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東大紛争の真相。紛争終息のきっかけである東大安田講堂事件との関連性とは?

もくじ

1分でわかる東大紛争

東大紛争とは

  • 東京大学医学部における紛争事件
  • 医学部学生らが東大安田講堂を占拠
  • 警察機動隊が制圧

「東大紛争」とは、東京大学において1968年~1969年の間に起きた学生と当局側の紛争事件であり、「東大安田講堂事件」を含め767人が逮捕され616人が起訴されています。 紛争の発端は医学部学生・研修医らが研修医の待遇改善を求めたことでしたが、大学側が強硬な姿勢を崩さなかったことから、安田講堂を占拠する事態に陥り警察機動隊がそれを制圧しました。

東大紛争の概要

(画像:Unsplash

「東大紛争」は1968年に勃発した、東京大学医学部学生を中心に結成された東大闘争全学共闘会議(東大全教闘)と大学側の紛争事件であり1969年に収束します。 最大のヤマ場となった「東大安田講堂事件」では機動隊が制圧に乗り出し、逮捕者や多数の負傷者を出してしまいますが、どうしてこのような事態が引き起こされたのかを解説します。

1968年1969年に東京大学で起きた紛争

「東大紛争」は1968年~1969年にかけて東京大学で勃発した学生と当局側における紛争事件であり、1969年に機動隊が出動して学生を制圧した「東大安田講堂事件」を契機に終息します。 1960年後期、全国の大学では古い体質を改革すべく学生を中心とした紛争が各地で勃発しており、日本大学におけるヤミ給与事件はその代表的なものでした。 また、全国の大学医学部ではインターン制度廃止や研修医の待遇改善運動が行われており、東京大学はその中心的拠点校としての役割を果たしていたのです。

大学運営や医学部などについて争われた

東京大学医学部では登録医制度の導入や研修内容について大学側と医学部学生らが激しく対立しており、1968年1月には無期限ストライキに突入していました。 さらに、学生側が医局員を軟禁して交渉にあたった「春美事件」では、大学側に処分の誤認があったにも関わらず撤回しなかったため対立は激化します。 7月には安田講堂が占拠され、新左翼セクトが加わり結成された東大全教闘から「7項目要求」が提出されましたが、到底受け入れられるものではありませんでした。

警察の機動隊も出動する事態に

「東大紛争」の舞台となる安田講堂は1968年3月、6月、7月〜1月の3回にわたり学生側に占拠されますが、そのうち機動隊が出動したのは2回です。 1度目は1968年6月、大河内一男東大総長が状況を打開するため機動隊に出動を要請しますが、さらなる反発を生み出し7月には安田講堂はバリケード封鎖されます。 2度目は1969年1月、東大全共闘との交渉が不可能と判断した大学側が機動隊に出動要請し封鎖解除に成功した「東大安田講堂事件」です。

東大安田講堂事件を機に終息へ向かった

(画像:Unsplash

「東大紛争」は1968年7月に安田講堂を占拠した学生に新左翼セクトが加わり東大全共闘が結成されると、さらに激しさを増していき糸口の見えない攻防が続きました。 しかし、機動隊が封鎖解除を強行した「東大安田講堂事件」において、ようやく東大紛争は終息に向かいますが、この攻防戦はどのよう展開されたのかについて解説します。

死者は出なかったものの多数の負傷者を出した

「東大紛争」の最大のヤマ場は、1968年1月18日〜19日にかけて機動隊が安田講堂に突入して、激しい攻防戦が繰り広げられた「東大安田講堂事件」です。 東大全共闘約2,000人に対して警察機動隊は8,500人で制圧に向かいますが、学生たちの火炎瓶や投石などによる抵抗は凄まじく予想をはるかに超える苦戦を強いられます。 その結果、双方に死者は出なかったものの機動隊の負傷者は710人(うち重傷者31人)、東大全共闘学生側の負傷者は47人(うち重傷者1人)に上りました。

