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日章丸事件は出光佐三が中心でイランから石油輸入を行い事件。国際問題にまで発展した理由は?

もくじ

1分でわかる日章丸事件

日章丸事件の全容

  • 日本の民間タンカーに世界が驚愕
  • 民衆に希望と勇気を与えた快挙
  • 石油メジャーも驚いた

日章丸事件とは日本の民間会社が、当時イギリスの支配下にあったイランから石油を輸入した事で生じた国際的な紛争の事です。 イギリスの包囲網を突破した日章丸は、まだ敗戦ショックを引きずっていた日本人に大きな勇気と自信を与えます。 また、産油国と直接取引したことで、石油メジャーの市場独占にも一石を投じる事となりました。

日章丸事件の概要

出光興産の出光佐三は、戦後日本の成長には安定したエネルギー供給が不可欠であると考えます。 そこで、当時イギリスに支配されるイランと占領下にあった日本とを重ね合わせ、タンカー日章丸を使ってイランより石油を輸入する事を決断します。無時帰還した日章丸の快挙は、国民に勇気を与え、その後の日本高度経済成長へと繋がっていきます。 では、その詳細を順を追って見ていきます。

1953年に起きた石油輸入に関する訴訟など

イランから石油を持ち帰った事で、イギリスは日本に対して激怒します。 1953年イギリス石油メジャーのアングロ・イラニアン社は、石油の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴します。「英国」対「日本企業」の構図に日本国民は沸き立ちます。 当時アメリカはイギリスの振る舞いを快く思っていなかった為、沈黙を守ります。結果、出光側の正当性が認められ、アングロ・イラニアン社は、訴えを取り下げます。

イランが1951年に石油国有化を宣言

イランは石油の産油量が世界一でしたが、その開発はイギリスが担っていた為にイランの石油輸出を認めず、その価格も他の中東産油国の3分の1程度でした。 困窮するイランは、1951年油田の国有化を宣言します。それに対してイギリスはペルシャ湾に巡洋艦や駆逐艦を派遣します。イランの石油を購入したイタリアのタンカーがイギリス海軍に拿捕される事件も発生しています。 列強英国の行動に各国とも沈黙します。

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1分でわかる日章丸事件

  • 日本の民間タンカーに世界が驚愕
  • 民衆に希望と勇気を与えた快挙
  • 石油メジャーも驚いた

日章丸事件とは日本の民間会社が、当時イギリスの支配下にあったイランから石油を輸入した事で生じた国際的な紛争の事です。 イギリスの包囲網を突破した日章丸は、まだ敗戦ショックを引きずっていた日本人に大きな勇気と自信を与えます。 また、産油国と直接取引したことで、石油メジャーの市場独占にも一石を投じる事となりました。

日章丸事件の概要

出光興産の出光佐三は、戦後日本の成長には安定したエネルギー供給が不可欠であると考えます。 そこで、当時イギリスに支配されるイランと占領下にあった日本とを重ね合わせ、タンカー日章丸を使ってイランより石油を輸入する事を決断します。無時帰還した日章丸の快挙は、国民に勇気を与え、その後の日本高度経済成長へと繋がっていきます。 では、その詳細を順を追って見ていきます。

1953年に起きた石油輸入に関する訴訟など

イランから石油を持ち帰った事で、イギリスは日本に対して激怒します。 1953年イギリス石油メジャーのアングロ・イラニアン社は、石油の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴します。「英国」対「日本企業」の構図に日本国民は沸き立ちます。 当時アメリカはイギリスの振る舞いを快く思っていなかった為、沈黙を守ります。結果、出光側の正当性が認められ、アングロ・イラニアン社は、訴えを取り下げます。

イランが1951年に石油国有化を宣言

イランは石油の産油量が世界一でしたが、その開発はイギリスが担っていた為にイランの石油輸出を認めず、その価格も他の中東産油国の3分の1程度でした。 困窮するイランは、1951年油田の国有化を宣言します。それに対してイギリスはペルシャ湾に巡洋艦や駆逐艦を派遣します。イランの石油を購入したイタリアのタンカーがイギリス海軍に拿捕される事件も発生しています。 列強英国の行動に各国とも沈黙します。

