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おせんころがし事件の犯人・栗田源蔵に死刑判決。性犯罪常習犯の生い立ちやその後とは。

もくじ

1分でわかるおせんころがし事件

  • 母子3人が理不尽に殺害された事件
  • 犯人の目的は性交
  • 犯人は多くの性的犯行で死刑

おせんころがし事件の概要

おせんころがし事件は日本の代表的な凶悪殺人事件として語り継がれています。何の罪もない母子三人が殺害されました。母親は強姦された後殺害されています。三人とも崖から投げ落とされています。

1952年に千葉県にある断崖「おせんころがし」で起きた母子3人殺人事件

おせんころがし事件は戦後の雰囲気が残る1952年10月現在の千葉県鴨川市にある「おせんころがし」という断崖で起こった母子3人殺害事件です。「おせんころがし」という珍しい事件の呼び名はこの断崖の名前からとられています。 犯人はここで母子3人を殺害しました。その犯行は残虐で、動機も母親であった女性と性交したいという非常に身勝手なものでした。

子供を崖から突き落とし、その母親を強姦

犯人は当時の国鉄興津駅の待合室にいた親子連れに近づき、巧みな言葉で駅から連れ出しました。犯人はおせんころがしという断崖近くで母親に襲いかかり強姦後殺害しました。連れの長女と長男は邪魔になるという理由で、母親強姦の前に石で殴った後崖から突き落としました。 母親も殺害後崖から突き落とされています。母親がおぶっていた次女は犯人に引き剥がされ、地面にたたきつけられた後崖から突き落とされました。犯人は崖の途中で引っかかっていた被害者に近づき、石で打ち付けるなどしてトドメをさしています。

犯人・栗田源蔵の生い立ち

このような残虐で身勝手な犯行を起こした犯人・栗田源蔵はどのような人物だったのでしょうか。 栗田源蔵は1926年秋田県の貧しい家庭に12人兄妹の三男として生まれています。典型的な貧乏人の子だくさんでした。 当時は多くの家庭でそうでしたが、育児らしい育児をされることなく両親の十分な愛情を受けずに育ちました。

夜尿症が原因でいじめに合い、小学校中退

栗田源蔵には夜尿症がありました。夜尿症は成長とともに直るのが普通ですが、精神的なストレスや愛情不足などから長期化することもあるとされています。 彼の場合は夜尿症が一生つきまとったようです。小学校ではこれが原因でひどいいじめを受け、小学校を3年で中退しています。その後奉公に出されますが、奉公先では夜尿症に加えて窃盗も影響して何度も暇を出され奉公先を転々としています。

闇米ブローカーの中心格

時節柄栗田源蔵は19歳で弘前の軍隊に入隊しますが、ここでも夜尿症が原因で直ぐ除隊しています。戦後は北海道に渡り炭鉱夫として働き、その環境から性格や振る舞いは次第に粗暴化していきました。 やがて栗田源蔵は盗んだ米を売りさばく闇米ブローカーに味を占め、闇米以外にも様々な食料品などを手広く扱うようになり、闇米ブローカー集団の中心的な人物になっていきました。

「はやぶさの源」の由来となった数々の事件

栗田源蔵は幼少期から窃盗事件など犯罪行為を繰り返しますが、成人してその犯罪行為はエスカレートしていきました。特に性犯罪を何度も繰り返すようになり、犯罪を次々と犯すスピードが異様に早かったため「はやぶさの源」という異名がつけられました。

2女性殺害事件

栗田源蔵の連続殺人は1948年の2女性殺害事件から始まりました。闇米ブローカー時代に知り合った二人の女性を三角関係のもつれから殺害しました。 栗田源蔵は同時に二人の女性と結婚の約束をしていました。一人の女性はもう一方の女性の友人でした。結婚を迫れたことから一人の女性を性交後首を絞めて殺害し、その犯行を知ったもう一人の女性が自首を勧めたことからその女性も殺害しました。その女性とは殺害後屍姦しています。

検見川事件

栗田源蔵は1952年1月現在の千葉県千葉市で当時63歳の主婦と24歳の姪を殺害しています。主婦は鋭利な刃物で腹部を刺されており、姪の方は首を絞められていました。姪には強姦された形跡が残っていました。 当時栗田源蔵は窃盗容疑で全国指名手配中で、義理の弟の家にいるところを逮捕されました。当初犯行を否認していましたが、血のついた包丁などが見つかり指紋から栗田源蔵の犯行が明らかになりました。

小山事件

栗田源蔵は検見川事件の前年1951年8月に栃木県の小山で、赤ちゃんと寝ていた当時24歳の母親を強姦しながら絞め殺しています。家の窓から寝ている母親を見て欲情しての犯行でした。幸いなことに赤ちゃんは事なきを得ました。 犯行後家の中を物色して着物などを盗みましたが、異常なことにもう一度死体を屍姦したあと、勝手口で大便をしています。

 