最終的には機動隊が制圧した

「東大紛争」の終結に向け、加藤一郎総長代行は学生側とさまざまな折衝を図り、1969年1月10日には「東大七学部学生集会」を開催しストライキの収束に成功します。 しかし、孤立した東大全共闘は依然として安田講堂に立てこもっており、これ以上の説得は無理だと判断した大学側は16日に警察機動隊に出動要請を行うのです。 こうして、東大安田講堂攻防戦は18日7時から始まり、翌19日まで激しい攻防が続きますが17時46分に東大全共闘90人が検挙されようやく制圧されました。

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1分でわかる東大紛争

  • 東京大学医学部における紛争事件
  • 医学部学生らが東大安田講堂を占拠
  • 警察機動隊が制圧

「東大紛争」とは、東京大学において1968年~1969年の間に起きた学生と当局側の紛争事件であり、「東大安田講堂事件」を含め767人が逮捕され616人が起訴されています。 紛争の発端は医学部学生・研修医らが研修医の待遇改善を求めたことでしたが、大学側が強硬な姿勢を崩さなかったことから、安田講堂を占拠する事態に陥り警察機動隊がそれを制圧しました。

東大紛争の概要

「東大紛争」は1968年に勃発した、東京大学医学部学生を中心に結成された東大闘争全学共闘会議(東大全教闘)と大学側の紛争事件であり1969年に収束します。 最大のヤマ場となった「東大安田講堂事件」では機動隊が制圧に乗り出し、逮捕者や多数の負傷者を出してしまいますが、どうしてこのような事態が引き起こされたのかを解説します。

1968年1969年に東京大学で起きた紛争

「東大紛争」は1968年~1969年にかけて東京大学で勃発した学生と当局側における紛争事件であり、1969年に機動隊が出動して学生を制圧した「東大安田講堂事件」を契機に終息します。 1960年後期、全国の大学では古い体質を改革すべく学生を中心とした紛争が各地で勃発しており、日本大学におけるヤミ給与事件はその代表的なものでした。 また、全国の大学医学部ではインターン制度廃止や研修医の待遇改善運動が行われており、東京大学はその中心的拠点校としての役割を果たしていたのです。

大学運営や医学部などについて争われた

東京大学医学部では登録医制度の導入や研修内容について大学側と医学部学生らが激しく対立しており、1968年1月には無期限ストライキに突入していました。 さらに、学生側が医局員を軟禁して交渉にあたった「春美事件」では、大学側に処分の誤認があったにも関わらず撤回しなかったため対立は激化します。 7月には安田講堂が占拠され、新左翼セクトが加わり結成された東大全教闘から「7項目要求」が提出されましたが、到底受け入れられるものではありませんでした。

警察の機動隊も出動する事態に

「東大紛争」の舞台となる安田講堂は1968年3月、6月、7月〜1月の3回にわたり学生側に占拠されますが、そのうち機動隊が出動したのは2回です。 1度目は1968年6月、大河内一男東大総長が状況を打開するため機動隊に出動を要請しますが、さらなる反発を生み出し7月には安田講堂はバリケード封鎖されます。 2度目は1969年1月、東大全共闘との交渉が不可能と判断した大学側が機動隊に出動要請し封鎖解除に成功した「東大安田講堂事件」です。

東大安田講堂事件を機に終息へ向かった

「東大紛争」は1968年7月に安田講堂を占拠した学生に新左翼セクトが加わり東大全共闘が結成されると、さらに激しさを増していき糸口の見えない攻防が続きました。 しかし、機動隊が封鎖解除を強行した「東大安田講堂事件」において、ようやく東大紛争は終息に向かいますが、この攻防戦はどのよう展開されたのかについて解説します。

死者は出なかったものの多数の負傷者を出した

「東大紛争」の最大のヤマ場は、1968年1月18日〜19日にかけて機動隊が安田講堂に突入して、激しい攻防戦が繰り広げられた「東大安田講堂事件」です。 東大全共闘約2,000人に対して警察機動隊は8,500人で制圧に向かいますが、学生たちの火炎瓶や投石などによる抵抗は凄まじく予想をはるかに超える苦戦を強いられます。 その結果、双方に死者は出なかったものの機動隊の負傷者は710人(うち重傷者31人)、東大全共闘学生側の負傷者は47人(うち重傷者1人)に上りました。