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日本は秘密裏に出光をイランに派遣した

政府に知られては国にも迷惑がかかると考えた出光佐三は、独自の判断と責任で行動します。安全な航海の方法、行政に関する事務手続き、国際世論の動向など十分な対策を練ります。1952年、極秘裏に専務の出光計助をイランに派遣します。 当初イギリスの報復を恐れるイランは、日本の民間企業との取引に乗り気ではありませんでしたが、政府要人との面談や長期にわたる粘り強い交渉の末、契約を取り付けます。

交渉の末1953年に新田辰夫船長のもと日章丸出港

1953年3月23日、日章丸は静かに神戸港を出航します。 イラクの石油を買うと分かれば、イギリス海軍から撃沈される恐れがあります。そのために名目上の行先は、あくまでサウジアラビアです。本当の行先を知っていたのは、船長の新田辰夫をはじめ、ほんの数名だけでした。 インド洋を航海中、サウジアラビアに向かうと信じていた船員たちに、はじめてその行先がイラクのアバダンである事が告げられます。

しかし国際的事件に発展する

サウジアラビアを目指していたはずの日章丸が、イランに到着したニュースはすぐに世界中を駆け巡ります。「列強英国に歯向かう日本企業がある」と各国とも大々的に取り上げ、国際事件へと発展していきます。 一方イランに到着した日章丸には時間がありません。数日で石油を積み込んだタンカーは、すぐに帰路に就きます。 日章丸が無事に日本に帰れるかどうかを各国とも固唾を飲んで見守ります。

日章丸は日本への帰還に成功した

石油を積んだ日章丸の帰路は危険と背中合わせです。一刻も早く帰らなければ拿捕される可能性が高かったからです。もちろん撃沈される恐れもあります。 面目をつぶされたイギリスは日章丸の航行ルートを予想し、イギリス海軍が海上封鎖を試みます。 しかし日章丸は、イギリス海軍の裏をかき、往路とは違うルートを使いまるで海賊のような運航方法で日本を目指します。 そして1953年5月9日、日章丸は無時に川崎港に戻ってきました。

 

日章丸事件のそれぞれの反応

日本政府は「サウジアラビアに向かっていたはずの日章丸がイランで石油を買い付けていた」という事実をイギリスから外務省を経由して初めて知ります。 イギリスから日本政府への猛抗議、日英が揉めている最中の6月7日、日章丸は再びアバダン港に到着し、またしてもイランから石油を買付けています。国民の歓喜の渦の中、出光の行動は正当化されていきます。

イランの反応

日章丸は、イラン国民より熱狂的な歓迎を受け地元新聞にも大きく取り上げられています。 当時石油メジャーはイランの油田国有化が中東諸国に広がることを恐れ、協力してイランの石油価格を安く設定していました。イランは自国の石油を輸出する事を禁止されて利益を得る事ができない状況でした。 そんな中、日本の民間会社が危険を顧みず、自国の石油を買付けに来てくれた事に大いに感謝します。この日章丸事件がイランの親日感情にも影響しています。

その他海外の反応

第二次世界大戦が終わって戦勝国と敗戦国が明確に色づけされ、各国の優劣が正当化されていく時代でした。海軍の武力を背景に、独自の論理を押し通すイギリスには、閉口していた国も数多くありました。 報復を恐れイランの石油を輸入できなかった国にとっては「日章丸事件」は、痛快なドラマに思えたでしょう。 イギリスに手を焼いていたアメリカが、日本側に付いた事も有利に働きました。

日章丸事件のその後

この事件が、国際社会に与えた影響は計り知れません。それまで石油メジャーが牛耳っていた石油の利権を中東産油国から直接取引する前例となったからです。 結果、国際メジャーが独占して決めていた石油価格は下がり、消費者にも大きな恩恵を与えました。それは、出光佐三が望んでいたことです。 しかし、その後のイランでクーデターが発生し、モサデク政権が崩壊した事からイランとの契約は2年を待たずに失効してしまいました。

まとめ

「イギリスから不当な扱いを受けていたイランから石油を購入する事は、正当な取引であり民間人が成すべきことだ」と語っていた出光佐三は、国益を優先できる人物でした。 国に助けを求めず、自らの判断で道を切り開いた彼の目には、今のグローバル化した世界経済は、どの様に映っているのでしょうか。

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