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三河島事故は戦後最悪の鉄道事故。多くの死者や負傷者を出した事故の原因や再発防止策とは?

もくじ

1分でわかる三河島事故

  • 1962年5月東京都の常磐線三河島駅構内で列車が脱線
  • 脱線した列車に電車が次々と衝突し三重事故に
  • 死者160名・負傷者296名という大惨事となった

三河島事故の概要

「三河島事故」は1962年5月に東京都荒川区の国鉄常磐線三河島駅構内で発生しました。脱線した列車に次々と電車が衝突していった多重事故で、多くの死傷者を出しています。後続列車の衝突がなければ、ここまで被害が拡大しなかったことは明らかです。

常磐線の三河島駅にて起きた脱線事故が発端

事故が発生したのは、1962年5月3日の21時37分頃でした。常磐線三河島駅構内の下り線で、水戸行きの第287貨物列車が停止信号を見落としたのが発端です。 貨物列車は停止位置を通り過ぎたものの安全側線に進入し、下り本線まで入り込むことはありませんでした。しかし貨物列車のスピードが出過ぎていたため、安全側線で停止することができず車止めに突っ込み脱線したのです。 その結果、貨物列車は本線側に傾いてしまいました。

脱線した列車に後続の列車が追突し脱線

1962年5月3日21時36分、取手行きの2117電車が4分遅れで三河島駅を出発していました。そして第287貨物列車が脱線した10秒後、電車は止まることなく、貨物列車に電車が衝突したのです。 衝突により電車の先頭2つの車両が脱線し、車体が傾斜した状態で停止しました。この時点では貨物列車と電車は全面衝突には至っておらず、電車の中の乗客も無事でした。 電車には多くの乗客が乗っていました。衝突後、電車から出ようと非常用扉から脱出をはかりました。そして上り本線の線路上を歩き始め、最寄りの駅を目指します。この脱出行為が結果として犠牲者を出すことにつながります。

その後さらに後続からきた列車が避難中の乗客をはね、前の列車に追突

1962年5月3日21時36分に起きた衝突事故は直ちに上司に報告されましたが、上り本線を走行する列車を止めるのが遅れました。 同日21時42分に事故発生を知らない上野行き2000電車が、三河島駅に近づきます。そして線路上を歩いていた乗客を、次々はねたのです。 そして2000電車は、脱線していた2117電車の先頭車両と衝突しました。

死者は160人、負傷者は300人近く

「三河島事故」では死者が160名、負傷者が296名出ています。 亡くなった原因は第三の衝突事故によるもの、第二の事故後に線路上で電車にはねられたものが大半です。中には2000電車の車両から出た乗客が、高架下に転落したケースもありました。

三河島事故の原因は複数存在

三河島駅で第二の事故が起こった時には負傷者は25名いたものの、死者はいませんでした。しかしそれが、多くの死傷者を出す多重衝突事故になってしまったのです。 「三河島事故」を検証したことで、原因が複数あったことがわかっています。

貨物列車の運転士の停止信号の見落とし

事故の発端は、貨物列車の運転士がイレギュラーな停止信号を見落としたことだと言えます。事故が起こる1962年5月3日の早朝、東北地方で地震がありました。さらに異なる脱線事故も起こっており、それらの影響を受けて夜になっても東日本一体の電車の運行は乱れていました。 そして事故の発端となった貨物列車は、通常なら三河島駅を通過します。信号が「停止」を示すことはなかったのです。運転士は停止信号が出ているなんて、思いもしなかったのでしょう。 しかしその日は先を走る電車の出発が遅れており、その貨物列車は三河島駅で待機しなければなりませんでした。貨物列車の運転士は停止信号に気づくことなく、スピードをゆるめず走り続けます。結果、スピードをコントロールできず止まりきれなかった貨物列車は脱線します。

