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松山刑務所事件は戦後最悪の刑務所内事件。福田和子との関係性や事件の真相は?

もくじ

1分でわかる松山刑務所事件

  • 蟻のひと穴となった一通の手紙という罠
  • 無法地帯の中に飲み込まれた刑務官の倫理
  • 暗闇に消されてしまった国家の不祥事

「松山刑務所事件」は1964年に起きた刑務所内の脅迫、暴行事件です。顔見知りであった暴力団員から手紙の投函を頼まれた刑務官が正規の手続きを経ずに送ってしまったのです。 看守は暴力団員から脅迫されるようになり、幹部職員も含め組員達から脅迫、暴行を受けるようになります。こうして施設内は暴力団員による飲酒や強姦などが横行する無法地帯となっていきます。

松山刑務所事件の概要

「松山刑務所事件」とは収監中の暴力団員が以前から顔見知りであった看守に手紙の投函を依頼します。拘置所内の脅迫・暴行事件はこの1看守の不正行為からはじまります。 松山刑務所内は暴力団員による飲酒、賭博、強姦が横行する無法地帯となっていきます。1看守の気のゆるみから起きた事件は何故ここまでの大事件になってしまったのでしょうか。

1966年の松山刑務所内での事件

1966年に大量収監された暴力団員は顔見知りの看守に手紙の投函を依頼します。看守は手紙を投函した謝礼として暴力団員から金銭を受け取ってしまいます。 これを発端として拘置所内の秩序は乱れはじめ、刑務所内の幹部職員は日常的に脅迫や暴行を受けるようになります。 やがて暴力団員達の行動はエスカレートしていき、刑務所内は飲酒や賭博、女性囚人への強姦などが日常的に起きる無法地帯と化していきます。

犯人は大量の暴力団関係者

大量に収監されていた暴力団員の殆どが1964年6月7日に起きた「第1次松山抗争」の関係者でした。この抗争で逮捕されたのは矢島組が20名、郷田会が41名です。 1度にこれだけの人数が収容されると、看守の仕事を遂行することは非常に困難です。なぜなら舎房担当職員は日常の業務から収容者との接触が多くなります。 それだけに如何に彼らに篭絡されないように、また親和感を生まないように注意を払わなければいけないからです。

事件のきっかけは看守の不正

拘置所に収容された暴力団員は常に看守を篭絡させることを考えています。そこでよく使われるのが正規の手続きを踏まずに、手紙の投函を頼むという手口です。 看守と暴力団員であっても、同じ地域で生活していれば顔見知りになっても不思議ではありません。善意のつもりでやった看守の行為が、のちに大きな事件へとつながっていきます。

囚人らは看守を買収

看守に正規の手続きを踏まずに手紙を投函させることを、暴力団の隠語で「鳩を飛ばす」といいます。それだけ暴力団員がよく使う手口なのです。 看守は礼金を受け取りますが、1度でもこれをしてしまうと暴力団員は不正を上司にバラすなどといって看守を脅すようになります。 これで看守の篭絡に成功した暴力団員は刑務所内の職員は簡単にいうことを聞く連中と判断します。それからは看守に対する脅迫、暴行を次々に行うようになっていくのです。

飲酒、喫煙、賭博に強姦までやり放題だった

刑務官に脅迫、暴行をはじめた暴力団員は所内のカギを使って拘置所内を自由にうろつくようになります。看守が手出しできないことをいいことに飲酒、喫煙、花札ばくち、領置金の脅し取りなどをはじめ、更には女性囚人への強姦を行うようになります。 看守も暴力団員の仲介で女性囚人と性的関係を持つようになり、もはや刑務所内は無法地帯になってしまいました。 強姦された女性囚人の中には1982年の「松山ホステス殺害事件」を起こした福田和子も含まれていたのです。

松山刑務所事件事件のその後

やがて事件は明るみになりますが解決することはありませんでした。不祥事が発覚したのちの1966年6月と7月に副看守2名が自殺し、強姦を付けた被害者からの告訴もなかったからです。 しかし、のちに福田和子の著書によって、法務省が強姦被害者の告訴取り下げを強要していたことが分かりました。事件は国家権力によって闇に葬られていたのです。

第52回国会法務委員会にも取り上げられた

この不祥事は国会でも取り上げられています。昭和41年7月26日に行われた「第52回国会法務委員会」で、当時の法務省刑事事務長の津田寛氏が2名の看守の自殺の件について答弁しています。 また、法務大臣官房経理部長の勝尾氏も松山の当時の捜査状況について検察庁から聞き取りした内容を答弁しました。 答弁によって自殺した2名の看守は検察庁の担当者が事情聴取を進めていた最中に自殺したことがわかりました。

副看守2名が自殺

検察庁の取り調べが進むなか、6月28日に当時の教育課係長であった看守の大森常一氏が自殺します。 更に7月23日に刑務所内の当直室で、管理部保安課配置係長の門屋茂氏が自殺しているところを当直の副看守長が発見しました。 門屋茂氏の遺書には自分は事件に関与していないし、不祥事を起こした3名の看守について自分は裏切られた気分である、といった趣旨がしたためられていたそうです。

強姦被害者の中には福田和子もいた

この刑務所内の不祥事の被害者には、1982年に起きた「松山ホステス殺害事件」の犯人福田和子も含まれていました。 福田和子はこの事件で逮捕された際に、15年前に服役していた拘置所で強姦されたことが逃亡の理由だと話しています。 更に福田和子は移管された高山刑務所でも同様に強姦を受けていました。この時代は囚人を監視する立場の看守が女性囚人に性的な暴行を行う事件を頻繁に起こしていたようです。

公訴時効が成立

昭和41年7月26日に行われた「第52回国会法務委員会」で取り上げられたこの事件ですが、看守2名の自殺や強姦被害者からの告訴もなかったことから、事件の真相が解明されることはありませんでした。 事件の公訴時効が成立したのは、被害者の女性囚人が告訴しなかったことが理由とされていましたが、のちに福田和子の著書で法務省の圧力で告訴を取り下げたことが明らかになります。 しかしこの事件そのものの存在は、国家権力によって社会の闇に消されてしまいます。

まとめ

この事件は看守のちょっとした不注意が切っ掛けとなって起きてしまった不祥事といわれています。しかし同じ地域で生活している看守と暴力団員が顔見知りであっても不思議ではありません。 事件後の松山刑務所は矢島組の保養所のような状態が長い間続き、1972年の移転まで改善されることはなかったと伝えられています。 法治国家である我が国で実際に起こったとは信じがたい事件です。刑務所管理の一層の徹底が重要です。

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