1分でわかる千日デパート火災
- 日本におけるビル火災史上で最も忌まわしい大惨事
- デパート閉店後に行われた電気設備工事現場で火災が発生
- 7階で営業中だったキャバレーへ通報せず被害が拡大
日本では過去に何度か大きなビル火災が発生しています。中でも史上最悪の大惨事といわれているのが「千日デパート火災」です。その被害は死者118名、負傷者81名と甚大なものでした。 千日デパートは閉店していたにも関わらず、多くの犠牲者が出る事態となってしまいました。今回は「千日デパート火災」はどんな事故で何が原因だったのか、裁判の行方などについて解説します。
千日デパート火災の概要
「千日デパート火災」が発生したのは1972年5月13日22時27分頃とされています。その日デパート内では電気工事が行われており、それが火災の原因を生んでいます。 ここでは「千日デパート火災」が発生した経緯と、多数の被害者を出したプレイタウンの様子について詳述します。
火災が起きたのは夜で営業していたのはプレイタウンのみ
千日デパートは、地下1階・地上7階・屋上棟屋3階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造りのビルでした。デパートという名称ながら、実情は雑居ビルとして営業していました。 各階のフロアを細かく区切って貸し出していたため1~5階には食料品店や雑貨屋が、6階にはゲームセンターが入っていたのです。 そして「千日デパート火災」が起こった時、ビル内で営業していたのは7階に入居していたプレイタウンだけでした。
デパートの工事現場である3階から出火
「千日デパート火災」が発生したのは1972年5月13日の22時27分頃とされています。3階の北東側にあったニチイ先日前店の布団売り場から出火しました。 その日は3階の婦人服入り場で電気工事が行われており、現場監督と2名の作業員が火災発生に気づいたのです。現場監督はすぐに火災報知機を押し、1階にあった保安室まで駆け下ります。 連絡を受けた保安係は消火器を持って現場に行ったものの、火の勢いが増しており手に負えない状況でした。保安係は即座に係長に報告し、119番通報されました。
プレイタウンにいた人々は火災に気づくのが遅れた
「千日デパート火災」が発生した1972年5月13日は土曜日で、7階にあった「プレイタウン」というキャバレーは営業中でした。昭和の時代は土曜出勤が当たり前で、翌日が休みということもあり店は賑わっていました。 理由は後述しますがこの時プレイタウンの従業員に対し、火災が発生した事実が連絡されることはありませんでした。そのためプレイタウンにいた従業員やお客は火災に気づくのが遅れてしまったのです。
客やホステスなどがパニック状態に陥り一酸化炭素中毒などで倒れていった
事務所にいたプレイランドの支配人は火災発生後の22時39分になってようやく火災発生を認識しました。 そのころには客の中にも火災だと直感し、避難しようとした人もいたようです。しかし階段やエレベーターにはすでに煙が充満しており、逃げられる状況ではありませんでした。 一酸化炭素や有毒ガスを吸い込んだ客やホステスたちは、次々と倒れていったのです。
建物から飛び降りる人が続出した
1972年5月13日22時49分火災の影響により店内が停電しました。その時に避難者が殺到したのがステージ脇にあった窓です。プレイタウンが防火対策として救助袋を設置していたからです。 しかし救助袋は点検ミスのため使えない状況でした。そして避難者は煙と熱さに追い立てられていたのです。 煙と熱さと恐怖から逃れたい一心で1人が建物から飛び降りました。その高さから飛び降りても助かる確率は低いはずなのに冷静さを失った人がそれを真似し、飛び降りる人が続出したのです。
千日デパート火災では群集心理が働いた
「千日デパート火災」の発生に気づいたプレイタウンの従業員や客はエレベーターでの脱出を試みます。 しかしエレベーターには煙が充満していたため使用できず、従業員による避難誘導もほぼなかったためパニックが発生しました。 パニックによって異常な心理状態にあった人たちに群集心理が働いたのは、ある意味仕方がないことといえるでしょう。7階からは多くの人が飛び降りました。
千日デパート火災の原因や被害が拡大した原因
「千日デパート火災」の原因はとても些細なことでした。しかしビル側もプレイタウンの関係者も防火への意識が低く、人的ミスで被害が拡大したことは事実です。 ここでは「千日デパート火災」が起こった原因と被害を拡大させた要因について、具体的に説明します。
千日デパート火災の原因は工事現場でのタバコの不始末
「千日デパート火災」の原因は電気工事の現場監督による失火でした。現場監督が出火場所となった3階で煙草を吸いながら歩き回っていたのです。 さらに出火場所となった布団売り場では、火が付いたままだったマッチを布団に投げ捨てたと供述しています。常識では考えられない行動により、「千日デパート火災」は発生したのです。
千日デパート自体の防火・火災対策の問題
「千日デパート火災」で犠牲者が増えた要因には、建物と管理会社の防火・火災対策に問題があったこともあげられます。千日デパートビルが建設されたのは1932年で、改修が加えられていました。しかし1972年に建築基準は満たしておらず、既存不適格の建物でした。 また建物を管理していた千日デパートの子会社である千土地観光がプレイタウンを経営していましたが、消火並びに避難訓練を合同で行ったことはありませんでした。 さらに大阪市消防局と南消防署が1971年5月に特別点検を行った際に指導されていた故障したシャッターの修理・防火区画のシャッターラインの改善・閉店後に階段の防火シャッターを閉めるという3点が守られていませんでした。
プレイタウンの設備や従業員の問題
