三鷹事件とは
1分でわかる三鷹事件
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三鷹駅を発車した無人列車が脱線し追突した事件
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国鉄の労働組合が抗議のために無人電車を暴走させた
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6名が死亡し20名が負傷し竹内景助が逮捕された
第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で起こった日本国有鉄道にまつわる事件が立て続けに起こりました。「三鷹事件」もその一つで、無人列車が暴走して起こった脱線事故のことです。
鉄道三大事件の一つ
「三鷹事件」は、1949年7月15日に起こった日本国有鉄道三大事件の一つです。同年7月6日に起こった「下山事件」、同年8月17日に発生した「松川事件」と共に鉄道三大事件と呼ばれています。 鉄道三大事件が起こった背景には、当時の国鉄が約10万人にのぼる人員整理を進めようとしていたことがあります。その際に人員整理の対象とされたのが、共産党員とその支持者です。当時の国鉄労働組合の組合員には、共産党員が数多くいました。
無人列車が脱線、追突した事件
「三鷹事件」は、1949年7月15日の夜に起こりました。国鉄三鷹駅の車庫から突然、63系電車4両を含む7両編成無人列車が暴走し下り1番線に進入したのです。暴走列車の時速は60㎞程度で、スピード止めに激突し車止めを突き破って脱線しました。 脱線した列車は線路脇にあった商店街に突っ込み、民家や交番に衝突してから転覆しました。その結果、商店街の利用客や通行客が巻き込まれ、死者6名・負傷者20名を出す大惨事となったのです。
三鷹事件の概要
「三鷹事件」は、鉄道三大事件の一つである「下山事件」から日をおかずに実行されました。2つの事件が起こる直前であった1949年7月4日には、下山国鉄総裁が3万人もの従業員に対し解雇通告していました。 ここでは「三鷹事件」がどんな理由で起こったのか、その概要を説明します。
国鉄の労働組合員により起きた事件
「三鷹事件」は、国鉄労働組合の組合員によって起きた事件とされています。 その背景には、日本国内における共産党の台頭があります。アメリカを中心とする連合国軍は、日本の共産化を警戒していました。そこでその後に始まるレッドパージを先取りするかのように、共産党員やその支持者が多かった当時の国鉄における人員整理を迫ったのです。 国鉄労働組合は全日本産業別労働組合会議と共に、人員整理に対する頑強な抵抗を示唆していました。
無人電車による事故を起こし国鉄に抗議することを企てていた
国鉄労働組合の抵抗もむなしく、1949年7月4日に下山国鉄総裁は3万人の従業員に対し解雇通告を決行しました。その直後に「下山事件」が起こり、下山国鉄総裁が轢死体(れきしたい)となって発見されます。 しかしそれで人員整理が取りやめになることはなく、国鉄労働組合員の一部が無人列車で事故を起こすことで国鉄に抗議する計画を企てたとされています。その計画に加担したとして、10名の共産党員と1名の非共産党員が後に逮捕されました。
無人列車を暴走させた
「三鷹事件」では無人列車を暴走させ、意図的に事故を起こしました。その方法は運転台にある速度制御装置のハンドルを紙ひもで固定し、列車を発車させる直前に運転士が飛び降りたとされています。またその際、先頭車両のパンタグラフを上げていました。 列車は時速60㎞のスピードを保ったまま暴走し、下り1番線の車止めを突き破って脱線・転覆。その後、車両は商店街に侵入して民家や交番に激突しました。
三鷹事件の被害
「三鷹事件」は鉄道三大事件の中で最も、死傷者が多かった事件でもあります。その被害は三鷹駅構内ではなく、脱線列車が突っ込んだ商店街に及びました。
三鷹事件とは
- 三鷹駅を発車した無人列車が脱線し追突した事件
- 国鉄の労働組合が抗議のために無人電車を暴走させた
- 6名が死亡し20名が負傷し竹内景助が逮捕された
第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で起こった日本国有鉄道にまつわる事件が立て続けに起こりました。「三鷹事件」もその一つで、無人列車が暴走して起こった脱線事故のことです。
鉄道三大事件の一つ
「三鷹事件」は、1949年7月15日に起こった日本国有鉄道三大事件の一つです。同年7月6日に起こった「下山事件」、同年8月17日に発生した「松川事件」と共に鉄道三大事件と呼ばれています。 鉄道三大事件が起こった背景には、当時の国鉄が約10万人にのぼる人員整理を進めようとしていたことがあります。その際に人員整理の対象とされたのが、共産党員とその支持者です。当時の国鉄労働組合の組合員には、共産党員が数多くいました。
無人列車が脱線、追突した事件
「三鷹事件」は、1949年7月15日の夜に起こりました。国鉄三鷹駅の車庫から突然、63系電車4両を含む7両編成無人列車が暴走し下り1番線に進入したのです。暴走列車の時速は60㎞程度で、スピード止めに激突し車止めを突き破って脱線しました。 脱線した列車は線路脇にあった商店街に突っ込み、民家や交番に衝突してから転覆しました。その結果、商店街の利用客や通行客が巻き込まれ、死者6名・負傷者20名を出す大惨事となったのです。
