1分でわかる新宿西口バス放火事件
- 1980年8月19日に新宿駅西口ターミナルで起こったバス放火事件
- 新宿西口バス放火事件により6名が死亡、14名が重軽傷を負う
- 被害者の1人が手記を出版して話題となり映画化された
新宿西口バス放火事件の概要

新宿西口バス放火事件は1980年8月19日の21時過ぎ、新宿西口バスターミナル20番乗り場で発生しました。当時発車待ちのために停車していたバスに、火とガソリンが投げ込まれたことで爆発・炎上した事件です。 ここでは新宿西口バス放火事件の概要について、詳述します。
建設作業員の丸山博文が新宿西口のバスにガソリンを撒き放火
1980年8月19日の21時過ぎに建設作業員の丸山博文は、新宿西口バスターミナル20番乗り場に停車していたバスの後部ドアに近づきました。そして火のついた新聞と一緒に、ガソリンの入ったバケツを投げ込みます。 バーンという爆発音が響いた瞬間、バスの車内は炎に包まれました。その火柱は天井を突き刺す勢いで、車内にいた乗客は逃げ惑います。 通報を受けた消防車がすぐに到着しましたが、火を消し止めるのは容易ではなかったようです。
6人が死亡し14人が重症を負った
炎を消し止めた車内を検証した消防職員は、すでに炭化した3体の遺体を発見しました。それ以外の被害者はすぐに病院に搬送されましたが後に3人が亡くなり、死者は6人となっています。 また車内にいた14人が、重軽傷を負いました。最も被害が重かった女性は、全身の88%に火傷を負っています。 また新宿西口バス放火事件の中には自分は生き残ったものの、夫を亡くした女性もいました。
丸山博文は現行犯で逮捕となった
新宿西口バス放火事件を起こした犯人である丸山博文は、放火直後の現場から逃走します。そして地下道入り口にうずくまっていた丸山博文は、通行人によって取り押さえられました。 その後警察が到着し、丸山博文は現行犯逮捕されました。丸山博文はバスに火のついた新聞紙とガソリンの入ったバケツを投げ込む際に、「馬鹿野郎!なめやがって!」と叫んでいたという証言もありました。 後の取り調べで事件当夜に「新宿駅前広場につながる階段での飲酒を何者かにとがめられ、カッとなって犯行に及んだ」と供述しています。
新宿西口バス放火事件の犯人、丸山博文と犯行の動機

新宿西口バス放火事件の取り調べの過程で、丸山博文の犯行動機と共にその生い立ちが明らかとなります。そして人生の壮絶さは成人後も続いており、犯行の引き金となります。 ここでは犯人である丸山博文の生い立ちと、犯行の動機について詳述します。
丸山博文の壮絶な生い立ちと経歴
1942年に福岡県北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれた丸山博文は、2歳で母親を亡くし父親と兄に育てられます。しかし父親がアルコール依存症でまともに働かず、生活は困窮していました。 そのため丸山博文は小学校4年の時から学校には行かずに農家や大工を手伝っており、文盲のまま成長します。建設作業員として全国を転々としながら働いていた丸山博文は、1972年に結婚し子供が生まれました。 しかし、妻が酒と男に溺れたことで離婚することになります。そして子供を引き取った元妻が精神病院に入院したことで、我が子を施設に預けざるをえなくなりました。
丸山博文の犯行の動機は日々のストレスの発散
丸山博文は子供のために、懸命に施設への送金を続けました。しかし文盲の丸山博文の収入は低く、真の友人と呼べる人は誰もいませんでした。そして孤独感を深めた丸山博文は、酒をはけ口にするようになります。 1980年3月になると、家賃・宿泊費を節約したい丸山博文は新宿駅西口で寝泊まりするようになりました。しかし道行く人に罵声を浴びせられることも少なくありませんでした。 そうして世間を恨むようになっていきます。事件当日に近隣のビル職員に野宿していることを注意され、そのストレスを発散するためにバスへ放火しました。これが丸山博文が語った犯行動機です。
新宿西口バス放火事件の裁判

