1分でわかる渋谷暴動事件
「渋谷暴動事件」とは、日米の間で批准しようとしていた沖縄返還協定に反発する革命的共産主義者同盟(中核派)が「渋谷で暴動を」と呼びかけたことにより、1971年11月14日に発生した暴動事件です。 警察官1名が殺害されましたが、7人の犯人のうち主犯格の大坂正明は46年にわたる逃亡の末、2017年にようやく逮捕されました。
- 1971年に発生した暴動事件
- 犯人は沖縄返還協定に反発する中核派
- 主犯格の大坂正明は2017年に逮捕
渋谷暴動事件の起きた背景

戦後、沖縄はアメリカの統治下に置かれ、軍の重要な拠点としての役割を担わされていたため、沖縄の日本復帰は日本国民の悲願でしたが沖縄返還協定にはアメリカ軍基地の撤退は含まれていなかったのです。 これに対して日本社会党や日本共産党は猛反発し、中核派をはじめとする左翼系過激派は各地でデモ活動を繰り広げていました。
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中核派などの学生運動が当時は活発だった
日米安保条約は1960年及び1970年に延長されますが、これに反対する中核派などの学生運動が激化しており、警察当局と激しい攻防を繰り広げています。 日本は日米安保条約の下、他国からの脅威から守られていましたが、アメリカの従属国といった位置付けであることも事実でありその象徴が沖縄でした。 そのため、中核派などの左翼系過激派にとって沖縄にアメリカ軍基地を残す「沖縄返還協定」は許し難いものであり、学生運動はますます激しくなったのです。
中核派による沖縄返還協定に関連する闘争が起きた
70年安保闘争において過激なテロ活動を繰り広げていた中核派など左翼系過激派は、沖縄返還協定批准に猛反発し各地でデモ活動を繰り広げています。 1971年11月10日には沖縄県浦添市でゼネラル・ストライキが行われ、全沖縄労働組合、日本官公庁労働組合協議会、教職員組合員ら約15万人が集結しました。 その際にも火炎瓶などで武装した中核派が紛れ込んでおり、特別警備隊体制を敷いていた琉球警察と衝突し警察官1名が殉職するといった事件が勃発しています。
渋谷などの大都市での闘争が検討されていた
1971年11月になると沖縄返還協定批准の機運が高まりますが、中核派はより多くの国民にアピールするために渋谷など大都市での暴動を画策していました。 そして、11月10日に沖縄ゼネストでの大暴動が勃発すると、中核派は沖縄返還協定批准阻止闘争において「渋谷に大暴動を」と掲げて武力行使を促します。 中核派の動向を察知した警察当局は、全国から機動隊員を渋谷に動員し厳戒体制を敷いていましたが、中核派の学生たちはスーツ姿などで変装して群衆に紛れ込んでいたのです。
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渋谷暴動事件の概要

渋谷暴動事件は1971年11月14日に、渋谷駅周辺で火炎瓶や鉄パイプで武装した中核派の学生ら400人によって引き起こされ、警察官1名が殉職しました。 警察当局は全国から警察官を動員し厳戒態勢を敷いていましたが、当日は5,000人もの学生らが渋谷に集結し大規模なデモ活動を行っていたこともあり現場は大混乱に陥ったのです。
中核派が渋谷で火炎瓶などを用いて暴動を起こした
渋谷暴動事件が起きた11月14日は中核派の呼びかけで、6,000人もの左翼系過激派が渋谷に集結し沖縄返還協定批准に反対するデモ活動を行っていました。 警察当局は全国から警察官を動員し厳戒態勢を敷いていましたが、学生たちはスーツ姿などで渋谷駅周辺に紛れ込み、突如火炎瓶などを用いて暴動を引き起こしたのです。 そのため、不意を突かれた警察当局は防戦一方となり、けが人が続出するなどあたりは修羅場と化してしまいました。
機動隊の1人が暴行を受け、火炎瓶により火だるまになり死亡した
中核派に殺害された中村警部補(当時巡査)は新潟県警から派遣され、関東管区機動隊新潟中央小隊27名の一員として神山派出所周辺の警備にあたっていました。 しかし、突然中核派の学生ら150人に襲撃されたため小隊は撤退を試みますが、火炎瓶を投げ込まれ大苦戦を強いられます。 ガス銃を装備していた中村警部補が応戦するもガス弾を撃ち尽くしてしまい、複数の中核派の学生に鉄パイプで暴行を受け、火炎瓶により火だるまになり死亡してしまうのです。
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渋谷暴動事件の犯人と逮捕、裁判

