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吉展ちゃん事件は小原保による4歳児の誘拐殺人事件。報道規制もかかり解決までに2年を要した理由は?

もくじ

1分でわかる吉展ちゃん事件

  • 日本で初めて報道協定を締結
  • 犯行目的は金欲しさ
  • 事件発生から約2年後に犯人逮捕

吉展ちゃん事件の概要

「吉展ちゃん事件」は戦後日本の闇を象徴する誘拐事件です。平成から令和の時代において誘拐事件は影を潜めました。しかし昭和の時代には貧富の差が激しく幼児を連れ去り身代金を要求する事件が多発しています。このような背景において発生した「吉展ちゃん事件」とはどんな事件だったのでしょうか。

4歳の男児が誘拐され行方不明に

「吉展ちゃん事件」は1963年3月に発生した誘拐事件です。被害に遭った男児は自宅付近の公園で遊んでいたところを連れ去られました。当初は単なる迷子だと考えられていましたが次第に様相に変化がみられます。 被害に遭った男児は不審な男と話しているのが目撃されていました。この男こそ後に逮捕される小原保です。小原保は言葉巧みに男児に近付き僅かな連れ去りました。 こうして事態は急変し誘拐事件として捜査が開始されることになります。この時は誰もがすぐに解決するだろうと考えていましたが事態は思わぬ展開を見せました。

犯人からの身代金の要求

被害者の男児が連れ去られ2日後に男からの入電がありました。身代金の要求です。同時に警察当局はマスコミに対して報道協定を要請します。 これは2年前に被害者が殺害されるといった痛ましい誘拐事件を教訓にしたものです。これまで報道協定が締結されたことはなく、日本で初めてのケースになりました。 犯人からは数回にわたり入電があります。しかし現代ほど技術は進んでおらず逆探知には至りませんでした。ただし男児の母親の必死の引き延ばしが功を奏し約4分間の録音には成功します。

犯人は身代金を持って逃走

数回の電話のやり取りの後、犯人は身代金の受け渡しを要求します。実に事件発生後約1週間後のことです。男児の母親は指定された銀行前の電話ボックスに現金を持って行きますが犯人は現れませんでした。 この頃は携帯電話などありませんから、至る所に電話ボックスがあり犯罪に利用されていたのが現状です。結局犯人は電話ボックスでの受け渡しを諦め、男児の自宅付近での受け渡しに切り替えます。 指定された三輪自動車に現金を置くと瞬時に身代金をもって逃走しました。警察は完全に隙を突かれて犯人を取り逃がす結果となります。

犯人逮捕までに2年を要した

「吉展ちゃん事件」の解明は難航を極め結局犯人逮捕に2年を要することになりました。身代金をもって逃走された警察は事件発生から約20日後に公開捜査に踏み切ります 。事件に対する国民の関心は極めて高く約1万件の情報が集まりました。もちろん有力な情報もありましたが、情報過多に陥り捜査はさらに混乱します。 しかし逆探知ができなかったことや持ち去られた紙幣のナンバーを控えていないなどのミスが重なったのも事実です。事件発生から2年後にようやく事件特捜班を編成し小原保を逮捕します。

4歳男児は遺体となって発見

連れ去られた4歳男児は帰らぬ姿となってようやく見つけられます。逮捕された小原保は「吉展ちゃん事件」への関与を否定し続けました。 捜査当局は丁寧な裏取り捜査を重ね自供に持ち込みます。小原保は別件の事件で拘留中の身でしたから、時間との勝負だったといえるでしょう。 男児の安否は絶望的な状況でした。その予想は的中し遺体は事件現場付近の墓地から発見されました。驚くことに、男児は事件発生直後に既に殺害されていたことも発覚します。

吉展ちゃん事件の犯人と犯行動機

昭和を代表する「吉展ちゃん事件」は最悪の結果をもって幕引きが行われました。度重なるミスの連続に捜査当局は内外から大きな批判を受けることになります。併せて、凶悪事件を引き起こした犯人の動機に国民の注目が集まることになりました。

小原保

小原保は福島県の農家の子供として生を受けています。11人兄弟故に極めて貧しい生活を送りました。小学生の時分には骨膜炎を発症し片足に障害を持ちます。 片足に障害があることでいじめにも遭い、農作業に従事することも叶いませんでした。中学卒業と同時に職業訓練校を経て時計工として働き始めます。 しかし貧しい生活から抜け出すことはできないでいました。こうした生い立ちが小原保のメンタル面に影響を及ぼしたことは想像に難くありません。

