帝銀事件とは
「帝銀事件」という事件をご存知でしょうか。 一時期世間を騒がせた大事件であり、一応の解決がなされたとされるものの、未だ多くの謎が残っているという事件です。この記事では、「帝銀事件」がどういった事件であったのか、その真相について紹介していきます。
都の職員に扮した男が帝国銀行にて行員や用務員に青酸カリを飲ませた
「帝銀事件」では、都の職員を語る男が帝国銀行を訪れ、行員や用務員に青酸カリを飲ませたことが明らかになっています。この時、犯人とされる男は、「近くで赤痢が起こったからその予防薬としてこの薬を飲むように。」と指示して行員たちに薬を飲ませました。 自分が飲んでみせるから、この通りに飲んでほしいというようなことを言って、信憑性を持たせるという巧妙な手口を使ったところから、犯人が実に冷静な犯行の計画を立てていたことが窺えます。
都の職員に扮した男は現金と小切手を盗み逃走
都の職員に扮した犯人は、現金16万円と小切手を盗みその場から逃走します。小切手は翌日に別の銀行で現金に換えられていましたが、それに気づくことができたのは事件から2日後とだいぶ遅れてからのことでした。 捜査が後手に回ってしまった原因は、被害者の数が多かったことや犯人の手口が巧妙であったことなどさまざまなことが考えられます。いずれにしろ、ここで犯人は上手く逃げおおせてしまったというわけです。
使用された薬物には諸説ある
「帝銀事件」で使用された薬物ですが、青酸カリではないという説もあります。青酸カリに近いものなのか、全く別の薬物なのか諸説あるとされています。 被害者となった行員たちは使用された薬物の後に何のためか第二薬を飲まされています。また、青酸カリの薬物としての効力が本当に使用された薬物の効力と一致するものであるのかも定かではないのです。そのため本当に青酸カリなのかどうか判断することができませんでした。
帝銀事件の捜査
「帝銀事件」の捜査は難航を極めますが、手掛かりが皆無だったわけではありません。 警察も手をこまねいていたということはなく、わずかな糸口から捜査を進めていきます。ここでは、当時どのような捜査がおこなわれていたのかを紹介します。「帝銀事件」の真相に迫るための、重要なポイントです。
青酸カリの扱いに慣れている731部隊の捜査
青酸カリが注目されたということで槍玉に上がったのが731部隊でした。731部隊とは、第二次世界大戦で薬物を扱っていた部隊です。731部隊であれば青酸カリの扱いにも慣れているだろう、という考えのもとに捜査が進められていました。 その流れで旧陸軍の面々にも捜査の手は及んでいましたが、それはGHQによって打ち切られることになります。こういった流れにより、731部隊に対する捜査は終幕を迎えることとなるため、全ての真偽は明らかになっていません。
名刺を頼りにした捜査
「帝銀事件」では、名刺も捜査で重要視されました。犯人は行員に名刺を見せてから毒物を飲ませていたからです。名刺を頼りにした捜査は地道なもので、あまり日の当たるものではありませんでしたが、犯人逮捕はこの捜査の努力の賜物なのです。 別事件に関わっていた人物と名刺交換をしていたはずの人物が、その名刺を持っていなかったうえにアリバイがなかったことから、その人物が「帝銀事件」の犯人であると警察は判断し逮捕に至りました。
犯人とされる平沢貞通
「帝銀事件」の犯人は、平沢貞通という人物であるとされています。 平沢貞道は初め自分の無罪を主張していましたが、途中で自白を始めました。厳しすぎる取り調べによるものだったのか、ハッキリとしたことはわかっていませんが、彼はその後さらに主張を変え、再び無実を主張するようになりました。
死刑判決が出される
平沢貞道は自身の無実を主張していましたが、聞き入れてもらうことは叶わず、1950年(昭和25年)7月24日に東京地裁で死刑判決が出されました。その後、1951年(昭和26年)に高裁で控訴棄却されました。 そして1955年(昭和30年)5月7日、平沢貞道は最高裁で死刑判決が確定しました。以後、彼は死刑囚としての生を受け入れるしかなくなってしまったのです。
平沢死刑囚の死刑は執行されず95歳で病死
平沢貞道の死刑は執行されませんでした。彼は獄中で肺炎を患い、八王子医療刑務所において95歳で病死したのです。 死刑執行を待つ間に、平沢貞道は獄中で三度も自殺を図っています。どれも未遂に終わっています。また、もともと画家だったということもあり、長い獄中生活で絵を描き続けていました。差し入れとして受け取っていた画材を使って絵を描いていたようです。
平沢貞通は冤罪の可能性もある
平沢貞通は冤罪ではないかという可能性もあります。現に、彼は自分の無実を主張していました。 加えて、平沢貞通の遺族は彼の名誉を回復するために裁判を起こしています。一度は養子である武彦氏が亡くなってしまったため再審請求は終了となってしまいましたが、2015年には再び平沢貞通の遺族が東京地裁に第20次再審請求を申し立てました。平沢貞通を犯人だと決めつけるには、証拠となる決め手もそれほど確かではなく、曖昧な点も少なくはないのです。
帝銀事件の真犯人は別にいたのか?
関係者が「真犯人は元陸軍関係者である」といった旨の発言をしたことや、薬物に関する専門的な知識を持たない平沢貞通に犯行は不可能であるといった発言があったことなどから、薬物の知識を持つ人物が真犯人だという説もあります。 また、「帝銀事件」から6年後にも青酸を使った大量殺人事件が起こったため、その犯人も疑われましたが、服毒自殺してしまったため結局捜査は進展しませんでした。
帝国銀行事件と同じ手口の未遂事件
ここでは、「帝銀事件」と同じ手口でおこなわれた未遂事件について紹介します。 「帝銀事件」は大きな被害を出してしまいましたが、ここで紹介する2つの事件は未遂に終わりました。どちらも同じ犯人であるという見方が非常に強い事件です。「帝銀事件」を語る上では、外せない事件であると言えます。
安田銀行荏原支店
1947年(昭和22年)10月14日、安田銀行荏原支店でも「帝銀事件」と同じ手口で犯行がおこなわれました。犯人は「帝銀事件」同様に名刺を出し、赤痢が発生したため消毒をするので薬を飲む必要があるといった旨を説明します。 この時、行員は近くの交番に説明を求めに行きました。交番から巡査が離れた隙を狙って犯人は「帝銀事件」のように行員たちに薬を飲ませます。しかし、ここでは行員たちの中に死者は出ませんでした。
三菱銀行中井支店
1948年(昭和23年)1月19日には、三菱銀行中井支店でも同じ手口の犯行がおこなわれました。犯人はやはり名刺を渡して、赤痢の発生を理由に行員に薬を飲ませようとします。 しかし、支店長がこれに疑いを持ったため、犯人に対して「そのような理由は認められない」といった旨を伝え拒否しました。これにより、犯人は小為替に液体を振りかけるだけで立ち去って行きました。なお、この時渡した名刺は偽物であったことが明らかになっています。
真相は闇に葬られたのか?
「帝銀事件」は当時世間を恐怖に陥れた恐るべき大事件でした。その恐ろしさは今もなお変わらないものでしょう。 このような事件は、いつまた起こるかわかりません。すぐそこに脅威があるのだと思いながら暮らしたくはないものです。凶悪な事件が決して繰り返されることがないよう願うばかりです。