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永山則夫による連続射殺事件の全貌。生い立ちや永山基準などを解説!

もくじ

1分でわかる永山則夫連続射殺事件

  • 犯行当時19歳の少年が起こした連続射殺事件、少年には死刑が言い渡された
  • 永山少年は幼いころ劣悪な家庭環境で育ち、それが事件の要因とされている
  • この事件の裁判で最高裁が示した「永山基準」が後の死刑適用の基準となった

「永山則夫連続射殺事件」をご存じでしょうか。この事件の犯人は犯行当時19歳の少年でした。拳銃による連続殺人で4人の死者を出し犯人は死刑となりましたが、最高裁での判決がのちに「永山基準」として死刑判決の基準とされる有名な判決になります。 それでは事件の概要から見ていきましょう。

永山則夫連続射殺事件の概要

「永山則夫連続射殺事件」は半世紀以上も前に起こった殺人事件です。犯人は犯行時少年で4人を殺害しました。 しかし「永山基準」の犯人が当時少年であったということは世間ではあまり知られていません。むしろこの事件のポイントは別のところにあります。では、「永山則夫連続射殺事件」について見てみましょう。

1968年に起きた殺人事件

「永山則夫連続射殺事件」が起きたのは1968年です。1968年の日本は高度経済成長期の真っただ中でした。 この年日本のGNP(国民総生産)はアメリカについで第2位となり、郵便番号制度の実施、大気汚染防止法や騒音規制法が施行されたのもこの年です。 また犯罪史に名を残す三億円強奪事件が起きました。この頃男性の長髪やミニスカートが流行しており、「永山則夫連続射殺事件」はこういった時代に起こったのでした。

犯人は当時19歳の少年

犯行当時永山則夫は19歳の少年でした。少年法は当時からすでに存在しており、永山則夫は少年法による保護の対象であったわけです。 ただし少年法では18歳未満の少年には死刑が適用されないとされていますが、永山少年は19歳だったので、この保護の対象外でした。 実際被害者から見れば永山少年は死刑が適用されても致し方ない凶悪な犯罪を犯しました。しかし事件にはそれなりの背景もありました。次に永山則夫がどういう人間だったかをみてみます。

犯人・永山則夫

永山則夫の人生はその生い立ちや獄中での生活などが特殊であり、インパクトが強いものとなっています。まさにそれがこの事件のポイントであるといえます。 どういう事件を起こしたかの前に、永山則夫がどういう人生を歩んできたかを先に紹介しましょう。

永山則夫の生い立ち

永山則夫は1949年6月27日北海道網走市で8人兄弟(4男4女)の4男として生まれました。その生い立ちはまさに地獄のような半生だったといえます。 父親は博打に狂い家庭は崩壊状態でした。そんな状況に耐えられず、母親は子供を残して家を出ます。残された兄弟は港に落ちていた魚を拾って食べたり、ごみ箱を漁ったり、飢餓寸前の生活でした。 その後母のいる青森へ引っ越しますが、中学校ではいじめにあったり、家出をしたりして学校にも行かなくなったそうです。

刑務所内での永山則夫

永山則夫が犯罪で逮捕されたとき、読み書きも困難な状態であったそうです。家庭教育はおろか、まともに学校教育も受けていなかったからです。 また逮捕時自分は死ぬつもりであったことや、犯行動機は国家権力への挑戦と証言するなど精神的にも荒廃していました。 その後刑務所内で独学で識字ができるようになり、執筆活動に励み、いくつかの作品を出版しました。永山則夫は生きる希望を持つことができるほどになったのです。

獄中結婚

永山則夫の手記「無知の涙」を読んだ沖縄出身の米国に住む女性が自身がかつて「無国籍」だった事情などから作品に感銘を受け、彼に手紙を書きます。 二人は文通を始めのちに面会を行うようになりました。そして拘置所の面会室で結婚式を挙げるまでの間柄になりました。 のちに裁判の過程で離婚をしますが、2人が拘置所でやり取りした文通は461通にも及びます。また永山則夫の死刑執行後遺言に従い故郷・網走の海に遺骨をまいたのは、この女性でした。

小説「木橋」が新日本文学賞を受賞

永山則夫は、自身の自伝的小説のほか多くの著作を出版するようになり、1984年に出版された小説「木橋(きはし)」は、第19回新日本文学賞を受賞しました。文才があったということでしょう。 新日本文学賞は1961年~2004年にかけて新日本文学会の機関誌「新日本文学」において発表された賞で、新しい文学者の発掘に貢献しました。 獄中から手記を書く死刑囚は多いと聞きますが、受賞するほどの作品を書いた永山則夫は稀な例であるといえるでしょう。

永山則夫が起こした4件の殺人

永山則夫が起こした事件は凶悪なものでした。彼の生い立ちや逮捕後の激変ぶりを考えると、とても残念な事件でした。 凶器を手にしたことで彼の中に潜んでいた残忍さに火がついたのでしょうか。彼は次々に凶器を使用してしまいます。彼が起こした事件について見てみましょう。

