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三里塚闘争とは成田空港の開港で起きた政府と民間人の闘争。時代背景やその後の影響とは?

もくじ

1分でわかる三里塚闘争

  • 成田国際空港建設に反対する地域住民による反対運動
  • 航空輸送の需要拡大が背景
  • 公共事業の進め方に大きな影響を与えた

「三里塚闘争」とは1960年代中盤に勃発した、成田国際空港建設に反対する地域住民を中心とした反対運動です。 1977年に開港した成田空港は世界115都市及び国内22都市を結ぶ、まさに日本を代表する国際拠点空港であり年間4千万人の人々が利用しています。 しかしその開港にあたっては地元住民と政府当局の激しい対立の歴史があり、多くの犠牲者を出したばかりかその後の公共政策にも大きな影響を与えたのです。

三里塚闘争の起きた三里塚は牧場や農地であった

「三里塚闘争」の舞台となった千葉県成田市三里塚は牧場経営や農業で栄えた地域ですが、その歴史は第二次世界対戦直後の1946年に遡ります。 当時の日本では戦後開拓が進められており、その一環として三里塚も開拓が進められましたが入植者の多くは戦地からの引き揚げた者など他地域から入ってきた人々でした。 彼らは「新窮民(しんきゅうみん)」と呼ばれ、過酷な環境下での開墾作業を強いられ多くの脱落者を出しますがやがて生計を立てられるまでに成長・拡大しました。

農地の人々は貧しい生活を送っていた

新窮民と呼ばれる人々は裸一貫で三里塚に入植した人がほとんどでしたから生活基盤などなく、昼間は地元農家で小作の仕事を請け負い、ギリギリの状態で生計を立てていたのが実情です。 そのため開墾作業は夕方から夜間に限られる上、十分な道具も持っていなかったため困難を極めることになりました。 さらに電気や水道もない藁小屋での生活を余儀なくされており、まさに極貧状態の中で必死で自分たちの農地を切り開いたのです。

三里塚闘争の背景

「三里塚闘争」の背景には大型輸送機による航空輸送の需要が一気に高まり、現存する羽田空港だけでは対応しきれなかったことがあげられます。 高度経済成長期を経て日本は先進国の仲間入りを果たしましたが、航空輸送において遅れをとってしまうと国力の低下は避けられないことから、政府は早急に新空港予定地を探さなくてはならなかったのです。

航空の需要が急速に拡大していた

「三里塚闘争」が勃発する1960年代後半は航空機技術の大幅な発達により、ジャンボジェット機が続々と導入され航空機による大量輸送がトレンドとなりつつありました。 そのため高度経済成長期にあった日本においても航空需要が急速に拡大しており、1970年には最新鋭の大型ジャンボジェット機ボーイング747が導入されホノルル線が就航しました。 日本政府としても経済成長をさらに促進させて世界各国に対抗していくためには、この流れに乗り遅れるわけにはいいきませんでした。

羽田空港のキャパシティをオーバーしそうであった

羽田空港は1931年に開港した日本最大の空港ですが、1960年代初頭から急増する航空機の大型化や航空機輸送に対応困難な状況でありキャパシティ・オーバーは避けられませんでした。 そのため空港設備の拡張・増設が検討されましたが、空港周辺は住宅が密集しているだけでなく海上輸送の拠点でもあったことから断念せざるを得ない事情がありました。 つまり羽田空港に変わる新空港の建設は、当時の日本政府にとって至上命題ともいえる大きなミッションとなったのです。

三里塚の前は富里村が用地として検討されていた

羽田空港のキャパシティ・オーバーが目前に迫る中日本政府はさまざまな候補地を検討しますが、新空港は約2,300ヘクタールにも及ぶ世界最大級規模であり適切な場所は簡単には見つかりませんでした。 そういった状況の中千葉県浦安、茨城県霞ヶ浦、千葉県富里村の3箇所が候補地として浮上し、最終的には千葉県富里村に絞り込まれるのです。

住民の反対が大きくなり富里村での空港建設は断念

1965年11月少しでも早く新空港の建設を実現したい日本政府は、突如富里村を新空港建設地に内定したと発表します。 しかしこの当時新空港建設は騒音問題や立ち退きの問題が取り沙汰されており、候補地に噂された地域では反対運動が盛り上がっていましたが富里村も例外ではありませんでした。 そのため突然の内定発表は大きな波紋を広げ、富里村と隣接する八街村では抗議運動が激しくなるだけでなく地方公共団体さえもその決定プロセスに不快感を表したのです。

国有地の割合が大きい三里塚に空港建設することに決定

予想を遥かに超える抗議運動によって政府の地元住民に対する立ち退き交渉は難航を極める中、1966年にはデモ隊が千葉県庁に乱入する事件が勃発します。 一方羽田空港では空港施設の不備を一因とする航空事故が相次いで発生し、もはや新空港建設は一刻を争う大問題になっていました。 そのため政府は当初案の変更を余儀なくされ、空港施設の規模を大幅に縮小するとともに建設地を国有地の割合が多い三里塚にすることを決定します。