事故が後続列車に連絡されず

1962年5月3日21時37分に第287貨物列車と衝突事故を起こした2117電車は、架線からパンタグラフが外れたことで停電していました。そのため車掌が社内電話を使うことができず、外に出て連絡をとろうとします。 事故現場から100mのところに三河島駅信号扱所があり、係員は事故発生を受けて下り本線の信号を赤に切り替えます。そのうえで三河島駅の助役に連絡を入れ、その後助役も関係各所に連絡を入れていました。 しかしその情報が、2000電車の運転士に伝えられることはありませんでした。

乗客が指示に従わず勝手に外へ脱出

三河島事故で死者の数が増えた原因の一つに、2117電車の乗客が車掌の指示を待たずに勝手に車両から出てしまったことがあげられます。この車両には非常用のドアコックがついており、乗客が扉を開けることができたのです。 1951年に東海道本線の支線であった桜木町駅構内で列車火災が起こっており、逃げ場を失った乗客が焼死するという事故が起こっていました。それにより車両に非常用のドアコックがつけられるようになったのです。 しかし外に出た乗客が線路上を歩いたことで、後続電車に次々とはねられる事態となりました。

三河島事故の被害

「三河島事故」では160名が死亡し、負傷者も300名近くにのぼりました。その被害は大きく、国鉄戦後五大事件に名前を連ねるほどです。しかし事故による被害は、人的なものだけではありませんでした。

身元不明の被害者の遺体も存在

「三河島事故」における死者の中に1人、現在も身元不明の被害者がいます。線路上で電車にはねられた男性で、20代後半から30代くらいの身長163cm・丸顔の方でした。 警察は被害者男性のモンタージュを作成し、全国に公開しました。しかし知人と名乗り出る人もなく、10年を経過したところで身元捜しを諦めたといいます。 その男性は今も、駅にほど近い寺で眠っています。

三河島町が心霊スポットと噂されるように

三河島事故の被害は人だけでなく、三河島町にも及びます。轢死者が多く凄惨な事故現場だったこともあり、町にマイナスなイメージがついてしまいました。 「三河島事故」の現場近くに、かつて死刑が行われていた小塚原刑場跡があったことが災いし「事故は起こるべくして起こった」「死刑場のたたりかもしれない」というような心ない噂も流れたようです。 その後、事故現場で幽霊を見たと言い出す人が増え、三河島町は心霊スポットと噂されるようになりました。

三河島事故を踏まえた再発防止策

「三河島事故」を受けて1962年5月8日に当時の斎藤昇運輸大臣は国鉄に対し、事故運転防止について警告しました。それを受け国鉄では、三河島事故特別対策委員会が設けられています。 そして、事故を踏まえた再発防止策について議論しました。ここでは国鉄が行った再発防止策について詳述します。

事故を知らせる専用の信号を設置

「三河島事故」をきっかけに国鉄は常磐線に乗り入れる車両すべてにまず、事故を知らせる専用の信号を設置しました。具体的には「信号炎管」を取り付けたのです。 信号炎管とは車両内で非常事態が起こった際に、赤色火災により近づいてくる列車に停止信号として認識してもらうものです。 現在は信号炎管の代わりとして、特殊信号発光機が使用されています。

電車の自動停止装置であるATSを設置した

「三河島事故」の再発防止のため、国鉄は自動列車停止装置であるATSを全線に配置しました。もともと計画はあったものの、事故を受けて設置を急ぎ、事故の4年後の1966年に導入が完了しています。 ATSにより運転士が停止信号を見落としたとしても、自動的に車両にブレーキがかかるようになったのです。この事故は貨物列車の運転士が停止信号に気づかなかったことが発端となったため、人的ミスに安全を左右されないための対策が求められた結果でした。

列車に無線が設置された

「三河島事故」の直後は車両内の非常事態を知らせる方法は、信号炎管しかありませんでした。しかしその後、列車防護無線装置が開発されたのです。 国鉄はこの列車防護無線装置を全車両に設置し、これにより運転士との無線交信が可能となりました。

