\ 琉球風水志 シウマの占いページはこちら /

横浜事件をわかりやすく解説。冤罪の真実や弁護団の問題に迫る。

もくじ

1分でわかる横浜事件

  • 乱用された国家権力が罪なき60名を逮捕
  • 関係者・遺族と裁判所との長い闘い
  • 実質無罪・冤罪を勝ち取るも後味の悪い最後

横浜事件‎の概要

横浜事件は戦中から戦後にかけて、国家権力を乱用した一大事件です。戦時下最大の言論弾圧事件ともいわれる横浜事件は、誰によって引き起こされたのでしょうか。 きっかけはある評論家が執筆した1本の論文でした。なぜ約60名もの検挙者を出すまでの事態となってしまったのか、事件の真相に迫ります。

1942年から1945年にかけて起きた言論弾圧事件

横浜事件は1942年9月から1945年8月の間、約3年間にわたって起きた言論弾圧事件です。弾圧を加えたのは神奈川県特別高等警察(通称:特高)で、改造、中央公論、日本評論、岩波書店などの出版関係者が相次いで被害を受けました。 特高は「共産党再建」を企てているという理由で弾圧しましたが、実際に被害にあった関係者に思想の一致は見られませんでした。敗戦を迎えてからしばらく経ち、横浜の裁判所では治安維持法に関する書類が焼かれました。 米軍に特高の蛮行を知られる前に、証拠を隠蔽しようと上部が命令したためです。

雑誌に掲載された論文をきっかけに約60人が逮捕

評論家の細川嘉六氏によって書かれた「世界史の動向と日本」という論文が「改造」誌に載ったことが事の発端でした。細川氏が論文をとおして共産主義の宣伝活動をしたと陸軍報道部にやり玉にあげられ、時を同じくして経済学者の川田寿氏も逮捕されることになります。 ここから芋づる式に出版関係者が検挙され、ついには約60人が逮捕されるまでにいたりました。表向きは危険な思想を持った人間の弾圧ですが、実際には警察側の一方的な暴挙でした。特高は検事とも連携をとり、自分たちに都合のいいように判決を進めていったのです。

激しい拷問が行われ、4人が獄死

検挙された人たちは特高による激しい暴行をうけました。殴る、蹴るといった現代では許されるべきでない取り調べを受けたのです。苦しさのあまり特高の言うことを認めれば、都合よく調書として書き記され、逃げ道のない状況に追い込まれていったのです。 激しい拷問の末、33名が有罪となり4名が獄死しました。現代を生きる私たちには考えられませんが、大正から昭和にかけての日本は国民が息を詰まらせて生きなければいけない時代だったのです。

横浜事件のその後

残虐きわまりない事件として多くの人の記憶に残った横浜事件ですが、被害者たちも黙ってはいませんでした。細川氏を中心とした被害者の会は戦後から動き出し、彼らの名誉回復を目指して活動を行います。 しかし裁判所側は証拠がないの一点張りで埒が明きません。時の流れとともに高齢化していく被害者たち、そしてその遺族たちと裁判所の闘いはどうなったのでしょうか。

関係者・遺族がでっち上げだと主張し、名誉回復を求める

拷問を受けてきた被害者たちは黙っていませんでした。1947年に細川氏を中心とした被害者の会が立ち上がり、拷問を実行した特高警察官30人を共同告訴したのです。 しかしサンフランシスコ講和条約の発効に伴う大赦によって、実刑が確定した警察官も釈放されてしまいます。 その後は年老いた被害者たちが再審請求を申し立てるものの、裁判の記録がないから認められないと相次いで棄却されます。被害を受けた当人たちはこの世を去った人も多く、遺族が彼らの名誉回復に努めました。

免訴を言い渡す

被害者の会で中心的人物とした活動をつづけていた木村亨氏は、1998年に思いを遂げることなくこの世を去ります。妻のまきさんらが思いを受け継ぎ、第3次再審請求を行いましたが2006年に横浜地裁は免訴を言い渡しました。 免訴とは訴訟条件を欠くため裁判を打ち切りにすることを意味します。遺族からすれば当然納得のいくものではありません。残された遺族も高齢化する中、何をいってもどうすることもできないやるせない状況がつづきました。 昔も今も残された遺族は当事者以上に大きな苦しみを背負うことになってしまいます。

実質的に無罪と認定し、冤罪と認める

長年苦しむ被害者と遺族たちに、ようやく一筋の光が差し込んだのが2010年でした。横浜地裁において元被告人5人に対して、約4,700万円を交付する決定がくだされたのです。 特高が検挙の理由としていた共産党再建に関する会合が行われた証拠が見当たらず、警察官側の思い込みによる過失であると結論づけました。この判決によって実質的に被告人が無罪であったことを認定し、冤罪だったことを認めたのです。 そして同年6月24日には官報、読売新聞、朝日新聞、しんぶん赤旗において公告されました。

国家賠償を求める訴訟で弁護団のミス

冤罪が認められた遺族2人は、国に対して1億3,800万円の損害賠償を求める国家賠償請求を行いました。理由としては、国側の裁判記録処分によって再審請求が遅延し、それに伴い名誉回復に障害を招いたためです。 国側は冤罪があったことに対する違法性は認めたものの、国家賠償法の制定以前の事案であると棄却します。判決に不服とする遺族は東京高裁に控訴しましたが、これも棄却されます。納得のいかない遺族側はさらに上告を申し立てる準備をしていました。 しかし弁護団のミスで上告理由書の提出期限が遅れ、あっけない形で幕を閉じることとなりました。

まとめ

横浜事件は戦時下最大の言論弾圧事件として、今なお遺族たちを苦しめています。実質的に無罪判決がくだされ冤罪は認められましたが、名誉を回復した元被告たちは既にこの世にいない人が多数です。 本来の司法の在り方が問われる決して忘れてはいけない事件です。司法の道を志す人や既にその道をいく人には教訓として受け継がれることを期待します。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

もくじ
閉じる