対派を批判するようになりました。

東峰十字路事件から三里塚闘争へ

成田空港建設を巡り勃発した東峰十字路事件は、三里塚闘争へと発展していきました。 もともと地元からの反発が非常に強く武力衝突まで起こしていた案件であったために、空港完成後もゲリラ事件が頻発しており闘争はなかなかな収まることはありませんでした。 長く続いた三里塚闘争は多くの犠牲者を出し、悲惨な結果をもたらしました。その後この闘争をきっかけにして公共事業のあり方が大きく変わり、政府側は武力に頼り事業を強引に推し進めるということが無くなりました。

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