渋谷暴動事件の事態を重く見た警察当局は、事件現場の様子を聞き込み7名の実行犯として割り出し、1972年から1975年の間に次々と逮捕しますが、主犯格の大坂正明の消息は1973年を最後に途絶えました。 その後、大坂正明以外の6名は刑が確定し、刑期を終え出所した者、無実を訴えながらも病死した者などさまざまな結末を迎えています。
大坂正明を除く中核派の6名が逮捕された
警察当局は渋谷暴動事件を扇動した中核派委員長を逮捕・起訴するとともに、中村警部補(当時巡査)を殺害した実行犯の割り出しに全力を上げます。 その結果、中村警部補を殺害した実行犯として中核派の大坂正明・星野文昭・荒川碩哉・奥深山幸男ら7人を特定し、指名手配に踏み切るのです。 実行犯7人は事件直後から逃亡していましたが星野文昭・荒川碩哉・奥深山幸男ら6人は、1972年から1975年の間に逮捕・起訴されました。
裁判の判決
大坂正明を除く6人の裁判は粛々と行われ、星野文明には無期懲役、荒川碩哉には懲役13年、奥深山幸雄は1979年に懲役15年が言い渡されます。 そのうち奥深山幸雄は、精神疾患のため1981年に公判停止になりますが、何としても懲役刑を確定させたい検察庁は弁護人や支援者の批判を省みず公判再開を目指すします。 長らく公判停止の状況が続く中、2010年には病状安定とも報じられましたが、奥深山幸雄は入院先の病院で2017年に死亡してしまうのです。
星野文昭は無期懲役となった
1987年に最高裁で無期懲役が確定した星野文明は、2019年に肝臓がんのため収容先の東日本成人矯正医療センターで死亡しています。 1986年に獄中結婚をした星野文明は、支援者らとともに死の直前まで無罪を訴え続け、再三にわたり再審請求を行っていましたが、取り上げられることはありませんでした。 また、星野文明は獄中で数々の絵画を描き続け、2001年からは「星野文昭絵画展」を全国で開催しており、現在でも中核派のシンボリックな存在であり続けています。
渋谷暴動事件の大坂正明は逃亡した

渋谷暴動事件の主犯格であり、中核派では「軍団長」と呼ばれていた大坂正明には賞金300万円がかけられ、さまざまな情報が警察当局には寄せられていました。 しかし、中核派に匿われていたためか消息さえつかめない状況で46年が経過し、2017年になってようやく広島県安佐南区のアジトで逮捕されることになるのです。
大坂正明に懸賞金300万がかけられた
大坂正明は中村警部補(当時巡査)殺害及び暴動を引き起こした罪により殺人・放火・傷害・凶器準備集合のほか公務執行妨害の容疑がかけられています。 しかし、事件直後から捜査は困難を極め、その足取りさえつかめなくなったことから300万円の懸賞金がかけられていました。 事件後、初めて息子が活動家であることを知らされた父親は、怒りのあまり大坂正明の所有物を焼却したため、指紋照合が不可能となったことも捜査を難しくした一因です。
大坂正明は2017年にようやく逮捕された
1973年以降消息が途絶えていた大坂正明ですが、2017年に大阪府警察が広島市安佐南区の中核派のアジトに踏み込んだ際に発見されます。 そこで、大坂正明が警察官に対して公務執行妨害を働いたため現行犯逮捕され、その後DNA鑑定で本人であることが証明されようやく逮捕されることになるのです。 逮捕後も大坂正明は一貫して無罪を主張しており、当時の記録や証拠も少ないことなどから裁判は紛糾することが予想されています。
まとめ

中核派による渋谷暴動事件は、21歳の若き巡査が死亡してしまう昭和史に残る悲惨な事件であり、主犯格の大坂正明は46年の長きにわたり逃亡生活を続け逮捕されましたが、未だに無罪を主張し続けています。 現在の渋谷の光景からは考えられない事件ですが、46年にわたって大坂正明を匿い続けた組織があることを忘れてはなりません。