最終的には機動隊が制圧した

「東大紛争」の終結に向け、加藤一郎総長代行は学生側とさまざまな折衝を図り、1969年1月10日には「東大七学部学生集会」を開催しストライキの収束に成功します。 しかし、孤立した東大全共闘は依然として安田講堂に立てこもっており、これ以上の説得は無理だと判断した大学側は16日に警察機動隊に出動要請を行うのです。 こうして、東大安田講堂攻防戦は18日7時から始まり、翌19日まで激しい攻防が続きますが17時46分に東大全共闘90人が検挙されようやく制圧されました。

東大紛争の原因

「東大紛争」は、1968年から1969年の1年間にわたり大学側と学生たちの間で激しい攻防が繰り広げられ、遂には機動隊が出動する事態に陥るのです。 機動隊と東大全共闘の最後の攻防となった「東大安田講堂事件」では多くの負傷者を出してしまいますが、これだけの大規模な大学紛争がなぜ勃発してしまったのかを解説します。

60年代後半の研修医待遇改善運動が発端

1960年代後半、全国の大学では古い体質をもった大学側とそれに反発する学生の間で、激しい紛争が繰り広げられており社会問題にもなっています。 全国の大学医学部においては、GHQから義務付けられたインターン制度に反発する学生らが紛争を引き起こしており、東大医学部はその象徴的な存在でした。 インターン制度は現代でも多くの大学病院で導入されていますが、当時は研修制度も不十分で単なるタダ働きであったため、研修医待遇改善運動につながったのです。

学生と大学側の衝突を回避できなかった

東大医学部では医学部学生たちが研修医待遇改善を求めて大学側に交渉を求めていましたが、一向に応じようとしなかったため1968年1月に無期限ストライキに入り紛争状態に陥ります。 2月には医学部学生らが医局員を軟禁する春美事件が勃発し17人が処分されますが、そのうち1名が誤認であったにも関わらず処分撤回に応じませんでした。 こういった大学側の強硬な姿勢が紛争を激化させてしまい、さらには新左翼セクトが加わったことで学生と大学側の衝突を避けることはできなくなります。

東大紛争による影響

「東大紛争」は1969年1月の「東大安田講堂事件」で終結に向かいますが、この攻防戦では多くの負傷者を出しただけでなく、講堂内にあった貴重な文献などが燃やされてしまうなどの被害を生み出しました。 さらには、入学試験や卒業式の中止などの事態に陥りますが、「東大紛争」による影響がどれだけ甚大なものだったかについて解説します。

入学試験の中止

「東大紛争」は1969年1月まで続いたことから、1969年度入学試験は中止となってしまい、東大を目指していた受験生は浪人するか、別の大学を受験するかの決断に迫られました。 1968年12月29日の時点で大学側は翌年1月15日までに紛争が終結できれば入試を行う意向を固めていましたが、先に政府が入学中止を発表します。 そのため、現役での大学進学を目指す受験生は、京都大学や一橋大学に志望校を変更して入試に挑むことになりました。

卒業式の中止

「東大紛争」が実質的に始まったのは1968年1月でしたが、医局員軟禁にかかる処分問題が起こると学生側は3月12日に医学部総合中央館を27日には安田講堂を占拠してしまいます。 そのため、この年の卒業式は3月28日日に予定されていましたが、安田講堂が占拠してしまったことで中止せざるを得なくなりました。 東大の卒業式が中止となったのは、1968年と東日本大震災の影響で中止が余儀なくされた2011年の2回だけです。

多数の逮捕者

「東大紛争」での逮捕者は767人にも上り、そのうち616人が起訴され一審では133人に実刑判決、約400人が執行猶予付き有罪判決、無罪判決は12人でした。 このうち「東大安田講堂事件」では633人が検挙されていますが、東大の学生はわずか38人であり明治大学、日本大学、中央大学、法政大学から応援に駆け付けていた学生が多くいました。 逮捕者の中には、獄中で勉強に励んで出所後に医師免許を取得し医師としての職責を全うした人もいます。

まとめ

「東大紛争」はインターン制度などに反発する東大医学部学生らが中心となって1968年に勃発した紛争事件ですが、1969年1月の「東大安田講堂事件」を機に収束に向かいます。 今の東大からは想像できない事件であり、暴力による学生運動は決して許されるものではありませんが、学生たちが本気で日本の将来について考えていたことは紛れもない事実です。

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