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大洋デパート火災は大勢の犠牲者が出た火災事件。当日の状況や現在の跡地の様子とは。

もくじ

1分でわかる大洋デパート火災

  • 1973年11月29日、営業中の大洋デパートで火事が発生
  • この火災により103名が死亡、124名が重軽傷を負った
  • この火災事故が消防法の改正に大きな影響を与える

1973年11月29日13時15分に、熊本県熊本市においてデパート火災史上最悪の事故が起こりました。それが「大洋デパート火災」です。数多くの死傷者を出し、その後の建築法や消防法の改正に多大な影響を与えました。 今回は地元・熊本ではいまだ語り継がれる「大洋デパート火災」について、解説します。

大洋デパート火災の概要

1973年に起こった日本のデパート火災史上最悪の「大洋デパート火災」では、従業員だけでなく数多くの買い物客が犠牲になりました。死者103名・重軽傷者124名・計227名が、この火災に巻き込まれています。 ここでは「大洋デパート火災」の概要について詳述します。

1973年に起きた史上最悪のデパート火災

「大洋デパート火災」は、1973年11月29日13時15分に発生しました。 大洋デパートは鉄筋コンクリート造で地下1階・地上13階建て(一部9階建て)となっており、火災発生当時は買い物客で賑わっていました。 その時期の大洋デパートは、隣接する櫻井総本店ビルの3~8階を増築並びに改装するために工事を行っていました。工事のために組んだ足場が、その後25名の命を救うことになります。

103人が死亡、出火原因は不明

「大洋デパート火災」の出火場所は2階と3階をつなぐ、階段の踊り場といわれています。 置いてあった段ボールから出火されたと予想されているのです。しかし現場検証では火元の特定には至っていません。 「大洋デパート火災」による死亡者は従業員・買い物客・工事関係者を合わせて103名に上ります。また、124名が重軽傷を負いました。一方で92名は救出されています。

当時の経営陣達は最終的に罪に問われなかった

「大洋デパート火災」の発生により当時の社長と常務取締役・取締役人事部長・営業部署三課長・防火責任者だった営繕課員の5名が1974年に逮捕されました。業務上過失致死罪に問われ後に起訴されています。 第一審公判が進む中で社長と常務が亡くなったため、残る3名について審理されましたが無罪判決が下っています。検察が控訴したことで第二審が開かれ、逆転有罪判決が言い渡されました。 しかし弁護側の上告によって開かれた最高裁において、5名の裁判官が全員一致で無罪判決を下したのです。そのため、大洋デパートの関係者が罪に問われることはありませんでした。

大洋デパート火災当日の様子

1973年11月29日に起こった「大洋デパート火災」はなぜここまで被害が大きくなったのでしょうか。 「大洋デパート火災」が起こった時の状況や防火対策、従業員による消火活動、買い物客の誘導などの対応などについて見ていきましょう。

段ボールから発火、店員らの消火は失敗した

「大洋デパート火災」の発生に気づいたのはパート店員でした。すぐに店員に報告し4~5名が段ボールが燃えていた2~3階の階段踊り場に向かい消火活動を始めます。 しかし消火ホースの水圧が足りず、粉末消火器は薬剤がうまく放出されませんでした。そのため店員がバケツに水を汲み1階から20杯ほど運んで消火にあたりましたが、鎮火には至りません。 その後に階段室の防火シャッターを下ろしたものの、シャッター前に積み上げられていた座布団に引火します。店員たちは消火に失敗したのです。

防火設備が工事中だった

「大洋デパート火災」当時、隣接する櫻井総本店ビルで増築・改装工事が行われていたことは前述しました。 その際に防火設備の工事も行っており、スプリンクラーが作動しない状況でした。 そうした状況の中で3階の寝具売り場にあった布団に引火し、火勢が強くなったことも被害拡大の要因となっています。

避難開始後の停電により被害が拡大

「大洋デパート火災」が発生し、授業員は買い物客を避難させ始めます。 しかし避難開始からほどなく、店内が停電しました。このとき既に3階の寝具売り場にあった布団などの商品に引火しており、店内には黒い煤(すす)が漂っていたのです。 視界が悪くなった店内での避難誘導は困難を極めました。