借金返済のための金欲しさ

小原保の犯行動機は借金返済にかかる金欲しさです。時計工として働き始めた小原保ですが1つの店舗に長続きすることはありませんでした。 片足が不自由なことやいじめに遭ったことで他者との適切なコミュニケーションが取れなかったのも一因と考えられます。やがて小原保は店主に内緒でブローカー業に手を染めますがすぐにバレてしまいヒモのような生活をしていました。 さらには多額の借金を抱えるようになり、執拗な借金取りから逃げ回る生活に陥っています。つまり小原保はすさんだ生活から逃れるために罪のない男児を殺害しました。

吉展ちゃん事件の捜査と裁判

「吉展ちゃん事件」は発生から解決まで2年を要しました。誘拐事件としては異例の長さであり、国民の関心を集めた要因の一つです。さらに逮捕から裁判、判決までもさまざまな紆余曲折を経ています。なぜ捜査は難航し刑の執行まで紆余曲折を経なければならなかったのでしょうか。

なぜ捜査は難航したのか?

捜査が難航した一番の要因は誘拐事件に対するノウハウが欠如していたことです。例えばアメリカでは誘拐事件が多発していた背景からFBIがさまざまなノウハウを取り入れています。 そのため事件が起きると特別なチームが編成され捜査にあたっているのが実情です。また、小原保が誘拐直後に男児を殺害していたことも想定外の事実だったといえるでしょう。 人命最優先で捜査を進めたため一つひとつの対応が慎重になり過ぎた側面もありました。つまりさまざまな要因が重なり合い捜査は難航したといえるでしょう。

死刑判決、死刑執行

小原保は別の事件で拘留中に逮捕されました。警察は当初からマークしていましたが、事件当日のアリバイがあったこと、本人が否認し続けたことから逮捕を躊躇しています。 しかし丁寧な裏付け捜査が実りようやく逮捕にこぎつけました。しかし裁判は計画性の有無が争点となり難航を期します。 東京地裁は計画性を認め死刑を言い渡しますが、結局判決が覆されることはありませんでした。小原保は獄中で短歌を学ぶなど更生の道を模索しますが、判決確定から4年後に刑が執行されます。

吉展ちゃん事件では報道協定が結ばれた

「吉展ちゃん事件」で特筆すべきは報道協定が日本で初めて締結されたことだといえるでしょう。現在では常識といえますが、当時はマスコミが特ダネを競っていた時代です。 報道を規制されることにアレルギーを示す記者も少なくありませんでした。警察当局は2年前に発生した誘拐事件において、加熱する報道が犯人を刺激したとして半ば強硬に報道協定を締結します。 結果的に被害者は殺害されてしまいました。しかし後の事件において大きな意味を持つことになったといえるでしょう。

吉展ちゃん事件は当時の最も有名な事件

「吉展ちゃん事件」は昭和時代に発生した最も有名な事件です。その背景にあるのは貧富の差だといえるでしょう。 殺害された男児は富裕層の生まれであり、小原保は「小綺麗だった」といった理由で被害者を選んでいます。 方や小原保は貧困を理由に犯罪を繰り返していました。まさに真逆の環境にあったといえるでしょう。また、報道協定が締結されたことや事件解決までに長い時間を要したことも国民の関心を大きく引き寄せたといえるでしょう。

吉展ちゃん事件がその後の誘拐事件捜査に与えた影響

「吉展ちゃん事件」は被害者が殺害されるといった最悪の結果を迎えました。しかしその後の誘拐事件の捜査に多くの影響を与えます。 報道協定は記者クラブとトラブルに発展することなく、双方合意のもとに円滑に締結されることになりました。刑法には「身代金目的略取」が追加され刑が極めて重くなったのも大きな影響です。 さらに日本警察はFBIの良い部分を取り入れ、誘拐事件解決のノウハウを積極的に取り入れるようになりました。それでも昭和から平成にかけ誘拐事件は引き起こされています。ただし、圧倒的に解決される確率は高くなっており、件数そのものも激減しました。

吉展ちゃん事件に類似の事件

「吉展ちゃん事件」は幼い子供を狙った卑劣な誘拐事件です。類似した事件には「雅樹ちゃん事件」があります。報道協定を締結しなかったことが仇となり被害者は猿害されました。 犯人はマスコミ報道に追い詰められて被害者を殺害したと供述しており社会問題となりました。この事件を教訓に「報道協定」が締結されたことは一定の成果はあったといえるでしょう。 また「吉展ちゃん事件」では誘拐捜査に対するスキル不足が露呈しています。このことを重く見た警視庁はFBI方式で対策班を設置するなど誘拐事件の撲滅に努めているところです。

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