約1ヶ月の間に犯行が行われた

1968年10月8日永山則夫はアメリカ軍横須賀基地に侵入しました。動機はアメリカ兵に撃たれて死んでも構わないというやけっぱちな感情でした。その際忍び込んだ兵士の家で小さな拳銃を見つけます。 その数日後彼は最初の殺人を犯します。東京プリンスホテルの敷地内で不審者扱いされ、取り押さえようとしたガードマンに発砲して死亡させます。 それからわずか1ケ月の間に計4件の殺人事件を起こします。しかも、犯行場所は東京以外で、京都、函館、名古屋と転々としていました。

1969年に逮捕

同年10月14日永山則夫は京都で野宿しようと神社にいたところ、見回りの男に見つかり警察に連れて行かれそうになったため射殺します。 また10月27日には函館で、11月5日には名古屋で、それぞれタクシー運転手を射殺します。その際永山は売上金を強盗していました。 その場しのぎの無計画な犯行を繰り返した永山則夫は逃走を続けますが、翌1969年4月に逮捕されます。

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永山則夫の裁判〜刑執行

永山則夫は逮捕され裁判を受けることになります。しかし元々死ぬ気があった彼は心を開くことがなく、裁判は難航します。 裁判は紆余曲折します。後の殺人事件の裁判に大きな影響を与えることになる「永山基準」を生んだ裁判の経緯を見ていきましょう。

1審では死刑判決

当初永山則夫は早く死刑にしてくれと一切何も語らず、国選弁護人で裁判が進みました。しかしノートには日記のように思いを一生懸命綴りました。 それをマスコミが目にし、このまま少年を死刑にしてはいけないという機運が高まり、弁護団が組まれます。なぜ罪を犯したのかの解明に時間を要し、第一審判決までおよそ10年要します。 死刑を回避しようと弁護団が活動しましたが、東京地裁で出された第一審の判決は死刑でした。

控訴審で無期懲役に

永山則夫は判決を不服として東京高裁に控訴します。もともと永山則夫は逮捕時からずっと死ぬ気だったので、控訴したのには弁護士や獄中結婚した奥さんなど周りの者の影響があったのでしょう。 一審判決後被害者の遺族に慰謝するため彼が勾留中に書いた本の印税を送り届けました。担当弁護士が永山の奥さんと一緒に回り、4人のうち2人は印税を受け取ってくれたそうです。 控訴審の裁判官は更生を期して酌量減刑をし、東京高裁の控訴審では永山則夫に無期懲役の判決が下されました。

最高裁が差し戻し死刑判決

しかし今度は検察側がこれを不服として最高裁に上告します。第一審の死刑が控訴審で無期に変わり、それに対して検察側が上告するのは稀なケースで、戦後初めての事例だったようです。 控訴審の判決は最高裁で破棄され控訴審に差し戻されます。このとき最高裁が示した死刑適用基準は「永山基準」と呼ばれ、後の刑事裁判においての死刑選択基準として採用されることになります。 差し戻し後の控訴審裁判で東京高裁は無期懲役判決を破棄して、永山則夫に死刑判決を出します。

永山則夫が上告するも死刑確定し1997年に執行

永山則夫には生きる希望が見えてきていたわけですから、残酷な結果になったといわざるを得ません。永山則夫はあらためて最高裁に上告しますが、上告は棄却され1990年に死刑判決が確定します。 このときの判決で家庭環境の劣悪性は同情に値するが、他の兄はまともに育っており生育環境の劣悪性が4人殺害の決定的な原因とは認定できないとされました。 永山則夫の死刑は1997年に執行されました。なおこの年の春、酒鬼薔薇事件が起きています。

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永山則夫連続射殺事件のその後や影響

「永山則夫連続射殺事件」は、その後の社会に多くの影響を残しました。「永山基準」は多くの裁判で引用されますが、常にその妥当性が問われています。 また、このときの裁判でなされた「石川鑑定」は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の理解の先駆であるといわれています。

永山基準

「永山基準」は裁判所が死刑を検討する際のよりどころとするもので、1983年7月の最高裁判決で示されました。 9の項目からなり、特に殺害の数に着目しています。 最終的にはこれらを総合的に評価して死刑判決を出すかどうかが決められますが、これ以降原則複数死者が出ないと死刑判決が出ないという運用が行われています。

精神科医・石川義博

第一審裁判の公判では永山則夫本人が何もしゃべらず、刑事が想像で作った調書しかなかったため、事実関係がほとんど整理できませんでした。 しかし、精神科医・石川義博による緻密なカウンセリングがされ、幼少時に受けた極限の経験が人格形成に影響を与え、脳に疾患があることを突き止める鑑定がなされました。 まだ、PTSDという言葉も普及してない時代にこのような鑑定がなされたのは驚きです。結果的に石川義博の精神鑑定は採用されず、その後の石川医師は精神鑑定の依頼は全て断ったといわれています。

まとめ

「生きたいと思わせておいてから、殺すのか。」永山が語ったとされる言葉です。彼には更生の余地があり、生きて被害者に償う途もあったのではないかと思えてなりません。 基準をいくら示しても、それをうまく適用しなければ何の意味もありません。死刑制度を存続させる日本において、この事件は風化させてはならない事件です。

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