三越事件とは岡田茂の三越の独裁経営が原因の事件

「三越事件」は当時社長だった岡田茂による独裁的経営によって、我が国を代表する老舗百貨店である三越百貨店が私物化された特別背任事件です。 岡田は社長に就任するや自分に批判的な人物を次々と遠ざけ、早々と独裁体制を敷きます。不明瞭な経理処理によって会社を私物化し、会社に大きな損失を与えます。岡田と愛人関係あった竹久みちも三越内で存在感を強め「三越の女帝」とまでいわれるようになりました。 「三越事件」はやがて劇的な社長解任劇で幕を閉じますが、会社のガバナンス体制の重要性を改めて世に示しました。
三越事件の概要

正に映画や小説に取り上げられる要素が多かった「三越事件」ですが、改めて事件の全体像を見ていきましょう。 主な登場人物は社長の岡田茂とその愛人竹久みちです。事件を最初にあぶり出したのは、1982年4月に出された週刊朝日の「三越・岡田社長と女帝の暗部」という記事でした。
三越社内での独裁経営。岡田天皇と呼ばれる
岡田は1972年に三越の社長に就任します。岡田は社長に就任するや自分に批判的な都合の悪い人物を次々と左遷させ、やがて岡田天皇と呼ばれる独裁体制を確立します。 当時岡田の最大のライバルと目されていたのは常務の坂倉芳明(いたくらよしあき)氏でした。岡田はこの坂倉氏を追放します。追放された板倉氏は「西部流通グループ」を率いていた堤清二(つつみせいじ)氏の誘いを受けて西武百貨店の副社長に就任しました。 独裁体制を敷いた岡田は取引業者への不当な協賛金の要求や押しつけ販売に加えて不明瞭な経理処理を行い、次第に会社を私物化していきました。
岡田茂の愛人である竹久みちが「三越の女帝」と呼ばれるように
もう一人の登場人物は竹久みちですが、竹久みちはペンネームです。本名は「小島 美知子(こじま みちこ)」で、竹久は竹久夢二にあやかってつけたようです。 竹久は当時三越の宣伝部長だった岡田と知り合います。岡田が三越の社長に就任すると竹久の経営する「アクセサリーたけひさ」などは三越の大口納入業者になり、竹久は多額の利益を得るようになります。やがて竹久は岡田の寵愛をバックに三越内で勝手気ままに振る舞うようになり、ついには社内人事にまで口を出すようになります。 竹久は「三越の女帝」とまでいわれるようになりますが、岡田の失脚により三越内で居場所を失い、やがて岡田とともに逮捕されることになります。
竹久みちの経営する「アクセサリーたけひさ」に不当な利益を計上させていた
竹久はもともと服飾デザイナーでした。旧制共立女子専門学校生活科(現在の共立女子大学)を卒業後、文化学院デザイン科で服飾デザインを学びます。 竹久は文化学院在学中から銀座で「ヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰し、上野松坂屋や銀座松坂屋などの大手百貨店とも取引きを始めます。アクセサリーの専門家としてマスコミでも話題となりTV各局に出演します。 そのような中で竹久は岡田の寵愛を得るようになり、最初は三越本店にアクセサリーコーナーを持つだけだったのが次第にテリトリーを広げ、自身が経営する「アクセサリーたけひさ」などは岡田の手引きで不当な利益を計上するようになります。
三越の取引先に対する独占禁止法の違反
岡田は三越の納入業者に対して日本映画「燃える秋」の映画前売券等の購入を強要したり、三越商品の押し付け販売をするようになりました。さらには三越と付き合いのある会社に協賛金や社員の派遣を強要し、様々な催し物の費用負担を押しつけました。 これらの行為に対して、三越は「優越的地位を濫用した不公正な取引に該当する」として、独占禁止法第19条の審決を受けることになりました。 大和運輸(現在の「ヤマトホールディングス」)は創業直後から三越の契約配送業者でしたが、三越からの不当な要求があったことに加えて配送料金の値上げを拒否されたことから、三越との配送契約を解除しました。
古代ペルシア秘宝展の高価な商品が模作されたものだった
1982年8月三越日本橋本店で「古代ペルシア秘宝展」が開催されました。ここには47点の古美術が出品されましたが、開幕直後からこれらの大半が贋作(がんさく)だとの非難の声が専門家からあがりました。 この「古代ペルシア秘宝展」を事実上仕切ったのは国際美術の渡邊社長でした。渡邊社長は出品古美術のほぼ全てが贋作だと始めから知っていたことが明らかにされています。渡邊社長は岡田と親密な関係にありました。 この事実が朝日新聞社の報道により判明し、岡田は不祥事の引責辞任を迫られましたがけんか腰でこれを拒否します。
岡田茂は取締役会で解任される

「古代ペルシア秘宝展」の贋作問題による岡田の引責辞任をリードしたのは、三越の社外取締役だった三井銀行(現在の三井住友銀行)相談役の小山氏でした。これ以後小山氏ら三井グループ各社の幹部や三越内部の反岡田派は岡田おろしの動きを強めます。 1982年9月の取締役会で突如岡田の社長職と代表権を解くことに賛同する者の起立が求められ、14人の取締役が起立しました。驚いた岡田は「何だこれは!」と叫び食い下がりましたが、改めて発議された動議が全員一致で可決成立し岡田は非常勤取締役に降格となりました。 役員陣はその後記者会見を開き岡田の解任を公表しました。全てが決した際に岡田が力なくつぶやいたとされる言葉「なぜだ!」はこの年の流行語となりました。
三越事件の裁判と判決

「三越事件」の顛末を見てきました。現在においても似たような事件が起こっており、フラッシュバックを見ているようですね。 それでは最後に岡田と竹久が裁判でどのような裁きを受けることになったのか見てみましょう。
岡田茂は特別背任罪で実刑判決
岡田と竹久は19億円の特別背任罪の容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕されました。 裁判の結果、東京高等裁判所は岡田に懲役3年の実刑判決をいい渡しました。 岡田は最高裁に上告しますが、上告中の1995年7月腎不全で死去したため公訴棄却となりました。80歳でした。
竹久みちも特別背任罪で実刑判決
岡田とともに特別背任罪の容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された竹久は最高裁まで争いました。 結果的には最高裁で懲役2年6月、罰金6,000万円の実刑判決が確定しました。 竹久は栃木刑務所において1年6ヶ月服役しました。出所後は新たな会社を設立しアートフラワーの販売を続けましたが、岡田の死から14年後の2009年7月に病気のため東京都内の病院で死去しました。79歳でした。
現代でも度々起きる特別背任罪の事件

「三越事件」の経緯やその後の顛末まで見てきました。この「三越事件」以後も我が国で似たような特別背任事件が起こっています。 あの日本を代表する老舗百貨店の三越でもこのようなことが起こったのです。まさかそのようなことはないだろうと思える大企業でもこのような事件は起こりえるのです。しっかりとしたガバナンスの重要性を改めて思い知らされる事件でした。