三鷹事件の概要
「三鷹事件」は、鉄道三大事件の一つである「下山事件」から日をおかずに実行されました。2つの事件が起こる直前であった1949年7月4日には、下山国鉄総裁が3万人もの従業員に対し解雇通告していました。 ここでは「三鷹事件」がどんな理由で起こったのか、その概要を説明します。
国鉄の労働組合員により起きた事件
「三鷹事件」は、国鉄労働組合の組合員によって起きた事件とされています。 その背景には、日本国内における共産党の台頭があります。アメリカを中心とする連合国軍は、日本の共産化を警戒していました。そこでその後に始まるレッドパージを先取りするかのように、共産党員やその支持者が多かった当時の国鉄における人員整理を迫ったのです。 国鉄労働組合は全日本産業別労働組合会議と共に、人員整理に対する頑強な抵抗を示唆していました。
無人電車による事故を起こし国鉄に抗議することを企てていた
国鉄労働組合の抵抗もむなしく、1949年7月4日に下山国鉄総裁は3万人の従業員に対し解雇通告を決行しました。その直後に「下山事件」が起こり、下山国鉄総裁が轢死体(れきしたい)となって発見されます。 しかしそれで人員整理が取りやめになることはなく、国鉄労働組合員の一部が無人列車で事故を起こすことで国鉄に抗議する計画を企てたとされています。その計画に加担したとして、10名の共産党員と1名の非共産党員が後に逮捕されました。
無人列車を暴走させた
「三鷹事件」では無人列車を暴走させ、意図的に事故を起こしました。その方法は運転台にある速度制御装置のハンドルを紙ひもで固定し、列車を発車させる直前に運転士が飛び降りたとされています。またその際、先頭車両のパンタグラフを上げていました。 列車は時速60㎞のスピードを保ったまま暴走し、下り1番線の車止めを突き破って脱線・転覆。その後、車両は商店街に侵入して民家や交番に激突しました。
三鷹事件の被害
「三鷹事件」は鉄道三大事件の中で最も、死傷者が多かった事件でもあります。その被害は三鷹駅構内ではなく、脱線列車が突っ込んだ商店街に及びました。
民家や商店街を破壊
三鷹駅構内に入庫していた無人列車はハンドルを固定され、時速60㎞のスピードで暴走しました。三鷹駅下り1番線に進入した列車は車止めを突き破った後、脱線・転覆します。そして転覆した車両が、線路脇にあった商店街に侵入してしまいました。 脱線・転覆しながら突っ込んだ車両は、商店街にあった民家や交番に激突し建物を破壊しました。
6名が死亡、20名が負傷
「三鷹事件」が起こったのは当時の夏時間で21時23分(現在の20時23分)で、商店街には利用客や通行客がいました。そこに脱線・転覆した車両が侵入し、下敷きとなった人が多数出てしまいました。 その事故で19歳から54歳までの男性6名が車両の下敷きとなり即死。商店街の建物が破壊されたこともあり、負傷者が20名も出ました。
犯人・竹内景助と判決
「三鷹事件」は鉄道三大事件の中で唯一犯人が逮捕されています。1949年8月に逮捕されたのは、国鉄労働組合に所属する共産党員10名と非共産党員1名でした。同年8月22日にアリバイが成立した共産党員1名を除く9名が起訴されましたが、その判決は意外なものでした。
竹内景助
「三鷹事件」の逮捕者において、非共産党員だったのが竹内景助でした。竹内は9名の共産党員と共に、「三鷹事件」の実行犯として起訴されます。 1950年8月に東京地方裁判所で第一審の判決が言い渡され、非共産党員である竹内景助の単独犯行として無期懲役としました。罪状は「従来危険電車転覆致死罪」です。 一方9名の共産党員に対しては「竹内景助と共同謀議があったとはいえない」として、裁判官が無罪判決を下しました。
死刑が求刑される
第一審判決を不服とした検察は、関係者10名全員の有罪を求めて控訴しました。しかし1951年、東京高等裁判所は竹内景助のみ検察側控訴を受け入れ、残る9名は棄却します。それにより、共産党員9名の無罪が確定しました。 一方の竹内景助に対しては、書面審理だけを行ったうえで第一審の無期懲役判決を破棄し、死刑判決を下しました。
竹内景助は冤罪を訴え再審請求
竹内景助の弁護人は無罪を主張し、正当に第二審を行わずして死刑判決が下されたこともあり最高裁判所に上告します。しかし最高裁判所でも口頭弁論を開くこともなく、1955年6月22日に竹内景助に対し死刑判決を支持。刑が確定しました。 その後、竹内景助は無実を訴えて再審請求を行います。そして文藝春秋誌などに投稿し、陰謀説を訴え冤罪(えんざい)であると主張しました。
竹内景助は病死した
死刑確定後に無罪を訴えて再審請求を続けていた竹内景助は、その後脳腫瘍を発症します。そして1967年、再審が認められないまま脳腫瘍で病死しました。 竹内景助が亡くなったとき、再審請求審理は終盤に差し掛かっていました。しかし検察側に「2週間待ってほしい」といわれ、審理が止まっていたとされています。 また脳腫瘍にかかっているにも関わらず、拘置所内で治療することなく放置され竹内景助は亡くなっています。残された夫人に対して「悔しいよ!」と言い残したそうです。
まとめ
鉄道三大事件の一つであり、その結末も不可解な「三鷹事件」について説明してきました。 「三鷹事件」は竹内景助の長男が2011年11月10日に、2回目の再審請求を申し立てています。また2018年11月24には「三鷹事件の真相を究明し、語り継ぐ会」という市民グループが集会を開いています。今後も真相解明に向けて経緯を見守りたいところです。