運転士や駅員の教育が強化された

「三河島事故」の前、国鉄は「なるべく電車を止めるな」という方針を掲げていました。しかし大惨事となった「三河島事故」はその方針を、「何か小事故があれば、まず列車を止めよ」に変化したのです。 この指導方針により、運転士は事故発生時には列車並びに電車を止める権限を与えられました。それと合わせて、事故発生時の対応について運転士や駅員への教育が強化されたのです。

三河島事故などの国鉄の五大事故

「国鉄戦後五大事件」とは1949年から1987年まで、国鉄が存在していた際に発生した事故の中でも死傷者が100名を超えた5つの総称です。「三河島事故」「鶴見事故」「桜木町事故」「洞爺丸事故」「紫雲丸事故」が、それにあたります。 ここでは「三河島事故」を除く4つの事故について、詳述します。

鶴見事故

「鶴見事故」は、1963年11月9日21時40分頃に発生しました。東海道本線の鶴見駅と新子安駅の間にある、滝坂不動踏切の近くで起こった列車脱線多重衝突事故を指します。 2365貨物列車が鶴見駅の下り線を4分遅れて出発したのですが、3両目の車両が脱線してしまいます。脱線した3両目にひきずられ架線中柱に衝突したことで、貨物列車が上り線に進入してしまいます。 その列車に上り線を走行していた東京行きの2000列車と、下り線走行中の逗子行き2113列車がほぼ同時に衝突したのです。その結果として死者161名、重軽傷者120名という大惨事となりました。

桜木町事故

「桜木町事故」は、1951年4月24日13時45分に発生しました。東海道本線の支線であった桜木町駅構内で起こった、列車の火災事故のことです。 その日は碍子(がいし)交換工事が行われていたのですが、電気工事作業員のミスで上り線の架線が垂れ下がっていました。そこに1217電車が侵入したことで、架線に先頭車両のパンタグラフが絡まってしまったのです。 絡まったパンタグラフが破損したところに電流の短絡が起こったことで火花が発生し、可燃性の高い塗料に着火して炎上します。その結果として焼死者106名、重軽傷者92名が被害にあいました。

洞爺丸事故

「洞爺丸事故」は、1954年9月26日に発生しました。国鉄が運航していた青函連絡船が、台風15号の影響により沈没したというものです。当時は最新鋭だった洞爺丸は同日18時過ぎに、函館港を出港しました。 昼頃の天気予報で、台風は夕方に抜けると報道していたからです。しかし函館港から5㎞の地点で暴風雨が強くなり、船長は曽於の場で錨をおろし、待つことを選択します。しかし天気予報の情報は間違っており、洞爺丸に台風15号が近づいていました。 暴風雨が強まったことで、積載していた貨物や貨車のバランスが崩れます。そして激しいローリングを経て、22時43分頃に横転・転覆しました。死者・行方不明者を合わせて1,155名が被害にあったのです。

紫雲丸事故

「紫雲丸事故」は全部で5回起こっていますが、1955年5月11日のものを指すことが多いです。同日18時56分頃に、第三宇高丸と衝突して沈没した事故を指します。 同日の瀬戸内海沿岸には、濃霧注意報が出ていました。その視界は50m以下と言われてたのです。同日18時10分には宇野港から大型の貨物車運航船である第三宇高丸が、18時40分には高松港から紫雲丸が出港しました。 18時51分頃には濃霧により視界が100m程度となった時点で、紫雲丸が基準航路を取らずに第三宇高丸に激突したのです。紫雲丸は沈没し、修学旅行中の児童を含めて168名が亡くなりました。

ヒューマンエラーから学ぶ安全対策

現代のようにシステム化されていないことを考慮しても、停止信号の見落としというヒューマンエラーにより多くの犠牲者を出したことは大問題です。 現在国鉄は民営化されていますが、列車事故が無くなったわけではありません。大惨事となった「三河島事故」を教訓に、今後も安全対策に注力してほしいものです。

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