おせんころがし事件の裁判

検見川事件を切っ掛けに逮捕された栗田源蔵のおせんころがし事件を始めとする数々の殺人事件が明らかになり、栗田源蔵は裁判にかけられました。 珍しいことに栗田源蔵は二つの裁判で二度死刑判決を受けています。二度も死刑判決を受けるのは日本の裁判では初めてのことでした。

栗田源蔵は死刑判決

最初の判決は1952年8月でした。千葉地裁で検見川事件の判決として死刑が言い渡されました。翌年の1953年12月には宇都宮地裁で検見川事件以外の殺人事件の判決が言い渡されました。 こちらの判決も死刑でした。一審で二つの死刑判決を受けるのは勝田清孝事件が起きるまでは日本の裁判史上初めての事例でした。

拘禁ノイローゼになり控訴を取り消し

拘置所での栗田源蔵の素行はひどかったようです。看守に対して暴言や暴行を繰り返し、室内の感知器を何度も手動で作動させ看守を呼びつけたりもしていました。 しかしながら死刑判決が出て刑が執行されるまでに栗田源蔵の精神状態は徐々におかしくなり、いわゆる拘禁ノイローゼを発症してガラスなどを割って自傷行為をするようになりました。1954年にはいきなり控訴を取り下げています。最後はやつれ果て1959年10月宮城刑務所で死刑が執行されました。

おせんころがし事件のその後

いたいけな子供を始め母子3人が無残に殺害されたおせんころがし事件ですが、唯一の明るい材料は長女が生き残ったことです。 生き残った長女はどのようにして栗田源蔵の毒牙を逃れたのでしょうか。また犯行現場はその後どのようになったのでしょうか。おせんころがし事件のその後を追います。

生き残り、軽傷で済んだ長女の現在

長女は栗田源蔵に顔面を血が出るほど殴られた後崖から突き落とされましたが、幸い崖の途中で引っかかりました。けがも軽傷だったため、栗田源蔵が執拗にも崖を降りて被害者達を石で殴りトドメをさそうとしたときも、近くの岩陰に身を隠すことができました。 現場検証に立ち会わされた長女は小さな肩を震わせて泣いていたとのことです。生き残った長女の行く末は知るよしもありませんが、心に大きな傷を負って生きたことは間違いないと思われます。

現場は心霊・観光スポットに

おせんころがし事件の舞台である「おせんころがし」には名前の由来となっている伝説がありました。昔近くに住んでいた「おせん」という娘が非道な父親を改心させようと崖から身を投げたそうです。その崖はその娘の名前をとって「おせんころがし」と呼ばれるようになりました。 おせんころがし事件の現場は現在心霊・観光スポットになっています。かつての悲しい伝説が影響しているのかどうか、崖は自殺の名所となり交通事故も耐えないようです。心霊マニアが触手を伸ばすのも頷けます。

異様な性的犯行はなぜ起こってしまったのか

おせんころがし事件を始め栗田源蔵はなぜこのような性的事件を何件も起こすことになったのでしょうか。 時代背景が影響しているのでしょうか。それとも彼が過ごした幼少期の環境が問題だったのでしょうか。

犯人の幼少期の生活が影響か

栗田源蔵には間違いなく夜尿症による強いコンプレックスがあったと思われます。この傷ついた自己が女性を犯すという行為によって自己の存在を確認する行為に彼を追い込んだ可能性があります。そしてその夜尿症はいかなる形でも愛情を全く受けることなく育った幼少期の体験に原因があると推察されます。 栗田源蔵は奉公に出ていたときある老婆と出会い、「女と寝るときはたたいたり締めたりするといい」という話を吹き込まれています。彼の女性を絞め殺しながら強姦したりする行為はこのときの老婆の話が影響している可能性があります。

当時の日本は軽犯罪が頻繁に発生

栗田源蔵が生きた時代は戦後の混乱期にありました。国民全体が貧しく、窃盗や強盗などの事件が日常茶飯事でした。栗田源蔵はそのような時代背景の中で傷ついた自己を抱えて生きていました。 彼は自分自身をコントロールする術を持たなかった可能性があります。彼が犯した数々の犯罪行為は決して正当化できる余地は全くありませんが、幼少期の体験や時代背景は栗田源蔵のような怪物を生み出してしまう可能性があることにも考える必要があります。

女性が残酷な被害にあったおせんころがし事件

おせんころがし事件は栗田源蔵という常識の範囲では図れない怪物的人物が起こした恐ろしい犯罪です。彼の餌食となった多くの女性達には何の落ち度もありません。ただ彼の目にとまっただけで残忍な仕打ちを受けてしまった女性達もいました。 女性を絞め殺しながらの強姦や屍姦は単なる性的な刺激を求めるということ以上に精神倒錯的な行為ともいえ、犯人の心の中は常識の範囲では図れません。おせんころがし事件をはじめ栗田源蔵が起こした異常な連続殺事件は人の心の闇や社会の闇を表す事件としても記憶される事件です。

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