住民による三里塚闘争が勃発

1966年7月三里塚が新空港建設地に正式に決定しますが、そのプロセスにおいて政府は知事や市長との協議は行ってきたものの地元住民には一切説明していません。 そのため報道で空港建設地に決まっことを知った三里塚及び芝山地区の反対派住民は、三里塚空港反対同盟と芝山空港反対同盟を統一して三里塚芝山連合空港反対同盟を結成しますが、さらに革新野党も抗議運動に参加するようになります。

農地の買収などで政府は好条件を提示

羽田空港のキャパシティ・オーバーが深刻度を増す中、新空港を完成させ何としても国力を向上させたい政府、地方公共団体及び地元住民への説得に奔走します。 そして政府は農地買収においては強制収容を匂わせつつ、思い切った補償策を提示するなど硬軟織り交ぜた交渉を展開していくのです。 とりわけ農地の買取価格については市場の4~5倍の価格を提示したほか、代替地の斡旋や廃業補償など異例ともいえる優遇措置を提案していきました。

条件賛成派が増えた

政府の具体的かつ異例ともいえる手厚い処遇を前にして地元住民の心は激しく揺れ動き、やがて条件賛成派に傾き始める者も増えていきました。 その結果成田市及び芝山市議会は反対決議を撤回したほか、政府が主導する空港公団と条件賛成派団体の間では覚書が交わされ、買収が予定されていた民有地のうち約9割が確保されたのです。 もちろん地域住民の中には土地を離れたくない者や反対派の目を気にする者もいましたが、国からの援助が受けられなくなることを危惧し雪崩式に条件賛成派が増えていきました。

一部の反対派の人々は新左翼の人々と反対運動を続けた

多くの反対派が条件賛成派へと転じる中、これまで反対運動を支援していた革新政党も徐々に離れていきますが、残った反対派たちはより結束力を高めます。 そこで反対派が活路を見出すために共闘したのが、70年安保闘争を背景に過激な活動を展開し1967年に勃発した羽田事件では機動隊と激しく衝突した新左翼党派でした。 新左翼党派としても「三里塚闘争」は彼らが掲げるベトナム戦争反対運動や佐藤内閣への強烈な反抗につながるものと考え、この闘争に加わることを決意します。

反対運動は過激化した

新左翼党派が加わったことにより、座り込みやバリケード、投石といった反対運動はより過激さを増していき事態は泥沼化していく一方でした。 こうした状況に政府は反対派との円満な解決はあり得ないとして、反対派が作った団結小屋や一坪共有地に対する行政代執行を強行します。 これに対して反対派及び新左翼党派は徹底抗戦の構えを見せますが、双方に多数の負傷者を出したばかりか機動隊員3名が死亡し、新左翼政党青年行動隊の中心メンバーが自殺する最悪の事態に陥りました。

三里塚闘争の現在とその影響

「三里塚闘争」は激化の一途を辿り成田空港の開港は再三にわたって延期されましたが、当時の福田総理大臣の大号令により1978年3月にようやく開港する運びとなりました。 その頃になると反対派よりも新左翼党派の力が強くなり始め、それぞれの組織内で内ゲバが起きるなど統制は効かなくなり1983年には反対派は2派に分裂してしまいます。

三里塚闘争は和解に進んでいる

1990年になると反対派の一つである熱田派と江藤運輸大臣が現地で対話を果たしたことで、和解に向けての機運が高まります。 その結果成田空港問題シンポジウムや成田空港問題円卓会議が開催され、改めて運輸省及び空港公団が反対派に謝罪しました。 さらに1995年には村山総理大臣が反対派に対して謝罪したほか、補償の一環として芝山鉄道線の開通を決めたことなどから和解が一気に進んでおり、現在では反対派住民はごくわずかとなっています。

公共事業に対して国は慎重になった

1960年代中盤に勃発した「三里塚闘争」は新左翼党派の介入もあり30年という長きにわたって繰り広げられ、多くの犠牲者を出しただけでなく成田空港は当初計画されていた完成形からは大きく形を変えました。 この闘争を教訓に政府は公共事業の推進にあたっては、地域との合意形成を重要視し慎重に取り運ぶように変化しています。 一方公共事業の対象となる地域住民においても、実力闘争ではなく住民投票を導入するなど平和的解決を望むようになりました。

長きにわたった三里塚闘争が与えた成田空港への影響

長きにわたって繰り広げられた「三里塚闘争」は平成になって終焉を迎えましたが、その代償は大きく多くの犠牲者を生み出したほか、成田国際空港は度重なる計画変更を余儀なくされました。 「三里塚闘争」は、いかに国家プロジェクトであろうと地域住民との合意形成なくして成功はあり得ないことが知らしめられた事件であり、その後の公共事業を推進する上で大きな教訓となったのです。

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