新宿西口バス放火事件の裁判は、1981年1月から始まりました。1980年8月19日に現行犯逮捕されているにも関わらず初公判が翌年になった背景には、東京地方検察庁の慎重な姿勢がありました。 ここでは新宿西口バス放火事件の裁判の行方について、詳述します。
丸山博文は精神鑑定が行われた
新宿西口バス放火事件で丸山博文の起訴を決定した担当検察官は、鑑定留置することを決めます。 担当検察官は丸山博文が精神障害を持っているとは考えていませんでしたが、被害妄想的な発言が多かったこともあり精神鑑定を行いました。 丸山博文の精神鑑定は、東京大学の教授が担当しています。そして「抑うつ状態ではあるものの精神障害とはいえず、統合失調症でもない」という鑑定結果を報告しました。
丸山博文の精神状態を鑑み、無期懲役が下された
1981年に新宿西口バス放火事件の公判が始まり、精神鑑定を担当した東京大学教授も証人として出廷しました。その際に「鑑定期間が短かったので、再鑑定したい」と申し出ます。 そして東京大学教授だけでなく、上智大学教授にも 丸山博文の精神鑑定を依頼します。その結果「飲酒による酩酊などによる心神耗弱状態」という、鑑定結果が報告されました。 検察側は死刑を求刑しましたが、1984年4月24日の第一審判決公判で無期懲役が言い渡されます。裁判官は「事件当日に丸山博文被告が心神耗弱状態にあった」と、精神鑑定の結果を事実認定したからです。その後控訴したものの1886年8月26日に棄却され、刑が確定しました。
新宿西口バス放火事件の被害者:杉原美津子

新宿西口バス放火事件で、最も重い被害を受けた女性が杉原美津子さんです。杉原美津子さんは全身の88%を火傷したにも関わらず、かろうじて一命を取り留めることができた事件の被害者です。 そして火傷から回復した後、執筆活動を始めました。ここでは新宿西口バス放火事件の被害者だった杉原美津子さんについて、詳述します。
杉原美津子の「生きてみたい、もう一度」
杉原美津子さんは1983年に文藝春秋社から「生きてみたい、もう一度~新宿バス放火事件~」を出版します。杉原美津子さんが重傷を負ったのは事件当時に異性問題で自殺願望を抱えており、逃げるのをためらったためでした。 新宿西口バス放火事件の1年後に病院を退院した杉原美津子さんは、丸山博文に接見するために東京拘置所に足を運びます。しかし丸山博文は、接見に応じませんでした。 しかし1982年12月に杉原美津子さんは丸山博文に対し、「もう一度生きてみてください。やり直しはできます」という手紙を送っています。その言葉は、著作のタイトルを重なっています。
「生きてみたい、もう一度」は桃井かおり主演で映画化された
杉原美津子さんが書いた「生きてみたい、もう一度~新宿バス放火事件~」は1985年に映画化されています。主演を務めたのは、女優の桃井かおりさんでした。 その映画では火傷治療のために使われた非加熱製剤によりC型肝炎に感染し、火傷の痕だけでなく後遺症として運動障害が残された事実も再現されています。 そして不倫相手の妻が亡くなったことで結婚したものの、夫の会社が経営不振となり心中を持ち掛けられました。そして夫を思いとどまらせるところまでが描かれました。
新宿西口バス放火事件の類似の無差別殺人事件

新宿西口バス放火事件の類似事件として真っ先に思い浮かぶのは、2019年7月に起きた京都アニメーション放火事件です。この事件により、33名の命が奪われました。 そして日本における無差別殺人事件は、これだけに留まりません。秋葉原通り魔殺人事件をはじめ、相模原障害者施設殺傷事件 や附属池田小事件など類似するものがたくさんあります。 こうした無差別殺人事件は、一向に減る気配が見えません。
なくならない無差別殺人事件

2000年代に入ってから、日本でも無差別殺人事件が増え続けています。無差別殺人とは、怨恨など被害者に対して直接の動機を持たずに行う犯行のことです。 ここではなぜ無差別殺人事件がなくならないのかについて、考察します。
なぜ無差別殺人事件はなくならないのか?
法務省では2013年に、「無差別殺傷事犯に関する研究」を発表しています。この研究では2000年~2010年に判決が確定し収監されていた、52名の無差別殺傷犯を対象に調査を行いました。 その調査で見えてきたのが無差別殺人犯は社会的に孤立し、生活が苦しいという状況に不平不満を募らせたことが事件の引き金になるという傾向です。 若者の非正規雇用率が上昇し地域や社会との関わりが希薄化する現代を考えると、無差別殺人事件がなくならない理由が見えてきます。
犯人をそうさせてしまう社会に問題はないのか?
無差別殺人犯全員が、事件を計画していたわけではありません。世の中への不満と閉塞感、孤独感が深まったことがきっかけで事件を引き起こしています。 そう考えると現代社会は、誰もが加害者になる可能性を秘めているとも考えられます。これはインターネットやSNSの普及とも関わりが深く、実生活で豊かな人間関係を築けない社会の弊害でもあります。 若者の社会基盤がぜい弱であることに目を向け、社会的に対処していく機運が生まれることを願ってやみません。