大洋デパート火災の前後

「大洋デパート火災」が発生した当時、大洋デパートは熊本県熊本市で一番の百貨店と言われていました。そして火災事故の後も大洋デパートは再建を目指し、施設は長期間利用されることになります。 ここでは火災事故発生前後の大洋デパートについて詳述します。

1952年創業、鶴屋百貨店をも上回る百貨店だった

大洋デパートは1952年に創業しており鶴屋百貨店を上回る規模で、当時は市内随一といわれていました。 そのため熊本市民が市街地に出かける際には、「大洋に行く」と表現していたほどです。 かつては施設内に「大洋文化ホール」を設置し、熊本市の文化活動の中心だった時期もあります。しかし「大洋デパート火災」当時には売り場拡張のためになくなっていました。

1975年に防火設備を完備し、再オープンしたが翌年に倒産

1973年に「大洋デパート火災」の発生した後、株式会社大洋は再建に乗り出します。 そして防火設備を完備したビルを立て直し、1975年11月に「TAIYO」として再オープンを果たしました。 この時点では防火設備の充実が最優先課題だったため、地下1階・地上8階と規模を縮小しています。再オープン初日こそ12万人の動員がありましたが火災後のダメージをぬぐうことはできず、翌年には株式会社大洋が倒産・廃業しました。

大洋デパート跡地の現在

大洋デパートを経営していた株式会社大洋が倒産した後、建設されたビルは所有者を変えて使われました。所有者も何度も変わっています。しかし現在は、再建したビルは残っていません。 ここでは再建後の大洋デパートがその後どうなったかについて詳述します。

1979年に熊本城屋としてリニューアルものちに老朽化で解体

1976年に株式会社大洋が倒産・廃業した後、1979年になってその跡地に「熊本城屋」が開業します。大洋デパートは、百貨店とスーパーの複合商業施設である熊本城屋に生まれ変わったのです。 その後熊本城屋がダイエー傘下になったことから、1995年から「ダイエー熊本下通店」に名称を変更し営業を続けます。 しかし建物が老朽化したため、2014年にビルは解体されました。

大洋デパート跡地に「COCOSA」が誕生

大洋デパート跡地には、「COCOSA」という複合商業施設が建設されました。 そして2017年4月27日より、営業を開始しています。 当初はダイエーも再出店する計画でしたがイオングループの子会社になっていたため、スーパー部門はマックスバリュ九州として営業を開始しました。

建築基準法や消防法が改正された

「大洋デパート火災」が発生した前年である1972年に、千日デパート火災が起こっていました。この2つのデパート火災を検証した結果、両方の建物が当時の建築基準法では既存不適格だったことが明らかとなります。 法律には「遡及適用の禁止」という原則があります。そのため改定された建築基準法や消防法の改正前の建物には、新しい法律は適用されないはずでした。 しかし「大洋デパート火災」を受けて改正された1974年に改正された消防法では、公共性の高い建造物は現在の基準に適合させることを義務付けました。

心霊現象の噂

1975年に再建された大洋デパートでは、様々な心霊現象が起こったと噂になりました。それはダイエー熊本下通店のオープン後も続いたといわれています。 「ダイエーの正面入り口のガラス戸越しに狂乱状態の人影が見えた」「背後に誰もいない下りエスカレーターで後ろから押された」など、いろいろな話が残っています。 この建物を解体する際に慰霊祭が行われたのも、こうした心霊現象が起こったからかもしれません。

大洋デパート火災で法改正のきっかけにも

大洋デパート火災はデパート火災としては史上最悪の犠牲者を出した火災事故となりました。この火災事故をきっかけに法改正が行われ、百貨店をはじめとする商業ビルに停電時の非常照明が整備されるようになり避難経路の確保も義務化されています。 しかし従業員の防火・防災意識が低ければ、いざという時に犠牲者が出るリスクは変わりません。商業施設における社員教育にも、力を注いでほしいと願わずにいられません。

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