1分でわかる免田事件
- 我が国で初めて死刑判決が再審で覆った冤罪事件
- 警察は拷問を加えるなどして自白を強要した
- 無罪確定後多額の刑事保証金が支払われた
免田事件の概要
免田事件は我が国で初めて死刑判決が再審の結果覆った冤罪(えんざい)事件です。我が国の四大死刑冤罪事件として、財田川事件、松山事件、島田事件と並んで有名な事件です。 1948年熊本県人吉市で祈祷師(きとうし)夫妻が殺害される強盗殺人事件で当時23歳の免田さんが犯人と疑われ別件逮捕され、拷問と脅迫によって自白を強要されました。 免田さんはアリバイを主張しましたが、警察はこのアリバイの証言を歪曲しただけでなく、重要な証拠品の廃棄も行いました。 また、当時免田さんに対する多額の保証金も話題になりました。
祈祷師の夫婦が殺害され娘も負傷した
事件は1948年12月30日の3時頃発生しました。熊本県人吉市に住む76歳と52歳の祈祷師夫妻が殺害され、現金が盗まれました。 同居していた14歳と12歳の祈祷師の娘も同時に重傷を負わされました。 現場検証の結果、事件は1948年12月29日の深夜から30日3時の間に起きたとされ、熊本県免田町在住の当時23歳の「免田栄(めんださかえ)」さんが犯人として疑われました。
免田栄が玄米を窃盗した別事件で逮捕された
1949年1月13日免田栄さんは玄米を盗んだとして窃盗容疑で別件逮捕されました。 そして3日後の16日には殺人容疑で再逮捕されました。免田栄さんの自白を根拠とした再逮捕でした。 些細な罪で別件逮捕し自白を強要して殺人罪で再逮捕するという、最も冤罪事件を生みやすいパターンでした。
免田栄に対し厳しい取り調べ、拷問が行われた
別件逮捕された免田栄さんの取り調べはたいへん厳しいものだったとされています。 3日間にわたり拷問や脅迫が行われ、自白を強要されました。 自白を根拠とした再逮捕後、警察は容疑を固め強盗殺人罪で免田さんを起訴します。
免田栄のアリバイを無視し自白を強要した
一審の公判において自白は強要されたものであり、自分にはアリバイがあると免田さんは無実を主張しました。 事件当日は飲食店の女性と遊んでいたとの主張でした。 警察は免田栄さんの主張であるアリバイを捜査しますが、証人に対して「免田さんと会っていたのは事件の翌日だった」と事実を歪曲するよう誘導します。さらに警察は証拠品である凶器や血痕が付着していたとする免田栄さんの衣類を破棄してしまいました。
免田事件の裁判と判決

免田栄さんが冤罪で逮捕されるまでの経緯を見てきました。このようなことが現実に起こったとはとても信じられませんが、実際に起こったことです。 ここから免田栄さんの長い法廷闘争が続くことになります。
熊本地方裁判所で死刑判決
1950年3月熊本地裁は判決で免田栄さんに死刑判決を下しました。 免田栄さんは控訴しましたが、1951年3月控訴棄却の決定がなされました。 免田栄さんは最後の望みをかけて最高裁に上告しましたが、最高裁も上告を棄却し1952年1月に無実の免田栄さんの死刑が非情にも確定してしまいました。 免田栄さんのアリバイは無視され、証拠品も廃棄されてしまったのです。 証拠品を残しておくと冤罪であることが発覚する可能性があったため廃棄された可能性が高いです。
免田栄には恩赦も適応されなかった
免田栄さんは最高裁で死刑が確定しますが、当時日本はGHQの統治下にあり裁判等に多くの問題がありました。 裁判手続きの公正性や自白偏重の捜査手法、物的証拠の不十分さなどが指摘されており、1968年国会へGHQ統治下に起訴された死刑囚の再審を行う法案が提出されましたが廃案になりました。 その後ときの法務大臣によりGHQ統治下に起訴された死刑囚の特別恩赦の検討が指示されましたが、免田栄さんの恩赦が実現することはありませんでした。
死刑判決から34年後に再審により無罪判決
希望を託して再審請求に取り組んだ免田栄さんでしたが、幾度の再審請求も全て棄却されてしまいました。 6度目の再審請求でやっと再審が認められ、1979年になってついに念願の再審が開始されました。 再審においては免田栄さんの事件当日のアリバイやっと立証されました。 また、証拠品が廃棄されていることや検察が主張する証拠が不十分であることなどから1983年7月事件発生から34年6ヶ月が経過してから免田栄さんに無罪が言い渡されました。
免田事件の刑事補償金は約9,000万
免田栄さんが拘禁されていた31年7か月(日数にして12,599日)の補償金として免田に9,071万2,800円の補償金が支払われました。 補償金の額が膨大であったことから当時その使い方などがマスコミなどで騒がれました。週刊誌報道によれば、免田栄さんは補償金の半分以上を弁護団や支援団体に寄付しています。 免田栄さんは留置されていたため国民年金にも加入しておらず夫婦二人で細々と生活していましたが、世間の目は厳しく他の町に引っ越しせざるを得ませんでした。
免田事件の被害者である免田栄は死刑制度の廃止を訴える
免田栄さんは体力が衰え第一線から身を引くまで、死刑廃止を訴える運動に参加し続けました。 拘置所で毎朝8時半に行われる死刑執行の呼び出しに怯えた日々を振る返り、今でも夢を見て夜中に飛び起きると独白しています。 最近免田栄さんは「免田事件」に関する様々な資料を熊本大学の文書館に寄贈しました。今後同じような事件が繰り返されないよう資料の活用を願ってのことです。
まとめ
今回は「免田事件」を解説しました。このような理不尽で人権を無視したことが本当に行われたのです。 台無しにされた免田栄さんの人生はとてもお金の価値で量ることはできません。無罪が確定した後も穏やかに生活することができず、ふるさとを去らなくてはいけなかった免田栄さんの心情を思うと心が震えます。この事件を教訓にしなくてはいけない人達はまだまだ大勢いるのではないでしょうか。