「千日デパート火災」が発生する10カ月前の1971年7月、千日デパートの管理部は地下1階から6階のフロアすべてに防災ランプと呼ばれる非常放送設備を設置しました。防災アンプが設置された階であれば、災害時に流れる全館一斉放送が聞けるようになったのです。しかし7階のプレイタウンには設置されず、設備について知らされることもありませんでした。 また千土地観光はプレイタウンの従業員に対し、消防並びに避難訓練を行わせたことが一度もなかったのです。災害発生時の避難誘導の指導もなく、火災発生時に従業員はお客さまの安全確保ができる状態にありませんでした。
千日デパート火災の裁判と判決
「千日デパート火災」は刑事だけでなく、民事でも争われました。 刑事裁判の争点は千日デパートビルのオーナーである日本ドリーム観光と千日デパートの管理責任者、プレイタウンの支配人に責任があるかどうかでした。一方の民事裁判では強制退去を求められたテナントが結成した訴訟団によって千日デパートビルが訴えられています。 ここでは、「千日デパート火災」の裁判と判決について詳述します。
刑事裁判
「千日デパート火災」の刑事裁判は、最高裁まで争われました。1973年8月10日に大阪地方検察庁は日本ドリーム観光・千日デパートの管理部次長並びに同管理課長、千土地観光代表取締役とプレイタウン支配人2名の計4名を起訴しています。 1984年5月16日に下された第一審判決では、千日デパートの管理部次長以外の3名を無罪としています。しかし1987年9月28日に結審した控訴審判決では原判決が破棄され、管理部次長以外の3名に有罪判決が下りました。 その内容は千日デパート管理部管理課長が禁錮2年6月・執行猶予3年、残る2名が禁錮1年6カ月・執行猶予2年という厳しいものでした。被告は上告しましたが1991年11月29日に棄却され刑が確定しました。
民事裁判
「千日デパート火災」の民事裁判における原告は、被害者でもその家族でもありません。千日デパートに対して訴えを起こしたのは、ビルのテナントに入っていた専門店街の店主たちです。 千日デパートビルの営業再開を急いでいた日本ドリーム観光は、建物の耐震診断を依頼した建設省建築研究所の結果を受けて、ビルの取り壊しと新たなビルの建設を決めます。その際売り場面積が縮小することもあり、テナントを強制退去させたのです。 そのため専門店街の店主が訴訟団を結成し民事裁判を起こすことで、強制退去に対する抗議を行いました。
千日デパート火災の後消防法改正が行われた
「千日デパート火災」は死者118名、負傷者81名にもなる大惨事となりました。消防庁はこの忌まわしい事故を教訓とすべく、1972年5月15日に全国の都道府県に雑居ビルに対し緊急点検を行うよう通達しています。 同年同月16日には「千日デパート火災」が国会で取り上げられ、避難訓練の周知徹底と実施・防火管理体制の強化などについて議論されました。その結果1972年12月1日から1974年12月2日までの間に、消防法令及び規則が6回改正されたのです。
千日デパートは取り壊され跡地に「プランタンなんば」、現在は「ビックカメラ」に
「千日デパート火災」の後、耐震補強工事をするより解体して立て直した方が早いという判断でビルは取り壊しとなりました。そしてその跡地には、「プランタンなんば」が立てられました。この商業施設が開業したのは、1984年のことです。 しかしプランタンなんばは売り上げが伸びず、一度「カテプリなんば」に名称変更しますが2000年には閉店に追い込まれます。翌2001年にそのビルに「ビックカメラなんば店」がオープンし、現在も営業中です。
千日デパート火災の被害者は子持ちのホステスが多かった
「千日デパート火災」での死者の内訳は、男性客33名・女性客1名・ホステス65名・プレイタウンの男性従業員15名・女性従業員4名でした。フロア内で96名・飛び降りや転落で9名・救助袋からの転落で13名が尊い命を落としています。 プレイタウンに勤務するホステスの多くが子どもを持つ母親でした。離婚してシングルマザーになっている人もいれば、夫の収入だけでは生活が苦しいという理由で勤めていた女性もいました。そして母の日の前日に火災に巻き込まれたのです。
千日デパート火災の類似の火災事件
過去最大の犠牲者を出した「千日デパート火災」ですが、1990年に類似の火災事件が発生しています。同年5月18日に起こった「スーパー長崎屋火災」です。 長崎県尼崎市にある5階建てのスーパー長崎屋で12時20分に火災が発生しました。4階の寝具売り場から突然出火したのです。火災発生した4階には8名の従業員と14~15名の買い物客がいましたが、階段から非難し事なきを得ています。 しかし5階にいた16名の従業員と6名の買い物客は煙に巻かれ、うち15名が死亡しています。死因は有毒ガスでした。
千日デパート火災のような事件を今後起こしてはならない
自然災害が多い日本では地震後に火事が発生することが多く、その都度耐震と防火について議論され何度も法改正が行われています。 しかし個人が管理・経営するビルのすべてが、現在の国の基準を満たしているわけではありません。そう考えると古いビルで火災が起これば、同じような被害が出る可能性は残ります。 二度とこのような大惨事が起こらないよう、ビルの管理者だけでなく利用者も安全について真剣に考え声を上げていきたいものです。
悲惨な被害をもたらした千日デパート火災
日本最悪の大惨事と名高い「千日デパート火災」について、解説しました。118名の被害者とその家族だけでなく、生還した47名にも深い傷を残す事故でした。 前年に指摘された防火対策を日本ドリーム観光が実施していたら、違う結果になったのではないかと思わずにいられません。この悲劇を教訓として、より防火意識が高まることに期待したいものです。